波の狭間に見据える未来 第3話
「そ…そんな事があったんだ…。」
事情を知らない海月に、おばあちゃんは遠い昔話をするかのように緩やかに話していた。
「あの時は助かったよ、おばあちゃんのお蔭で。あと、あいつも。」
拓馬は目を細めて、窓の向こうに視線を向ける。おばあちゃんの家にくるようになってから拓馬は必ず小太郎へのおやつを鞄に持参していた。教材すら入ってないペラペラの鞄には「代わりに小太郎への感謝が詰まってるんだ」と以前、拓馬が冗談めかして言っていた。
前に、いつもあげているお菓子を買い忘れていた時は、わざわざホームセンターまで買いに付き合わされたこともあった。
「今日くらいいいんじゃない?」と僕と静香が口にすると、「あいつは命の恩人だからさ。」と言って拓馬はへらっと笑った。
拓馬のそういう所が僕は好きだ。
人として尊敬もしてる。少々短気な所もあり何かと勘違いされがちだけど、根っこの部分は温かく人情味で溢れてる。
「お前っていい奴だよな。」
心の声が気づけば喉元を通り、声に乗って放たれていた。
拓馬は一瞬目を丸くし、「なんだよ突然気持ち悪りいな」と後頭部をがしがしと掻く。その姿をみていた静香は、悪戯な笑みを浮かべる。「何照れんのよ」と拓馬の脇腹を肘で小突き、家の中に笑いが溢れた。
僕ら四人とおばあちゃん。この五人で生まれる空気感が好きだ。穏やかな時間っていうのは、今みたいなことをいうのだろうか。心なしか頭上で灯る乳白色の照明が明るくなった気がした。
「あんた達、今この瞬間を生きてる幸せを忘れるんじゃないよ。」
僕がそんなことを考えていると、柔らかな声が降ってきた。おばあちゃんは手にしている湯気の立ち昇るお茶を啜り、僕たちの目を順にみる。それから、ゆっくりと、ただ穏やかに、言葉を大切に大切に紡ぐように、言った。
「いいかい、若いうちってのは自分で思ってるよりもうんと早く終わる。なのに、大人は勉強をしろだの、いい会社に行く為にいい大学に入れだの言うだろう。でもね、人生は勉強だけが全てじゃない。人を相手にして初めて学べることも沢山ある。それは教科書じゃ教えてくれない大切なことさ。だから、今、目の前にいる仲間を、一瞬一瞬を大切にして生きなさい。」
この場にいる全員がその言葉に耳を傾けていた。僕は、まるで長く長く続くトンネルの先でひかりを見つけたかのような気分になった。おばあちゃんの言葉は染み入るように僕の胸の中に入ってきたのだ。若いうちは一瞬で終わるという言葉は今までにも何度も聞いてきた。だが、そのどの言葉よりもおばあちゃんの言葉を胸に留めようと思った。
僕たちとは比べものにはならない程の長い年月を生きてきたからこそ導き出した答えだろう。勿論全てが正しい訳じゃないかもしれない。でも、まだ十六年しか生きていない僕たちにとって、この先も続く長い人生の道標になるはずだ。
そう思ったのは僕だけじゃないらしく、向かいに座る静香と拓馬と目があった。二人とも感慨深いものがあったような顔をしていた。隣に座る海月の方にも視線を移そうとした時、海月は「ちょっとごめん、トイレ。」と言って席を立つ。
なんとなく一瞬目が潤んでいたようにみえたのは気のせいだろうか。
おばあちゃんは海月がトイレに入るまでの間、目で追いかけていた。扉の締まる乾いた音が響くと、目尻を下げ僕たちを見渡したあと口を開いた。
「あの子は何かを抱えてる。だから、あんた達が傍で支えておやり。いいかい、決して無理に聞き出したりするような野暮な真似はするんじゃないよ。あの子が心を決めて話すまで待ってあげるんだ。」
全員が息を呑んだ。さっきまでとは違い、おばあちゃんの目は真に迫るようなものを放っていたからだ。僕たちはただ頷いた。
海月が抱えているものって一体何なんだ。
確かに一度は僕の前で死のうとしていたことはあったが、あの日以来その事実が嘘かのように明るく過ごしている。
一つの疑問が芽を出し、胸の中にもやもやとしたものが生まれた。
扉の開く音が鼓膜に触れると、おばあちゃんは「わかったね?」と改めて僕たちをみた。今度は陽だまりのような笑顔を浮かべながら。僕たち三人は黙って頷いた。
海月は席につくと、「なんの話?」と聞いてくる。僕は「何でもないよ」と言ってお茶を濁し、静香と拓馬も視線を反らした。
海月はひとり首を傾げていた。
○
最近学校に行くことが楽しいと思えるようになった。きっと響達のおかげなんだろうな。未だに私はクラスでいる時は一人だけれど、昼休みや放課後になれば響達と過ごせる。それだけで、心が踊った。
そんな毎日を過ごしている内に心にゆとりが出来たのか、私の心にひかりが差したからなのかは分からないけど、クラスメイト達をたまに観察してみることが好きになった。今日は、休み時間に三人の男の子達が話してた会話が可愛くて、耳を澄ませて聴いてみた。どうやらその男の子の内の一人は、海辺で捕まえてきたくらげをバケツに入れて家に持ち帰ってみたはいいものの、すっかりとそのことを忘れてしまい、二日が経ち思い出した頃にはそのバケツの中からくらげが消えていたらしい。その話を聞いて、一人は「嘘つけ」と笑い、もう一人は「お前が食べて忘れてるだけじゃねぇの」と若干小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。二人は信じていなかったけど、私は気になって家に帰ってからネットで調べてみた。
その結果、その男の子の話していた内容は本当だということが分かった。どうやらくらげの体を構成する物質の90%以上は水で出来ているらしく、陸地に打ち上げられたくらげは蒸発して消えるらしい。でも、そんな風に死ぬくらげはごく一部で、大抵は死を迎えると海の中で溶けて消えるということが分かった。
人によって得る情報の受け止め方は様々で、もしあの男の子達がこれを知ったとしても、ただ感心するだけで終わると思う。
でも、私は違った。
私は、運命だと思った。
私と同じ名を持つくらげに、憧れを抱いてしまった。“死を迎えたくらげは、溶けて消える”それを知った瞬間、なんて美しい生き物なのだろうと思わずにはいられなかったのだ。
くらげに意思があるかどうかは分からない。でも、もしあるとしたら、きっとそれは海の中を揺蕩う内に出会った友達や家族の為に、死を迎えた自分のことを忘れられるように、前に進めるようにそうしているんじゃないだろうか。
あの男の子には感謝しなくちゃならない。
おかげで、私には夢が出来た。
なんてことない小さな夢だ。
私は、くらげになりたい。
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