蒼ざめたいちごショートケーキ殺人事件〜怪盗タビー伯爵と探偵ブラン
水玉猫
アルカンシエルの砂時計屋
窓の向こうで、点灯夫が街灯に一つ一つ星を入れている。点灯夫は、リーリという名だ。
—— もう、そんな時間か。
あむは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「蒼ざめたいちご暗殺事件」の続きを書こうとタイプタイターに向き直ったが、まるで気が乗らない。
腰に下げた星入れを揺らしながらリーリの姿が見えなくなると、あむは立ち上がり、コーヒーを淹れに行った。
街灯に点る星灯りは、ペールベリーのようだ。あむは、いつも、そう思う。しかし、実際にペールベリーを見たことはない。見た人は、ほとんどいない。
熱いコーヒーとスパイスクッキーを持って戻ってくると、窓の外がざわついている。警察のサイレンの音もこちらに向かっているようだ。
まさか、また、タビー伯爵がお出ましになったんじゃないだろうね—— あむは苦笑いをして、火傷しそうに熱いコーヒーを慎重に啜った。
タビー伯爵は、最近、世間を騒がしている正体不明の宝石泥棒。伯爵が今一番欲しがっているのが、ペールベリーだ。
あむの頭に執筆中の「蒼ざめたいちご殺人事件」の新たなアイデアが浮かび、忘れないうちにメモしておこうと思った途端、足音も荒く階段を登ってくる者がいる。あむは、ため息をついた。
乱暴にドアを開けて入ってきたのは、案の定、姉のありあだった。
「ねえさん、また、失恋したのか」
ありあはお菓子の箱をテーブルに置き、コートを椅子の背に放り投げた。あむのカップから、コーヒーを一口飲むとすぐに吹き出す。
「熱っ! わたしが猫舌なのは、知ってるでしょ、あむ」
「知ってるけど、それは、ぼくのコーヒーだ」
ありあは、カフェインが苦手で、いつもノンカフェインのタンポポコーヒーを愛飲している。本物のコーヒーを飲むときは、やけっぱちになっているか苛立っているときだ。椅子の背に掛けたコートが皺になるのも気にせず、ありあはどかっと座った。見掛けによらず、子どもなんだと、あむはスパイスクッキーをかじっている姉を横目で見ながら思った。
「このクッキー、しけてるよ、あむ」
「クリスマスの残りだからね」
ありあが持ってきたお菓子の箱を開けると、ショートケーキがひっくり返っている。
「あんたに、おみやげ」
「それは、どうも」
あむは箱の中のショートケーキを起こした。
コンコンとドアを叩く音がする。
「ねえさんに、お客さんだ」
「わたしにじゃない、あんたによ」
開けっ放しのドアを空々しくノックしているのは、ふたりには顔なじみのアルカンシエル警察の捜査官スパークだ。制服の警官も従えている。
「これは、これは、ありあ嬢も、いらっしゃったとは」
スパークの頬が緩んでいる。スパークは、ありあが女優だったときからの熱烈なファンなのだ。
「こんばんは、捜査官。もう、閉店しておりますのよ。わたくしも、これから、帰るところですの」
ありあは立ち上がると、脱いだばかりのコートをふわりと羽織った。立ち振る舞いの一つ一つが絵に描いたように美しい。
「玄関は開いておりましたよ、ありあ嬢。倉庫のドアも」
ねえさんが開けっ放しで、三階のぼくの部屋まで上がって来たからだ—— あむは指に付いたクリームを舐めながら、ありあを睨んだ。
「少々、お時間をいただきたい。お帰りの所、ありあ嬢には恐縮ですが、あむ君に尋ねたいことがありましてね」
ほらねというように今度は、ありあがあむを肘で小突いた。
「
「タビー伯爵ですって? まあ、なんて恐ろしい!」
ありあの顔が、さあっとペールベリーのように蒼ざめる。2年前若くして引退するまで、ありあはカメレオンと揶揄されるほどの美貌の演技派女優だったのだ。
スパーク捜査官は、ありあに椅子を勧められ、腰を下ろした。
「ご心配なさらず、ありあ嬢。わたくしどもが、おりますからね。ところで、あむ君は、いつから、ここにいるのかな」
「今日は午前中だけで店を閉めました。それから、ぼくはずっとここにいました」ねえさんは今来たんだけどねと、あむは心の中で続けた。
「ほう。店の玄関は開いていたが」
だから、ねえさんが開けたんだ—— あむがどう返事しようかと考えていると、ありあが言った。
「倉庫で午後からずっと在庫の整理をしていましたのよ。一度、配達員が来たので、その時に玄関を開けてそのままだったんですわ」
「それにしては、お二人ともお綺麗な格好だ。ありあ嬢、弟のあむ君を庇いたい気持ちはわかりますが、嘘はよろしくありません」
「わたくしが、なぜ、嘘を」
「スパーク捜査官、来てください!」蜘蛛の巣と埃だらけの警察官が、階段を駆け上がって来た。
「お宅の倉庫は、砂時計の落ちた砂の中にあるようですからな。砂の数ほどの埃と蜘蛛の巣に埋もれている。一歩でも中に足を踏み入れると、このような姿になる」
「捜査官、倉庫に、アズール家の紋章入りの
「タビー伯爵に盗まれたエクランか!?」
「はい。倉庫の入り口から投げ込まれたようです」
あむは、ありあの顔をチラリと見た。
捜査官は椅子から立ち上がると、蜘蛛の巣だらけの警察官といっしょに倉庫のある二階に降りて行った。
マガザン・デ・サブリエ—— magasin de sabliersは、アルカンシエルの街でただ一軒の砂時計の店。名前もそのまま、
古ぼけた煉瓦造りの一階が店舗、二階が倉庫。三階の屋根裏が物置とあむの住居になっている。
客は滅多にやってこないから、あむはいつも昼過ぎに店を閉めて、自分の部屋でタイプライターを打っている。
執筆の邪魔が入るとすれば、ありあがやってくるときだ。
今夜は、警察まで連れてきた。その上、倉庫に盗まれた宝石箱ときた。
まさか、ペールベリーではないだろうな—— あむは、鼓動の高鳴りを抑えられない。すぐにでも、ありあに尋ねたいのだが、迂闊に聞くわけにもいかない。閉まっているとはいえ、ドアの前には警察官が立っている。捜査官は、あむが逃亡しないように見張りの警官を残していったのだ。話し声がすれば、ドア越しに聞き耳を立てるだろう。
それにだ。姉は、弟が知っていることに、未だ気付いていないのだ。
ありあはまたコートを椅子に放り投げた。箱の中からショートケーキを出すと、
「ねえさん、そのショートケーキは、ぼくへのおみやげじゃなかったのか」
「ほら、お食べ」
ありあは食べかけのショートケーキをあむに渡した。
しばらくして、スパーク捜査官が厳しい顔で戻って来た。
「あむ君、署まで来てもらおうか」
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