第10話 一日目の朝
(ですがそうであったとしても、ステア王国を数々の成功に導いてきた星が、わたくしを選んだというのも事実)
上を見ることにも、下を見ることにも意味はない。アネリナがやるべきことはただ一つ。
(覆せない聖女の言葉としてわたくし自身を救い、ニンスターにも咎が及ばないようにする)
帝国の権力中枢に近い者の生活様式についてなど、身代わりでしかないアネリナに手を出せる問題ではなかった。
「心配すんなって。人間は慣れる生き物だ」
「良き部分でもあり、悪い部分でもありますね」
慣れは安心と安定を生み、ゆえに変化を怖れる心も生み出す。
(慣れすぎてしまわないよう、気を付けましょう。ここは所詮、仮初めの居場所)
「さ、行くぞ姫さん」
「はい」
どうやら寝室は私室のさらに奥に小さめの部屋を作り、分けられているようだった。生活の全てを一つの間取りでまかなっていた身としては、どうしても贅沢と感じずにいられない。
部屋を移ったその先にあったのは、ベッドを家具の中心に置いた空間。
銀糸で飾られた真っ白なレースの天蓋を避け、アネリナはもう、無心で横になることにした。
アッシュはいつも通り、扉近くの床に座って目を閉じる。
「これだけ広ければ、貴方も横になって寝られそうですね」
塔の牢の中が狭かったのと、アッシュ自身の意向で彼が横になって眠ることはなかった。いわく、そもそもあまり熟睡をしない性質なのだと言う。
それが気遣いなのか真実なのか、未だアネリナには判断できずにいる。
「……さて。どうかね」
望むとも、望まないとも分からない返事。
「おやすみなさい、アッシュ」
「ああ、おやすみ」
横たわったアネリナの体を受け止めたベッドは、心地よい弾力と共に、香しい花の薫りで鼻腔を満たす。
ろくに誰も使わないという部屋にも凝らされた贅。
それをまざまざと感じて――必要なのだろうとは理解しても、同時に抵抗を感じてしまう。
(必要のない必要を生み出す無駄よりも、もっとやるべきことがあるはずなのに)
なぜ世の中は、正しきことで回らないのか。
アネリナには不思議でならなかった。
「――起きろ、姫さん。人の足音だ」
「はっ」
そっと肩を揺すられつつ掛けられた声に、アネリナの意識は一気に浮上し、勢いよく目を開く。
そうして目は開いたものの――。
(か、体が重い……っ)
この一晩で、一体何が起こったというのか。泥になったかのように力が上手く入らず、重たい。自分の体だというのに、まったく自由にならなかった。
「どうした」
「……どうしたことでしょう。体に力が入りません」
「何?」
アネリナの答えに、アッシュの瞳に剣呑な光が宿る。
「悪いな、少し触るぞ」
許可を得るためではなく、宣言として言い切ると、アッシュはアネリナの腕や足を、なぞるように触れていく。
「う……。す、少し、楽になっていく気がします……」
アッシュにマッサージの意図はなかっただろうが、アネリナの体はそれを快く受け止めた。
「……異常は、ないな。ただ体の疲れが出ただけだろ」
ほっとしたような呆れたような、丁度半々ぐらいの声音で言い、アッシュは安堵の息をつく。
「そうかもしれません。……困りました。起きられません」
「無理に起きなくてもいいって」
「しかし」
人に会うような姿ではない。ためらいにアネリナは眉を寄せる。
しかし無情にも、時はアネリナの焦りを考慮してはくれない。控えの間と私室を分ける扉の開閉音が微かに聞こえたと思ったら、すぐに寝室の扉が叩かれた。
「ユディアスだ。起きているか?」
「ああ、問題ねえ」
「ア、アッシュ!」
さらりと答えたアッシュに、アネリナは慌てた声を出す。
(どう考えも問題があります!)
片肘を着いてどうにか半身までは起こしたものの、来客を迎えるのに相応しい姿勢でないことは一切変わっていない。
「……問題があるか?」
ユディアスはアッシュの許可よりも、アネリナの狼狽した声の方を優先した。扉を開けることなく、そのまま訊ねてくる。
「ちょっとばかし体調不良で、姫さんが起きられなくなってるだけだ。話はできるから問題ねえ。さっさと決めること決めちまおうぜ」
言いながら、アッシュはアネリナにも目線を送って来た。
理解をしろ、ということだ。
(……そうですね)
どう考えても、今優先するべきはアネリナが勝手に抱く羞恥心ではなく、これからのためのすり合わせだ。何しろ、時間は人の都合では動かない。
「うろたえてしまい、申し訳ありませんでした。大丈夫です」
「と、言うことだ」
アネリナが納得してうなずくと、アッシュは扉に手をかけて開く。
開くことは決めていたわけだが、それでもアネリナの心が落ち着くまで待ってくれたのだ。
その気遣いに、アネリナは感謝をする。
「お見苦しい姿で、失礼します」
「無理はしなくていい。楽にしてくれ。――余程神殿の空気が体に障ったか?」
「逆だ、逆。快適過ぎて、ドッと疲れが出たんだな」
星告の塔の牢の中では、心身が本当の意味で休まる日など一日たりとてなかった。
(それでも、随分慣れたものだと思っていたのですが……。思っていたほどには慣れていなかったのですね)
「神殿に問題がないのならば、よかった。……しかし、それならば案外、都合がいいかもしれない」
「都合、ですか?」
「聖女ユリアは十年前の建国祭を最後に姿を消している。ようは私に限界が来た、というだけの話だが。公的には病弱ゆえに表に出られなくなったと公表してある」
「そうだったな」
それきり聖女は姿を消し、星の導きが告げられることもなくなった。
故に皆が思ったのだ。おそらく、聖女ユリアはもういないのだと。
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