第2話 星神殿エイレ・アイオーラ
「んんっ……」
とっさに閉じた瞼の先で、紅の光が消えた後。
アネリナがそっと目を開けると、視界に入って来たのはまったく見知らぬ光景だった。
青みがかった光沢のある石壁で作られた、小さな部屋だ。四方に掲げられた篝火からは、殆ど脂の匂いがしない。上質な代物だと察せられる。
そして気が付く。
自分以外の体温が、体に触れていることに。
「無事か? 姫さん」
「だ、だ、大丈夫です。離れてください」
頭のすぐ上から降ってきたアッシュの声に、うろたえつつアネリアは答える。護るために囲われていた腕が解かれ、密着していた体を僅かに離した。
「ここは――」
「転移の間だ。今は少々、手を加えさせてもらっているが」
「!」
聞き慣れない声のした方を振り向けば、手を後ろに組んで佇む一人の青年の姿があった。
年の頃は二十一、二で、艶のある銀の髪に紫の瞳をしている。その佇まいや身を包む衣装は上品で、一目で貴族以上の身分と知れた。
「貴方は、何者ですか。そして目的は何です?」
「慌てるでもなく、状況確認か。肝が据わっているな。こちらとしてもその方が助かる」
アネリナの問いかけに対し、青年は甲の方を二人に向けて右手を持ち上げた。その中指には、聖花シャロアの意匠がされた指輪が填まっている。
聖花シャロアを意匠として用いることが許されているのは、エイレ・アイオーラ星神殿のみ。
(花の色は金……。位階二位、つまり大神官)
「私の名はユディアス・レスタメンテ。大神官を務めている者だ。聖女ユリアの補佐官でもある」
「何だ、聖女様はまだ生きてんのか。十年前の建国祭以降出てこねえから、とっくに死んでるのかと思ってたぜ」
「アッシュ」
あまりに明け透けな言い様に、アネリナは咎める声を出す。
ただし、心情的にはアッシュに同意している。そもそも表舞台に出てこない時点で、政治的には死んでいるのも同然だ。
死んだと言えないから、言わないだけ。国民の多くも同じ判断だろう。
「聖女と呼ばれる者は、一応、死んではない。ただ表に出られないだけだ。何しろ先帝の娘、聖女ユリアと今呼ばれている者は私なのでね」
「はァ!?」
アッシュは素直に疑いの声を上げ、アネリナは目を瞬いた。ユディアスはどう見ても女性には見えない。
「少々長い話となるのだが……。十八年前の政変を覚えているか?」
「……たりめーだろ」
「わたくしはまだ生まれていませんが、話はよく聞きました」
それはアネリナとアッシュにとって、日々の平穏を奪った憎むべき始まりの日。
皇帝が暗殺され、その弟である現皇帝がその座を奪った。
融和と共栄を掲げていたステア帝国の在り様は一変し、前身たるステア王国民を頂点とした厳しい階級制度を導入。
アネリナたち『外』の人間の扱いも軽いが、さらに悪辣だったのは人間種以外の種族――獣人族、精霊族、魔族たちだ。
彼らは人族に隷属するために生み出された労働力として、最低限の尊厳さえも認められていない。
「先帝を弑逆した現皇帝は、己が帝位に就く以前の体制の影響力を削ぐのに必死だ。我ら星神殿エイレ・アイオーラもその一つ。代わりに星占殿などと、役にも立たない役職を新設したほどだ」
因縁浅からぬその名前に、自然、アネリナの眉は寄ってしまった。隣のアッシュも同様だ。
「我ら星神官は、星の導きを受け、国を安んじるのが役目だ。だが代わりにと作られた星占殿がどれだけ役に立っていないかは、すでに多くの者の知るところだろう」
「ええ、とてもよく」
予見できなかった大災害が起こったとき、それらはすべてアネリナに責任を求められてきた。
星の導きが得られなかったのは、民が敬意を忘れたからだと。ゆえに、民の代表となる、星の加護を一等強く持った高貴な娘が己を鑑みれば、星は再び導きを与えるだろう、と。
そうした星占殿と現皇帝の言い訳のために、立場の弱いニンスターから生贄が選ばれた。
それだけの下らない、実のない行いである。
「実もない、意味もない。それでも、他に元凶を作って責任を押しつけてしまえば、構わないと思っているのだ。彼らにとって重要なのは現実の民の生活ではなく、宮中という箱庭で己の地位を守ることだから」
「とても、為政者の姿とは思えませんね」
「それでも奴が皇帝だ。腹立たしいことにな」
ユディアスの発した言葉に滲むのは、怒りと諦め。
そこに自分と同じものを感じ取ってしまい、アネリナは驚きによって忘れていた胸の内の炎がざわめくのを感じる。
「話を戻そう。奴らはこの十数年で、星の加護が真に存在していることを理解した。そして自分たちには、その導きを受け取る力がないことも」
「理解していなかったのですか……」
ステア王国が帝国になり、その領土を拡大し続けられた要因として、この大陸に暮らしているなら知らない者などいない。
それを国政に携わる人物こそが実感していなかったとは、とんだ笑い話だ。
「我ら星神殿は政治的には抹消したい。しかし存在を失わせるわけにはいかない――という意図で、今は中途半端な扱いになっている」
「目には視えないものの価値を、失ってから気が付く。愚かなことですね」
「その通りだ。だが、視えないからこそ気付きにくいのも事実。愚か者になりたくなければ、我々もそれを忘れてはならない」
「……耳に痛いお言葉です。胸に留めておきましょう」
アネリナの頭の中にあったのは、星占師たちの姿だけだ。怒りに支配されて己を見失っては、愚かと蔑んだ星占師たちと同じになってしまう。
ユディアスの言葉に、アネリナは深くうなずいた。
「星神殿が賜ってきた星の導きにより、ステア王国は様々な危機を乗り越えてきた。長雨や日照りの予見が成されれば備蓄を増やし、飢えを逃れ、人を護り、国力の低下を防いだ。戦においては陣の弱所を見通し、得るべき人材を常に見出した」
「そうでしたね」
とはいえ、先代までのステア帝国はむやみやたらな侵略戦争を仕掛けていたわけではない。市井の民の声に応じた侵略が殆どだった。
自国の名前が消え、帝国領になった方が民が喜ぶ――そういう国が飲み込まれていったにすぎない。
大陸でもっとも豊かで繁栄を築き、民の笑顔が絶えない国。それがステア帝国だった。
十八年前までは。
ニンスター王国は帝国と比べるべくもない小国だったが、帝国は常に、対等の友好国としての姿勢を崩さなかったという。
アネリナの父である王もまた、先帝には敬意を抱いていた。その話を聞いて育ったアネリナにも、先帝に対する悪感情はない。
しかしかつての繁栄を実現させてきた高官たちはもういない。殆どの者が政変の折りに処断されたと聞く。
「ああいった連中ほど、保身には懸命だ。星の加護を願う建国祭に、必ず聖女を出せと言って来た。……あんな奴らの都合はどうでもいいが、今年は十年の節目。星の血筋の者が儀式を行う必要があるのは間違いない」
必要がなければそれでも突っ撥ねたそうな口振りだ。
「加護を失い厄災が増えれば、苦しむのは罪のない一般の民だ。受けるしかない」
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