厄災の生贄姫、身代わり聖女に転身する

長月遥

第1話 生贄姫の終わり

 毛足の長い絨毯に、磨き抜かれた一級品の家具。

 見事な調度品に囲まれた薄暗い部屋の中、部屋の奥の鉄格子がはまった窓の側で、少女がぼんやりと外を眺めていた。

 青みがかった美しい黒髪に、紫の瞳。膝の上で揃えて置かれた手も、窓に向けられた横顔も、ぴくりとも動かない。

 緩慢な瞬きと、微かに繰り返される呼吸。その二つがなければ人形と見紛うほどに、彼女にはおよそ生気というものがなかった。


 どれ程時間が経ったか。不意に、外から複数人の足音が近付いてくる。

 その集団は、殊更音を立てて歩いてきたわけではない。しかしこの静寂が支配した空間の中では、耳障りなほどよく響いた。


 がちゃん、と重たい鉄の錠前が開けられる音がする。


 扉の先で、数秒。

 おそらく来訪者は扉を開けられるのを待ったのだろう。

 しかし本来その役目を果たす必要がある、扉の側の椅子に座った赤毛の青年は、興味なさげに鋭く伸びた己の爪を磨いている。

 焦れたように、外から扉が開かれた。


「アネリナ姫、お役目にございます」


 室内に入ってそう声を掛けたのは、四十手前の男性だった。銀糸で精緻な文様を星のように散りばめた、柔らかな黒の外套を羽織っている。


「今度は、何です?」

「南方の地で、虫害による不作が起きましてございます。星の神占により、アネリナ姫には今後一年、麦を食するのを控えていただくことになりました」


 主食を控えて、何を食せというのか――などと彼らに問うても無駄なことは、アネリナはもう充分、知っていた。


「左様ですか」

「高貴なるアネリナ姫が身を慎むことで、大地は我が国に、民に、癒しを与えるでしょう。姫の献身に国民一同、感謝申し上げます」


 恭しく頭を下げながらも、星占師の声には隠しきれない喜色が滲んでいる。

 高貴な身分に生まれた美しい娘に、己の裁量一つで苦行を与えられる、下卑た喜び。他者を虐げることを逸楽とする、醜悪な笑みだ。


「幸いです」


 眉一つ動かさずに応じたアネリナに、星占師はつまらなさそうな顔をする。

 事実、期待外れだったのだろう。彼はアネリナが嘆き苦しむ姿を見たかったのだから。


「姫の御心は、すっかり冷えてしまったようだ。その様では、御子の役目も果たせますまい」


『神子』とやらに選ばれたアネリナがこの塔の牢獄に連れてこられたのは、七つのときだ。


 それからは長雨が降って水害が起これば一日に飲む水の量が限定され、火事が起これば凍える寒さの中でも暖を奪われ、獣が人を襲えばその獣の加工品を身に着けることを禁じられてきた。


 しかしそれで何が変わったかといえば――何も変わっていない。

 アネリアが身を慎もうと慎むまいと水害は起こるし火事も起こる。理由があれば獣も人を襲う。


 ようはただの、生贄なのだ。人を嗜虐することに喜びを覚える、この腐った下種共の。

 分かっていても、アネリナに抗う術はないのだが。


「姫が役目を果たせず国に混乱をもたらしたとなれば、ニンスター領に責任を取っていただく必要がありますな」

「わたくしも、もう十七です。物を知らなかった子どもの頃とは違います。大切なお役目を果たすのに、何を動じることがございましょう」


 視線さえ動かさず、アネリナは心にもない、しかし建前として瑕疵のない言い分を言い放つ。


「用は済んだろ。さっさと消えてくんねえか。この部屋は換気も満足にいかなくてね。腐敗臭に長居されると迷惑なんだわ」


 これまでやり取りを黙って見ていた青年が、つまらなさそうに口を開く。


「口の利き方に気を付けろ、卑しい獣風情が。死にたいか」

「殺す算段が付いてから口にしろよ、そういうのは」


 せせら笑う青年の口調には、言葉通り、怖れの類は一切存在していない。

 それは星占師にとって、酷く不愉快なことであった。なぜなら青年の言葉は事実であり、星占師はすでに幾度となく、彼を害することに失敗している。


「星占師殿は、お忙しい身です。ここで時間を浪費することもないと、アッシュは貴方様を心配しているのでしょう」

「……ふん」


 苛立たしげに鼻を鳴らし、しかしそれ以上二人を攻撃するカードを持っていなかった星占師は、諦めた様子で踵を返す。


「次の星告を楽しみにしておくことですな」

「お役目、ご苦労様です」


 捨て台詞も、アネリナに響いた様子はない。締めの言葉を契機に今日の訪問の用件は全て終わったとして、彼女は相手の存在を切り捨てただけだった。

 大仰に外套を翻し、星占師の一団は去っていく。

 その足音が来たときよりも荒れていたように感じたのは、アネリナの気のせいではあるまい。

 ほんの少しだが胸が空いた気分で、唇に僅かな笑みを刻む。


「いいのか。次こそ絶食を求めてくるかもしれないぞ」

「心配要りません。そのようにわたくしが死の危機に瀕する類の内容が通るのなら、あの野郎はとうにもっとわたくしを辱めているでしょうから」

「『あの野郎』はやめとけ、お姫様」

「失礼。では『あの御仁』とでも置き換えておいてください」


 淡々とした口調を崩さないまま、アネリナはそうのたまった。


「やれやれ。会った頃は深窓のご令嬢そのものだったってのに、いつからそんなに口が悪くなったかね」

「さて。唯一の話し相手の影響でないとすれば、他の要因が思い当たりませんね」

「そいつぁ言いがかりってもんだ。影響はあくまで影響。テメーの形を決めるのは、結局のところはテメー自身。責任転嫁はいけねえな」

「ふむ。一理あります」


 真面目くさった調子でアネリナがうなずくと、アッシュは吹き出し、盛大に笑った。アネリナも口元に手を添え、小さく笑う。


「貴方には感謝しています。ここに来たのが貴方でなければ、わたくしはとうに心を病み、かの御仁を悦ばせ、早々に代わりの生贄を国に出させてしまったでしょうから」

「そうかい」


 言葉こそ素っ気ないが、アッシュの口調には照れと、嬉しさが滲んでいた。それを聞き逃すほどアネリナも鈍くはなく、口元には穏やかな笑みが浮かんだままだ。


「変わったお姫様だよな。獣人である俺に、感謝とか」


 人のものとは明らかに違う、獣の特徴を持った耳と、垂れた尻尾。アッシュのそれは狼に類するように見受けられる。

 その特徴はほんの十数年前に帝国と戦争をして敗れ、隷属させられた獣人族であることを示していた。


「おや。わたくしは貴方の耳も尻尾も好きですよ。それに大切なのは、肩書でもなければ生まれでもない。人となりです。星占師のクソ野郎どもを見ていれば分かるではありませんか。あいつらは、あれで貴族の出なのですよ」

「姫さん、言葉言葉」

「失敬」


 欠片も反省していない様子で、アネリナは軽く謝った。


「外見と、優れた能力と絶対数の少なさで迫害されている貴方たちと比べるのは、程度が違うと怒りを買うかもしれませんが」


 不遇を強いられようと、アネリナに直接の命の危機はない。だがそれを承知で口にせずにもいられなかった。


「わたくしはむしろ、貴方たちの方に親近感を覚えます。我がニンスター王国――今はニンスター州も、現皇帝による侵略戦争で敗け、帝国に併呑された土地ですからね」


 圧倒的な立場の弱さ。

 理不尽を押しつけてくる相手への怒りと、どうにもできない己の弱さへの怒り。

 アネリナの心の中には、いつも炎が渦巻いている。


「……しっかし、飯、どうなるのかね。肉類禁止もまだ明けてないんだぞ。忘れてんじゃねえか、あの野郎」

「根菜も禁止でしたね。まあ幸い、米の禁が明けるのが一週間後です。それまでは葉物でしのぎます」

「草食動物じゃねえんだけどな……」


 げんなりとした様子でアッシュは息をつく。


「この牢獄にいる限り、貴方もわたくしと同じ物しか食せません。職を辞すことは可能かと思いますよ。貴方は、星占師殿の期待には応えられていないでしょうから」

「次の誰かがあんたを凌辱すると分かってて立ち去れと? ハッ、冗談よせよ。テメェが助けられる相手を見捨てるほど、腐っちゃいねえぜ」


 迫害される生活を送っていたアッシュは、当然豊かさとは無縁だった。

 その粗野な振る舞いからアネリナを害することを期待されて送り込まれた存在だが、星占師には見る目がなかったということだ。


「わたくしに、貴方の厚意に返せるものはありませんよ。きっと、この先も」

「見返り求めて行動する奴なんざ三流だよ。俺はテメェがそうしたいからしてる。それだけだ」

「……そうですか」


 微塵も揺らがずに言い切ったアッシュに、アネリナは静かに目を閉じる。


「無礼を口にしました。人間は、貴方たちのように美しい心映えを持つ者が稀なのです」

「その強かさが、俺は結構好きだけどな」

「ふふ。強かさ、ですか」


 確かに、そう称することもできるだろう。獣人族の心性を、愚直と笑う者がいるのと同じように。

 アッシュの好意を感じる度に、アネリナは迷う。


(わたくしは、このままでよいのだろうか)


 この牢獄の中で下種の玩具として生を繋ぎ、ひっそりと息を引き取る。それがニンスターの姫として、アネリナにできる唯一のことだった。


(けど――けれど、わたくしは……)


 反抗の心が、時折激しく暴れたがる。己のために苦を分かち合ってくれる相手を前にすれば、尚更だ。

 そんなアネリナの心に応えたかのように、不意に足下から紅の光が立ち昇る。


「えっ!?」


 それが幻視でも錯覚でもないことにすぐに気が付き、アネリナはぎょっとした。


「姫さん!」


 異変と同時に立ち上がったアッシュが駆け寄り、アネリナを護るようにその身を抱き締める。直後、紅の光は輝きを増し、二人の姿を覆い隠す。

 そして光が消えたときには、出現した魔法陣もろとも二人の姿は消えていた。

 跡形もなく。

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