[3]彼女は「なんでもないの」と云ったけれど。





「――102イチマルニです、おねがいします」

「はーい、行ってきます」

 金曜日。ランチ目当てによく来る常連のおばさんグループが帰っていったあと。僕はいつものように清掃セットを持って102号室に向かった。

 おばさんたちは学生の団体とかと違って、散らかしたり汚したりなんてことのまずない、いいお客さんだ。食べたランチの食器もトレイもきちんと重ねて端に置いてあって、ゴミも室内にあるゴミ箱を使わず、まとめておしぼりの袋に入れてあったりする。それでもいちおうはマニュアル通りの作業をする。使用済みのマイクを回収し、消毒済みのものに取り替え、テーブルを拭いて、目次本、電目デンモク、電目のマニュアル、メニューを丁寧に並べ、ざっと室内を確認して終了だ。

 そしてワゴンに回収するものを乗せると、僕はいつものように天井の隅に設置してあるカメラに向かい、ダンスを始めた。マイケル・ジャクソンの〝スリラー〟を、僕は昨夜ウェブで動画を視ながら練習したのだ。ミュージックビデオを撮影したジョン・ランディス監督の『ブルース・ブラザーズ』や『大逆転』も、ざっとおさらいしてきた。何度も観た大好きな映画だ。

 我ながら莫迦じゃないかと思わなくもなかったが、これでまた仁村さんと話が盛りあがるなら、僕は努力を惜しまない。

 一通りの振りをやったあと、僕は期待に口許を綻ばせながらフロントに戻った。

 だが、そこに仁村さんの姿はなかった。

 あれ、どこへ行ったんだろうと僕はワゴンのグラスや皿を洗い場に置きながら、厨房にいた高桑さんに「仁村さんは? フロントからだけど」と尋ねた。

「ああ、なんか店長が来て一緒に事務室に入ってったよ」

「あ、店長来てんだ」

 店長自らシフトに入るのは専ら夜だ。いつも僕らと入れ違いくらいの時間に来て、夜中の二時頃にレジ締めや閉店処理をしてから帰宅するという店長が、朝から店に来ることはほとんどない。来るのは僕が入ったときのように、新しいスタッフを雇い入れるときくらいだろう。けれど、今はもうアルバイトなどの募集はしていないはずだ。シフトの変更かなにかだろうか。それともまさか、仁村さんが辞めるとか――ふとそんなことが頭に浮かび、僕は気になってたまらなくなった。

「高桑さん、ちょっと除菌スプレー取りに行くんで、そのあいだフロントおねがいします」

「はーい」

 フロントから事務室は目と鼻の先、間には更衣室があるだけだ。僕はそう声をかけ、事務室の様子を窺いに行くことにした。が、そのとき。

 勢いよく開いたドアから早足に出てきた仁村さんは、見たことのない険しい表情をしていた。

 思わずお互いに足を止め、目が合った。仁村さんは一瞬はっとした表情になり、そのまま僕から顔を背けるようにして更衣室の中へ入っていった。さすがに僕は追いかけて入るわけにもいかず、口実にした除菌スプレーを取りにも行かずに踵を返した。

 仁村さんがフロントに戻ってきたのは、それから十分程経った頃だった。

 仁村さんはなにも云わず、僕はどう話しかければいいのかわからず――しばらくのあいだ、ふたりして黙ったまま並んで立っていたけれど。

「……あの、なにかあったんですか?」

 やっとの思いでそう尋ねると、仁村さんはいつものあの微笑みを浮かべた。

「ううん、なんにもないよ。なんでもないの」

 ――本当に? という言葉が喉の奥のほうに引っかかったが、僕はそれを呑みこみ、つられるようにぎごちなく笑うしかできなかった。





 土日の休みを挟んで、月曜日。

 仁村さんと店長のあいだで、本当はどんな話があったのか。消化不良のときの腹のようにずっと重くもやもやしたものを抱え込んだまま、僕はいつものように出勤した。

 気にしていてもしょうがない。またいつものように彼女とふたり並んでフロントに立っていれば、きっとこのもやもやも消えるだろう。仁村さんはなんでもないと云ったのだ。変に気にしないで、いつものように……と、僕は自分に云い聞かせていた。

 だが、いつもなら僕より先に来ている仁村さんは、フロントにもどこにもいなかった。

 おかしいなと思いながら、僕は厨房を覗いて高桑さんに挨拶をし、尋ねた。

「おはようございます。……あの、今日は仁村さん、まだですか?」

「おはようー。仁村さんねえ、辞めたみたいよ」

「えっ」

 僕は驚いて聞き返した。「辞めたって、えっ、マジですか?」

「わからないけど、朝シフト表見たら、仁村さんのところ線引いて消してあったから」

 僕はそれを聞いて、自分でシフト表を確かめようと足早に事務室に向かった。――仁村さんが辞めた? なんでもないって云ってたのに、そんなこと一言も云ってなかったのに、いきなり?

 やっぱりこのあいだ、なにかあったのだろうか。

 がちゃっとノックもせずにドアを開けると、「なんだ、びっくりした」と店長が振り向いた。

「あっ……すみません。誰かいるって思わなくて……。おはようございます、どうしたんですか、この時間に」

 僕は途惑いつつ、なんとかそう言葉を押し出した。

「うん、急遽シフトの穴埋めでねー。仁村さん、辞めたから」

 本当に辞めたのか。夢から醒めたような、ぽーんとひとりなにもない広い空間に放りだされたような妙な心地に言葉を失っていると、店長が云った。

「なに、どうしたの? ……ひょっとして、惚れてたとか? えっ、マジで? あー、彼女可愛かったもんなー」

 軽い口調でそんなふうに云われ、僕は「そ、そういうんじゃないんですけど、その、ちょっと……まあ」と曖昧な返事をした。が。

「えっ、つきあってたとかじゃないっしょ? だってあのさあ……あ、ごめんドア閉めてくれる?」

 開けたドアの前に立ったままだった僕は、云われたとおりドアを閉めた。

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