こんな処で傘もささずに

小富 百(コトミ モモ)

こんな処で傘もささずに








 灰簾石の雨が降る。溺れる。目や鼻や口から欠片がさらさら入り込んできて私を内側から喰い破る。紫の色彩、万華鏡の中に、落ちる。冷たいコバルトブルーが体外へ染み出す。幾万ものヒトビトが私を見ている、その瞳は割れた鏡で幾万もの溺れる私を映している。彼らが言う、決して忘れるなとそう指差す。そしてとうとう紫色の中に私は沈み息のしようもなくなってしまう。彼らが私を囲って回る。手を繋いでくるくると回る。彼らが私の四肢を掴む。引き千切ろうと方々に引っ張る。そしてあっという間に私の躰は散り散りになる。彼らが私を糾弾している。お前の痛みはそんなものかと。お前の苦しみはそんなものかと。そしてまた私は目を開ける。溺れる。灰簾石の雨が降る。










「…ロウ、ロウ」

 乱雑に揺さぶられて私は目を醒ました、咄嗟に針を尖らせそうになる。

「…カサナシ」

 驚かせないでよ、もう。慌てて尖らせた毒牙をすぐさま下げる。嫌にじっとりと汗をかいていて私は思わず体を震わせた。ふたつの月の位置で時刻が夜明け前だということが分かった。

「どうしたのさ、急に起こして」

「どうしたもこうしたもなかろう。お前さんがえらく魘されとるもんだから安眠どころじゃあない」

 全く…と言いながら大きな口で大欠伸をする。彼は大山椒魚。大山椒魚の、カサナシ。

「それはごめん、悪かったよ」

「分かればよい」

「老いぼれは眠りが浅いんじゃなかったの」

「だからこそ安眠は貴重なんだろうが」

 またごそごそと寝床へ戻っていく、いつも被っているシルクハットを顔に被せた。

「あまり酒は飲むな。夢見が悪くなるぞ」

 私もまたごろりと岩の上に寝っ転がった。

 そうは言ってもねえ。

「酒を飲むと一瞬で眠りが来るからさ、楽なんだよ。色々とね」

 分かってるだろ?

 分かってはいるが。

「そう様子じゃあお勧めはできんがな」

 ありがとう、カサナシ。

「気持ちだけ受け取っておくよ」

 そしてまた目を閉じた。もう憶えていない、灰になってしまった悪夢を何度だって見るのだろうと思いながら。それでも良いと、願いながら。

 結局あのまま私は寝付けずに朝を迎えた。真上をハチドリの行進が進んでいく。どんどん、どんどん時間だけが過ぎていく、惜しいことをしたと毎朝焦燥感に掻き毟られる。小さな石の祠を見やると青白い花がいくつか供えてあった、いつからそこにあったのかまるで憶えていない。恐ろしいくらいに何もかも忘れていく、記憶を留めておくのに酷く体力を使う。自分で自分を行使、使役させていると他人事のように感じる。稀に供えられる花や木の実や酒の類が私をこの地に捕えている。

 まんまるく膨らんだ青色のかわずが祠の前にある花を見つめている。こいつは仲間の中でも特に食い意地が張っている。動かないものでもどうやら食い物に見えているらしいので困る。

「食べるなよ」

 おいでと手を差し出すと軽やかに飛び乗ってきた。指先で捉えた玉虫を差し出すと目にも止まらぬ速さで舐め取られる。面倒をみているかわず達には沢山の玉虫を与える、その分甘くて綺麗な艶めきを生むから。そいつがあまりに美味そうにその甲虫を飲み込むので私もなんだかお腹が空いた。痛くない、痛くない。痛くなんかしない。針がなんの抵抗もなくかわずの脇腹に刺さった。何度か痙攣をして動かなくなるまでをじっくりと眺めてからゆっくりと針を抜いた。毒と血が混ざり合ったものがつうと流れて雫になる、そこから肉を歯で切り刻みながら食べた。臓物を捌くと胃袋から先ほどの玉虫が出てきた、それも一緒にしゃくしゃくと噛み砕いた。骨は口の中でねぶってから岩の上に吐き捨てる、私が座っている岩の上がどんどん血で汚れていく。美味い、私が世話したかわずは美味い。甘くて可愛くて蕩けるように美味い。

「ロウ」

 かんかんと音がした。ステッキを抱えた大山椒魚が視界に入る。カサナシだ、何か答えなくてはと考えながら、あいつもそれなりに世話をしてやれば隅々まで美味くなるのだろうかとぼんやり思う。

「その辺にしておけ」

 なにが。

「後で後悔する」

 だから、なにが。

「それでもう、何匹目だ」

 きょろり、辺りを見渡す。私の周りを囲うのはゆうに十は超えているであろう、先ほどまでかわずだった血と骨と肉片。いけない、また膜に覆われているような感じだ。左手にじめっとした感覚があって下を見やると可愛らしい死んだばかりのかわずを握りしめていた。ぶらんと垂れ下がる脚を見ているとだんだん口の中に血の味が広がり始める。暴れ回る小さな寄生虫を奥歯で強く噛み締めて足の裏に力を込めた。音が波のように帰ってくる、途端に絵が描きたくなる。

「骨、あげるよ。あとこれも」

 二、三本放る。死んだかわずも。彼は口を開けてそれを一呑みにし、その後骨は片足で蹴っ飛ばした。速い水流に飲み込まれて瞬く間に見えなくなる。

「ああ、勿体無い」

「お前の食いさし等」

 私は手を払って立ち上がる。さあおいで可愛い愛玩達。声をかけると鳴かないかわず達が一斉についてくる。岩からたんと飛び降りた。

「じゃあ早速始めようか。今日は色塗りの練習だったよね、センセイ」

「そんな約束いつした」

 あとセンセイ呼びはやめろ。

「さあ、忘れちゃった」

「もう絵を描くのはやめろ」

 私は溜息をつく。

「昨晩からやめろやめろって、最近なんだか意地悪爺さんだね」

 そういう年頃?

「お前とは良い友人でいたいだけだ、だから忠告してる」

「聞き飽きたってば。そんなふざけたお言葉はさ」

 気持ちだけ受け取っておくって昨日もそう言ったでしょう。私はカンバスと油絵の具を岩陰から取り出す。彼は水彩画しか描かないけれど絵筆の使い方が滑らかで参考になる。

「今日はなにを描くの?」

 彼は諦めたように私の隣に座って墨色のパステルを取り出した。

「最近はもっぱら滝だよ」

「へえ、いいね。でもこの辺に滝はないけど?」

「今度下流まで見に行く予定だ、良い滝壺があるからな」

 ああ、あの怪物共の荒くれた土地ね。

「相変わらず良い趣味してる」

 カサナシが口をひん曲げて目をまん丸く見開く。一体何の話だ、というような表情。

「なんでそんなことをお前さんに言われなきゃならん」

 私は大げさに、そんなことも分からないのと両腕を広げる。全くもう、これだから。

「あの辺り一帯は最近足無し魔女の巣窟でしょう。下手にナワバリを侵したら何されるか分かんないよ」

 その内手酷く噛まれるな、カサナシは弱いから死んじゃうかもね。言いつつ絵の具を指先に乗せて塗りたくっていく、碧色を何度も何度も重ねていく、その影から幾人もの曖昧ななにかがこちらを覗いている。私はこの絵しか、描けない。

 そこ、もっと色を伸ばしたほうがいい。その方が後から塗る空が映える。そんなことを言われた。がりがりとパステルを削る音だけが岩だらけのここら一帯に響いている。

「空なんて描かないよ」

「じゃあ何を」

「私を見つめるヒトビト」

 できることなら細部まで。できることならその瞳の虹彩まで私は描き出したいのだ。しかしなにも思い出せない。何度も何度も夢にばかり現れる、それなのに憶えていられない。そんな自分が数千年、心底嫌いだと思う。

「だからやめろと言うのに」

 そうカサナシに言われた。私は薬指の腹に赤の絵の具をたっぷり垂らして、それからゆっくり口に含んだ。赤子のように、しゃぶる。

「…膜の中にいる時だけ、この世の全てが嫌じゃなくなる」

 絵の具ってすごく苦くて変な味。美味しいな、ゆったり口の中で溶けていく。飴玉の中の血液みたいだ、こんな半端な紫色の外骨格がこんな赤に染まったらどんなに良いだろうか。

「影達が私を見ている、ずっとずっと見ているんだ。だから必ず、思い出さなくちゃいけないのに」

 だから私はカンバスに向かい続けなければならないのに。描いて、破って、描いて、棄てて、全てを思い出すその日まで私は止まることなど許されない。

「その行為はいつかお前の内外を滅ぼすぞ」

 カサナシが削ったパステルの粉をふっと吐息で吹き飛ばした。風に乗って空高く舞い上がり、私の額の複眼がそれを捉える。それでも良いんだ、とそう答える。

「全て思い出して砂になることができたなら、その時の私はきっと本望だよ」

 中途半端だからだろうと思う、私という存在が。蟲にもヒトにも振り切れない、頭がどんなに賢くとも尾っぽのこの毒針が私自身を殺そうといつだって付け狙っている気がするのだ。その所以が、私はどうしても知りたいのだ。

「…少し潜る」

 カサナシがそう言い残して音もなく川に沈んだ。瞬く間にたったひとりになる。いつだって私は宙ぶらりんだから気を抜くといつだって私はまた膜を作ってしまいそうになる。膜の中は白昼夢、あたたかくて心地が良い。夜の眠りとはまるで違う。私がすぐに膜を作ろうとしてしまうのはきっと私が卵生であった名残なのだろう。数え切れないほどのきょうだいしまいを喰い殺して私はとうとう母体の内臓まで喰い潰した。外の世界に出るまで私は母の青い血液の中に浸っていた、青い夢を見ていたのだった。あおいゆめ。私はいつも、あおいゆめを見ている気がした。

「戻った。喜べ、大きなイワナが二匹も獲れたぞ」

 ざばりと突然濡れた山椒魚が私の居る岩場に上がってきた。山椒魚というのは川の中に身を潜めているものではなかっただろうか。けれどこうしてみすみす姿を現したということは自ら喰われにやって来たということに違いない。気付けば酷く腹が減っていた。考えるまでもなく毒針で襲いかかったがぱんっと変な棒きれで弾かれた。餌が反抗したことに驚く、喰われてくれないことを不思議に思う。魚が二尾、岩の上に落ちる。もう、死んでる。私は新鮮な方が、良い。

「また狂ったか」

「喰わせて。痛くしないから」

 私の方が、強いのだから。

「だから大人しく、して」

「なあ、俺達は友達だろ。少なくとも俺はそう思ってる。クユのことを覚えていないか、お前のおかげで俺はクユと出会えたんだ」

 クユ?尾節に力を込める、毒針でその肉を串刺しにしようとしたけれど今度は変な帽子で受け止められた、みるみるうちに紫色に染まっていく。

「俺のことは忘れてもいい、なんならオアシスのことだって。でもクユのことだけは忘れないでくれよ」

 お願いだ、どうか、頼むよ。

「…紫煙楼」

 ぞっとして針を素早く抜き去った、その瞬間カサナシが毒に染まったハットを素早く川へ投げ捨てた。お互い肩で呼吸していた、動悸が止まない。口元を手で覆う、吐きそうだ、それでも思考が止まらない。

「…クユ?」

 大切な友達だった。大きな耳が可愛かった、明るい笑顔が好きだった。ふたりの結婚が、私はすごく嬉しかった。嬉しかったのに。どうして。

「今でもそこに居るの?」

 カサナシの中に居るの、クユ。お願い、返事をして。

「…燻り」

 その名前を口にした瞬間胃袋がひっくり返った。川の中に転げ落ちる、冷たい、溺れる、水は苦手。かわず達を嘔吐した、血肉が濁流に呑まれる、一瞬で見えなくなってしまう。命を無駄にした。どれだけ喰っても満たされないのに命ばかりを無駄にする。書肺に水が流れ込む、最低だ、もうここで死んでしまいたい。けれどそんな願望も虚しく、私はカサナシの手によって容赦なく岩場へと引き上げられた。寒くてがたがたと震えた、カサナシの四つ指に節足を掴まれて陽射しの当たる場所まで引き摺られた。細かな石が肌に突き刺さる、目の前に丸々と太ったイワナが放られた。

「喰え。でないと本当に死ぬぞ」

 このまま。

「…このまま消えてしまいたい」

 大切な友達のことまで忘れてしまっていたなんて。そしていつか忘れてしまっていたことさえも私は忘れてしまうのだろう。何処までも何もかも私は忘れて、とうとういつか自分自身も忘れてしまいそうだ。私にとってはそちらのほうが楽なのだ、きっと。

「燻り。すごく優しい子だった」

──これ食べる?ああ、この虫ね、タマムシっていうのよ。

 水面から顔を出して狐のような大きな耳を震わせていた。おかしな魚だと最初は思った、こんな大蠍に話しかけるなんて、と。

──甘くってとっても美味しいのよ。次の日はお肌も艶々になるしね。

 ああ、だから私はあれをかわず達に与えるようになったのだった。お喋りな子だった、私がきょうだいしまいを喰い殺した話をしてもにこにこ笑って、美味しかった?などと聞いてくるような女の子だった。愛くるしいのに食い意地ばかり張っていて、そんなんじゃ貰い手がないぞと揶揄すると鰓を膨らませて拗ねてみせた。私がいつもひとりなのを知ってか知らずか、遠慮なく話しかけてくれるたったひとりの友達だった。

 ある日彼女は苔の生えた岩のような生き物を伴って私のもとへ現れた。名をカサナシと言った、まだこの時は変なステッキやシルクハットは携えていなかった。ただの大きな山椒魚だった。

──新しくね、お友達になったの。オアシスの地下水路で出会ったのよ、だから一番最初にロウに話そうって決めてたの。

 何処か恥ずかしそうな彼女の表情、こんな顔は初めて見た。カサナシが丁寧にお辞儀をして挨拶をしたけれどなんにも覚えちゃいやしない。彼女はこの生き物に心底惚れているのだということが分かった、そればかりに暴露した。

 目の前の生気を失っていくイワナをただ見ていた。あの子はもっと華奢でいつだって旬な女の子だった。こんな、もの言わぬただのつまらない魚なんかじゃなかった。

「…どうして、クユのこと食べちゃったの」

 私はカサナシに問うた。あんなに愛していたじゃないか、あんなに愛されていたじゃないか。

「答えられない」そうカサナシが言った。木漏れ日がきらきらして、もう長らく切っていない髪を風が空へ攫う。

「私が壊れるから?」

 そうだ。

「もうこれ以上、誰も失いたくないんだ」

 そんなの。そんなの、私だって。それは言葉にできなかった。肩越しに聞く彼の声は震えていて、なのに涙の一滴も出ない私はおそらく化物に堕ちてしまったのだろう。心無い化物は大人しく彼の言うことを聞いてイワナの腹を噛み千切って食べた、胎から沢山の卵が溢れ出てきた。それをぱちんぱちんと喉に流し込んだ。酷く油っぽい、黄金色のそれを見ながら少し乾かせば絵画の何かに使えるかも知れないなどと不謹慎なことを考えた。こんなにも苦しいのに先程までイワナを生かしていた動脈がこんなに美味しく感じられてしまう自分が居る。この世のほとんどの生き物の中を真っ赤な血が巡り巡っている事実を私は未だに信じられない。生まれて来られなかったきょうだいしまいも、私をずっと守ってくれていた母体も、喰い破ればどれも真っ青な血の色をしていた。それだけが私を包む羊水、くるみ纏う膜、私が私だけを守ろうとする忌々しい無意識。

 その膜の中で私はゆっくりと目を開けた。酷くぼやける、青く揺蕩う、腐り落ちる寸前の無花果のような香りがした。川の向こう岸から無数の影が私を見ていた。ぽっかりと穴の空いた沢山の瞳が私を見ていた。私が殺したのは、燻りだけではなかった。私が殺した多くのもの達が私を囲う、手を繋いだまま、ただ私をじっと見下ろしている。私は膜に縋り付いた、爪を立てる、声も届かない、母体の愛が未だに私を守ろうとする。影がどんどん大きくなり重なり合い、木陰を覆う、空を覆う、灰簾石の闇に落ちる。

 思い出せない、思い出せない。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 どうして私はあなた達を殺してしまったのだっけ。殺したかったわけじゃない、けれど私はあなた達を殺してしまった。

 どうして、どうして、どうして。

 だれか、お願い、教えてくれ。

 水の音ばかりが大きくなる。渇き、激流、豪雨、溺れる。あの時の喉の渇きは誰が潤してくれたのだっけ。あの時の、燻りを殺した苦しみは誰が取り除いてくれたのだっけ。崩れた私の小さな祠は、誰が直してくれたのだっけ。誰か、誰か。誰か、教えて。

「だれか、」

 その瞬間脳天に衝撃が走った。いかづちのような激動、ちかちか。地面に崩れ落ちるとステッキを持ついぼいぼの脚先が見えた。ねえ痛いよと小さく一言呟いて、浅い呼吸のまま私は静かに目を閉じた。








 脈打つ痛みで目が覚めた。恐る恐る手をやるとそこそこ大きなこぶができている。さすりながら体を起こすと鮎の絵を描いているカサナシが居た。耳の大きな鮎、燻りだ。

「やっと起きたか、ロウ」

 随分と寝坊助だったじゃないか。

 全く、友達だってのに手酷いね。

「あんな強く殴ることないじゃない」

「お前がイカれる前にと思ってな」

 俺なりの親切心だ、いつも通り受け取っておけ。そう言って口を曲げて笑う。彼のカンバスの中で燻りが楽しそうに泳いでいる。

「今までクユを描いてこなかったのって、私の為?」そう問うた。すると一言、驕るなと返ってきた。彼らしい。

「…じゃあ、数少ない友達の為?」

「そうだ。初恋は散るが友情は永久、そうだろ?」

 随分くさいこと言うね、でもまあ的は射てるかも。

「恋人は殴っちゃ駄目だけど友達ならステッキで強か頭を打ち据えても許してもらえるもんね」

「そういうことだ。殴った方がお前は賢くなるんじゃないか」

「一言余計だよ、恋人喰らいの両生類め」

 もう辺りはすっかり夜になっていた。久しぶりによく眠れた。頭のたんこぶはまあまあ痛くてそこそこ後にも引きそうだけれど、そのおかげかいつもの悪夢も見なかった。だから私はなんだか気分が良くて砂利の上で鼻歌を歌った。頭の中の雲が少しだけ晴れたよう、その雲が全て去ったら何が現れるのか全く見当もつかないけれどそれでもこんなに心地が良いのは久方ぶりだ。

「やめろ、その下手に上手い歌声を聴かせるのは」

「それ貶してるの、褒めてるの。どっち?」

 どっちもに決まってるだろ。そう背中を向けたまま言うので私は大きな声で笑った。

「カサナシとクユの結婚式で歌ってあげようと思ってた曲だよ?私が一から作ったんだ、凄いでしょう?」

 そこまでしたのに全部私が壊しちゃったんだけど。何故だろうなあ。

「そりゃありがたい。まあ最終的に喰っちまったのは俺だがな」そう彼も笑った。そして、「だからやめておけと言っただろ。今日で身に染みて分かったはずだ」

 そんな風に湿っぽく言った。

 次同じようなことがあれば俺のステッキがまたお前を気絶させようと殴りかかるぞ。

 酷いなあ。まるでステッキにそうさせられた、みたいな言いようだね?

 私達はくつくつと笑う。

「でもごめんねカサナシ。そればっかりはできないんだ」

 ゆっくりと落ちていく星の流れを見ていた。あれがあの日私が殺した沢山の命ひとつひとつだったならどんなに良いだろうか。こんな深い樹海に影として囚われていないで、あの輝くひとつひとつになれていたならどんなに良いだろう。そんな風に酷く自分勝手なことを願う。

「あの向こう岸から私があの日殺した彼らが私を見ているんだ。なのに私は彼らを殺した理由のひとつも思い出せない。それでも毎日を生きていかなくちゃならない」

 だからこそ毎日を生きていかなくちゃならない。誰かに縋るのでは、誰かに答えを問うのでは、駄目。私ひとりの力で思い出さなければ意味がないの。

 カンバスに描いた燻りをカサナシが木の小刀で綺麗に切り取ってそっと水面へ浮かべた。色が溶けて混ざり合い、彼が手を離すとするりと彼女は下流へと泳いでいった。

 それで、と彼がひとりごちた。翳りと水音、私は彼の静けさに暴露する。

「…それでもしお前が死んでしまったら、俺達ふたりはどうしたらいいんだ」

 教えてくれよ。なあ、ロウ。

 草臥れた肩が痩せて見えた、こんなに老いぼれていただろうか。彼の思いがけない言葉にびっくりして私は何も言えなくなる。今夜は月が見えない、彼の輪郭が突如として曖昧に闇へと溶けていく。水彩絵の具の燻りのように。

「俺達ふたり、って…」

 暗闇からにゅうと四つ指の腕が伸びてきた。その柔らかげな掌の上に小さな白いものが乗っていた。恐る恐る顔を近づけ匂いを嗅ぐ、私はぎょっとして退く。知っている匂い、懐かしい香り、頭の奥が痛くなる。笑顔、声、夏の陽射し。じんじんと、冷える。

「…クユ、なの?」

 貴女なの、燻り。

「ああ、そうだ」

 闇の中からしゃがれた声が返ってくる。まるで木霊だ。返事をしているのは本当にカサナシなのか、それとも思い出に捕まった幽霊なのか、私はまるで分からなくなる。

「クユのことは…丸呑みにしたって、そう…」

 勿論。俺はお前に嘘はつかない、たったひとりの友達だから。

「丸呑みにした、その後に自分で吐いて取り出したんだ。左耳の軟骨、これだけをな」

 正真正銘、燻りのものを。

「じゃあ、どうして」

 声が震える。どうしてってそりゃあ、と彼が急に大きな声で笑って私は更に後ずさる。声は森に振動しない、私にだけ浴びせられる。

「そんなの消化に悪いからに決まってるだろ。肉しか喰わない蠍からしたらそんなことも分からんのだな」

 無知で贅沢、無責任な大蠍には。

「嘘」そう大きな声で私は言い放った。

「カサナシはそんなこと言わない。クユのことを、そんな風に言ったりなんかしない」

 ぴたりと風が止み静けさだけが訪れた。

「お前に、何が…」

 何も覚えていない。何も覚えちゃいられない、そんなお前に一体何が。そう彼は泣いていた。何も見えなかったけれど彼が闇の中でひとり孤独に泣いているのが分かった。

 俺だって、本当は…。

「…本当は全て、忘れてしまいたいのに」

 小さな軟骨が彼の手にゆるく収まって、その腕が力なく砂利の上に落ちた。私は居ても立っても居られなくなって、ただそのひんやりとした小さな骨を握る小さな彼の手を、冷たい私の両の手で包んだ。青い血が流れる、私の掌でどうかどうかあたたまれと。

「…お前はさっき俺に、今までクユを描いてこなかったのは自分のせいかと聞いたな」

 ええ、聞いた、聞いたよ。悲しげなカサナシの声にそう答えた。

「それで、俺になんと言われた?」

「…私達の、友情の為だと」

 違うの?暗闇に向かって問う。虚空に向かって私は問いかける。

 違う。本当は、違うんだよ。

「本当にお前は考えなしの大莫迦者で、それでいて心の底からお人好しなんだ。そして俺はあの頃あまりに青い小童で、けれどどんどん狡賢い老いぼれになっていく」

 そんな自分がどんどん嫌いになっていく。こんな自分を百年、二百年経て、どんどん受け入れられなくなっていく。あの頃から何ひとつ変わっていない、変わらないのはお前だけだ。だから友は不変なんだ。分かるか、ロウ。

「俺は大嘘つきだ。本当はお前の為でもクユの為でもない、お前が全てを思い出すのが怖かった。…全部俺の為なんだよ、ロウ」

 こんな臆病者の俺をどうか笑ってくれ。鼻で笑って貶してくれ。お前が全てを思い出してお前まで居なくなってしまうのが心の底から怖かった、クユが居なくなるのが怖かった。

「だって考えてもみてくれ。俺はこんなにも老いぼれだ、お前が居なくなったら誰が燻りを覚えていられる。誰が俺と一緒に絵を描いてくれるんだ」

 私は彼の手を包む掌に力を込めた、大丈夫、ここに居る。ここに居るから。

「向こう岸に渡る資格すらない、その毒針で今すぐに俺を刺して痛みと共に罰してくれ」

 熱い涙が私の手の甲に落ちた。宵闇の中へそっと手を伸ばしてひんやりとした岩肌のような皮膚に優しく触れた。

「…そんなこと、しないよ」

 そんなこと、できない。雲が晴れて月が出てきた。泣き顔の大山椒魚、塩気で頬が爛れている。

「…何故。どうしてだ、ロウ」

「だって私達、友達じゃない」

 それが例え燻りが居ないと成り立たない関係であったとしても。だって私達は不変なんでしょう、永久に変わらないのでしょう。

 だからお願い。

「嘘はつかずに、どうか教えて。…傘無」

 つゆと、雨が落ちてきた。さやさや、音が広がっていく。霧雨が私達三人を胸に抱いてゆらゆらとあやす。夜は永い、夢は隣、愛するのには程遠い。ぽっかりと浮かぶふたつの月よ、みっつめの月は何処へ消えた。おぼろ、ほろろ、さざれいし。二人静、灰簾石、石突きが語るゆく先は。







 その年はもう、随分と雨が降っていなかった。もう何年も雨が降っていなくて土地も命も枯れ果てていた。それでも多くのものがそこを離れなかったのは大蠍の守り神が居たからだった。大蠍はその地の水源を守っていて、今や砂漠と化したこの地もかつては豊かな緑地が広がっていた。守り神がひとたび願えば空は途端に雨雲に覆われ土地を潤し、多くの生命の渇きを鎮めると信じられていた。だからその言い伝えを信じる大勢のもの達はこの砂と遺骨に覆われたかつての楽園を見捨てることができないでいた。本当に存在するかどうかも分からないその神の崩れかけた祠の前に跪き、祈り、手の届かない夢を見て、乾涸びた川底を舐める日々を送っていた。けれど古い邪悪な旱魃が、その土地全ての生命を喰い潰さんとしていた。

 知ってる?

「本当はカミサマなんかじゃないのよ」

 日に日に細くなっていく地下水路で彼女は小さな声でそう語った。

「何の話だ?」

 だから、噂のあの子のことだよ。本当は神なんかじゃないの。

「恥ずかしがり屋で少し臆病なだけの綺麗な紫色の命なの。私達と何ら変わらない」

 会えば貴方にもきっと分かるわ。恋人がそう言って笑うから俺は案内されるがままに、水路を伝ってその臆病だという噂の大蠍の元へと赴いた。

 蠍は水源の大岩の側に身を潜めていて、それを囲うように丸々肥えた蛙が群れをなしていた。あたしよ、あたし!と恋人が声をかけるとようやっと狭い洞窟の岩陰からひょっこりと蠍が顔を覗かせた。真っ白い肌に大きな紫色の吊り目。俺の姿を認めると不安そうに額の中央にある複眼をきょろきょろ光らせた。

 クユ。

「…誰、それ」

 低い声、口元を隠して眉根を寄せている。全く歓迎されていない、酷く警戒しているのがひしひしと伝わってきた。みなが噂する偉大な守り神にはとても見えなかった。俺はその蠍の持つ鋭い毒針に慄きつつ、それでも前に進み出た。

「ご機嫌よう、楽園の守り神様。私は山椒魚のカサナシというものです」

 息を呑んで、決して失礼のないように。

「…真名は、」

「聞きたくない」急にそう制された。

「私は神なんかじゃない、みんなが誤解しているだけ。だからもっと自分を大切にして」

 予想外の言葉に思わずぽかんとしてしまう。ね、だから言ったでしょ?と恋人がぷんぷんと鰓を膨らませる。彼女は怒るとすぐにこうなる。残念だろうけれど…と蠍が静かに言う。

「彼女の言う通りだよ。確かに数千年前から私はここの水脈を守ってきた。だけど旱魃を抑え込む力なんてないし、ましてや雨を降らせる力なんて持ってないんだよ」

 そして疲れ果てた声でぼやく。ああ、やっと誰にも見つからないねぐらを見つけたっていうのにまた引っ越さないといけないなんて。

「じゃあ、そういうことだから。ごめんね」

 諦めて。

「違うよロウ!彼はそんなんじゃないの」

 彼女の上げた声に、踵を返して棲家に帰りかけていた蠍が振り向く。腰まで垂らした波打つ髪が風に踊った。深い紫色の大蠍、半人半蟲の守り神、黒曜石のような複眼、なるほど確かにみなが神と見間違えるのも頷ける。

「じゃあ、なんなの。クユ」

 私もう懲り懲りなんだよ、知っているでしょう。

 知ってるよ、でもね彼は違うの。

 恋人が大きな耳をはためかせて続ける、はにかみながら、きらきらとした笑顔で。

「新しくね、お友達になったの。オアシスの地下水路で出会ったのよ、だから一番最初にロウに話そうって決めてたの」

 あの地下水路、あなたがこの水源の水を引いて昔作ってくれたでしょ?あれのおかげでみんな助かってる。あの水路のおかげで私達も出会えたの。

「だから感謝してるの。ありがとうってそれだけ伝えたくて、今日彼とここに来たのよ」

 ただそれだけなの。そうだった、思い出した。一点の曇りもない、彼女のそういうところに惹かれたのだった。初めて恋というものを知り、愛というものを教わった。

 そうか、と蠍が答えた。その顔はやわく微笑んでいてぱしゃぱしゃと泳ぎ回る恋人を優しく見つめていた。この蠍も同じなのだと思った、俺と同じように彼女のこんなところが好きなのだとはっきりと分かった。

「カサナシって言ったね」

 そう大蠍が俺に向き直った。

「これからどうぞよろしくね。私の名前はロウ、いつでもふたりで遊びに来て」

 それから。

「クユのこと、幸せにしてね」

 彼女の恥ずかしそうな声、腰まで下がってしまった水位、俺に向けられた少し寂しそうな笑み。これからどうなるかなんてあの時は誰も考えないようにしていたけれど、それでもあの時が最も幸福だったと言える。俺は深く頷いて、約束すると答えた。傘無の名のもとに誓うと。それがロウとの出会いだった、ロウと友になった瞬間だった。それからというもの俺と燻りは幾度となくロウの棲家へ遊びにいった。三人で川を遊泳し、銀色の玉虫を探しに行き、時には流星を蔦に絡めて桃源郷を遊び回った。そして春の終わり、恋人に結婚しようと伝えた。恋人はそうしましょうと答えた。それをふたりでロウに伝えにいくとまるで分かっていたように微笑んで、盛大な余興が必要だねとけらけら笑った。歌を作ろうか、式で歌う曲をさ。ほら、かわず達も喜んでる。ハチドリ達も呼んで川の音色に合わせれば素敵な演奏になるはずだよ。そんな風にロウははしゃいでみせた。そこには神の面影など一切ない、俺達と同じただひとつの命でしかなかった。

 けれども砂時計は残酷だった、夏と共にとうとう水源にも熱風が吹いてくるようになった。ロウを盲信していた沢山の命達が眼の色を変えて水脈にまで爪を伸ばすようになっていった。

──どうして助けてくださらないのです。

──雨を降らせてくださいませ、紫檀様。

──旱魃を殺してくださいませ、紫檀様。

──どうかあの子を、どうかあの枯れ果てた土地を、元に戻してくださいませ。

──紫檀様、紫檀様、紫檀様。

『アラガミのあなた様なら、できるでしょう?』

 そんな悲痛な声が六日六晩水源全てに響き渡った。しかしその願いがついぞ聞き届けられることはなかった。それをとうとう彼らは悟った。そして途端に掌を返した、血走った眼でロウに牙を剥いた。力の無い神など殺してしまえと。あんなに信じてやったのに、あんなに崇め奉ってやったのにと。お前など、お前など、力の無いお前などこの手で殺してその血で喉を潤してやると。

 旱魃の魔の手が水源にまで届いた、何処までも砂の果てとなった。そして最期のひとしずく、水脈は崩御した。俺達三人はロウの棲家に息を潜めて隠れていたがそれも簡単に見つかった。

 そのまま静かに隠れていて、とロウが唇に指を当てた。岩の戸をこじ開けられて尾を掴まれたけれどロウは決して抵抗しなかった。

 待ってと恋人がロウに縋った、けれど小さな水溜りの中で泳ぐ鮎のひれなんかではロウの手を掴むことはできない。死んでしまうわ、抵抗して。居なくならないで、ロウ。

 けれどロウは、もういいのと笑った。そして俺に、約束、守ってねと言った。奴らがロウの節足を掴んで悪意に任せて引き摺った。ロウの腹に鋭い石がいくつも突き刺さり真っ青な血が滲んだ。それでもロウは最期まで俺達の目を見つめて微笑んでいた。

 私達、いつまでも友達だよ。だからどうかお願い。…忘れないで。

 そしてロウは瞬く間に白日の下に晒された。貪欲な影達がロウを見据えて怒りに身を焦がしていた。俺は水溜まりに覆い被さり岩の中に溶け込んだ。ロウの親友である、燻りを守る為に。喧騒、狂乱、戸が閉められ暗闇が訪れた。燻りが小さく泣いていた。それ以外何の音も聞こえない、耳が痛くなるほどの静けさが蠍の棲家を包んでいた。

 どれくらいの時間が経ったかまるで分からない、心臓の音ばかりを感じる。まだか、まだか、まだか、まだ。

 そして、碧に、すくわれた。

 むせ返るほどの銅の匂い、それは紛れもなくロウの血だった。一瞬で俺達は溺れた。必死で泳いだが狭いねぐらだ、逃げ場など何処にも無かった。碧の中で燻りを抱き寄せた。細くしなやかな体、優しく明るいころころとした笑い声、はためくふたつの羽のような耳。何も言えないまま見つめ合った、もうどうなろうがいいと思った。幸せにしてねというロウとの約束を思い出した。忘れない、決して忘れない。そう真名に誓ったのだから。

 燻りが静かに微笑んだ。愛していた。碧にくるまれても愛していた。俺は微笑み返した。

 そして彼女を、一呑みにした。

 目を見開く。気が付くと全ての碧は引いていて何事もなかったかの様に俺は岩の上に転がっていた。燻りが居ない、そして全て思い出した。辺り一面、そして自身の体からも強い血の匂いがしていた。えずきかけて堪える。いけない、吐いてはいけない。燻りを幸せにすると誓ったのに、決して忘れないと誓ったのに。何度も何度も悪い夢であればいいと思った。そう願ってゆっくりと岩の戸に手を掛けた、眩い光が漏れ出してくる。燻りを腹に入れたままたぷんたぷんと歩み出る。燻りが胃臓の青い血の中でぷかりぷかりと浮いているのが分かる。大丈夫、三人一緒だ、何処までも。何処に行っても、この砂漠の果てまでも。

 けれど外に広がっていたのは、そんな飴玉のように甘く優しい悪夢ではなかった。

──ロウ、ロウ、

「紫煙楼!」

 尾を振り乱してどろりとした血の川を必死で泳いだ。散乱する影の死骸達、水脈から溢れ出る濁流、そして岩の中心に座り込むロウ。茫と空を見上げている、その口元は真っ赤に染まっていて、その両手に持っていたのは、真紅の。

「……何を喰ってる、ロウ…」

 鮮血が滴る腕、太い血管と奥に見える骨の髄。ロウがゆっくりとこちらを振り返る。肉片の残った喰いさしがうず高く積まれている。血濡れた牙がこっそりと覗く。

 カサナシ。

「どうにも、お腹が空いちゃって」

 何かが、わたし、足りなくって。

 虚空を見つめながら言う。ロウの体は至る所に傷を負っていて未だに血が流れ続けていた。そしてその流れ出た青い血は地面に落ちた瞬間大量の水に変わっていく。そしてロウが肉を喰らうたびその傷は糸で縫うように修復されていく。恐ろしいことを知ってしまった、とんでもないものを目覚めさせてしまったのだと戦慄した。ロウはやはり、神だったのだ。けれどあまりに心が柔らかすぎた。跳ね返ることのできない神は神に成りきることができない。中途半端な、最も苦しいものに成り下がってしまう。

 ロウ、と俺は呼びかける。砂漠が楽園へと戻っていく。もはや旱魃の見る影もない。

「なあ、一体何があったんだ」

 この骸の山は、一体どうしたんだ。

 さあ、とロウは喰らうのをやめない。俺の方も見ない。くちゃり、くちゃり、唇の隙間から一筋の赤が伝う。

「何も分からないの。こんなに沢山、不思議だよね」

 でもいつものお供物かなあって。

「だってこんなに美味しいんだから」

 だってこんなにお腹が空いているんだから。ほら、と肉片を摘んで寄ってきた蛙に放って与える。可愛い子、可愛い子、私が世話してあげるからね。可愛くて大好きな美味しい子。カサナシも、食べる?

「素敵な楽園だね、ここ」

 水もあって花もあって、食べ物もこんなに沢山あってさ。嬉しい。だからねえ。

「だからきっと、みんなも喜んでくれるよね」

 慈愛に満ちた微笑みを浮かべてロウは言った。碧色が嫌に綺麗で俺は逃げることすらできなかった。ロウをひとりにはできなかった。燻りとふたり、逃げることなんてできなかった。

 ねえ、カサナシ。呼びかけられて、なんだいと俯いて小さく答えた。もうなんにも聞きたくない。何処からやり直せば良いのだろう、燻りを吐き戻して、影達を追っ払って、ロウを連れて三人で逃げて、旱魃の目の届かないほどずっとずっと遠くへ。手を取り合って、もっと遠くへ。

「…クユは、何処?」

 ぱしゃん、喰いかけの腕を豊かな川へ放り投げた。血が染み出して、真っ青の中に赤が溶ける。瞬く間に混ざり合い紫檀へと変わる。その色は神の色、水源を守る大蠍の色だった。

「また三人で遊ぼうよ、ねえ」

 そうロウはただにっこりと、俺に向かって笑ってみせた。それに何も答えられなかった。偉大な神と乙女のまま死んだ鮎。そんなふたりと共に何処までも生きていく、それが自身に課せられた咎なのだとはっきりと分かった。そこで生きていくことこそが、あの日への贖いなのだとそう思った。

 木漏れ日、屍と水脈。豊穣、緑地、深い森の中の源流。恋人の悪夢に呪われぬように、友の狂気に当てられぬように。それでいて、決してなにひとつ忘れないように。俺はこの地で泳ぎ続ける、水彩画を描き続ける、正気を保っていられるように。









 気付けば雨は止んでいた。月の光で淡い虹が現れた。しっとりと私達は濡れていた。濡れたまま手を繋いだままでいた。

「ごめんね、傘無」

 辛かったでしょう、苦しかったでしょう。ずっと独りで抱え込んでいたのは。ずっと独りで私達ふたりを守り続けていたのは。

「許してくれ、紫煙楼」

 辛かっただろう、苦しかっただろう。忘れるたびに思い出そうと足掻くのは。その記憶を持ったまま油絵を描き続けていくのは。

「燻りにも聞こえてる?」そう問うと、もちろんと返ってきた。

「大きな耳を更に大きくして俺達の話を聞いているさ」

 それでころころ笑って言うんだろうな。なんだ、そんなことでくよくよしてるの、と。約束、ちゃんと守ってよ。ふたりが落ち込んでたらあたし全然幸せじゃないんだから。

 思い出したか、とカサナシが言うのでまだ全部は、と正直に首を振った。

「でも、欠片が少しずつ繋がっていく感じ。…今までみたいに、閃光と場面がどんどん切り替わっていくのじゃない」

 びっくりしないで済むから、できればこっちの方が良いかな。

「びっくりしたら思わずカサナシに針を向けてしまうしね」そう言うと、そりゃあたまらんと大きな声で笑われた。

「毎回短い寿命が更に縮むんだ。それだけはよしてくれよ」

 うん、分かったと返事をして私も笑った。そして、カサナシ、と呼びかけた。

「約束、守っていてくれてありがとう。それから、私達のこと、話してくれてありがとう」

 そう目を見て言うと照れたように、いいんだよと手を振られた。昔から存外可愛らしい奴だった、老いぼれになっても変わらない。可愛いあの子が惚れたのも分かる。こんなたったひとつのことで、昔の色んな明るい記憶を私は優しく思い出せた。それが酷く嬉しかった。

 夜が明けてきた、朝焼けが泣き腫らした目に眩しい。かわずがぴょんと私の脚に乗った。喰われるかも分からないのにじっと見つめてくるので指先でゆっくりと背中を撫でた。あなたのお友達、食べたりしてごめんね。もうなるべく、そうならないように気をつけるから。

「…私、また狂うかな」

 そうしたら、どうしよう。

 そんなの決まってる。

「俺が何度でもステッキで打ってやるよ」

 手酷い友達!と私は手を叩いた。お前だけだよ、俺は紳士だからなとカサナシがシルクハットを被ってステッキを回す。

 ねえ、それずっと言ってなかったけどあんまり似合ってないよ?

 良いんだよ。紳士の嗜みってやつだ。

 カサナシってなんでも紳士って言えばいいと思ってない?

 口煩い友を穏やかに宥めつつ躱すのも、これまた紳士たるものの役目だからな。俺もなかなか忙しい。

 ふたりして大笑いした、そうだ、またひとつ思い出した。こんな私達の下らないやりとりを聞くのがとても好きだといつも燻りは言っていた。だって大好きなひとと大好きなひとが仲良くしてるのってこの上ない幸せでしょ?と。こうやってきっと私は少しずつ少しずつ、生涯をかけて全ての記憶を取り戻していくのだろう。きっとそれには酷く痛みを伴うこともあるのだろう、もうやめてしまいたいとまた膜を作ることもあるかもしれない。けれどそんな時はカサナシに脳天を叩いてもらおう、ステッキの先で油膜を切り裂いて出してもらおう。燻りの飴玉みたいな笑い声を思い出そう、左耳の骨を抱かせてもらおう。そうすれば私はすぐにでもまたここに戻ってこられるだろう。ふたりと新しい思い出を紡いでいけるだろう。そして、彼らへの罪をこの身を持って償っていけるだろう。

 少しだけ眠って朝ご飯を食べたら、私はきっとまたカンバスに向かう。欠けた記憶に頼らず、悪夢にも縋らず、指の動くままに任せて私は描く。

 碧い宝石の中、紫色が形作る、まだ見ぬ私を見つけ続ける。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こんな処で傘もささずに 小富 百(コトミ モモ) @cotomi_momo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ