第28話 卑怯と桐原4


 ミルクと、糖蜜と、泡立つシャンペンを混ぜたような粘りがショーツに張り付いている。

 冬だというのに、ぬめぬめとした汗が全身を覆っているのだ。

 舌打ちをした。

 深夜だというのに目は冴えており、眠ることなどできはしない。

 安物の煎餅布団と冬毛布に包まれながら、真横に置かれた目覚まし時計を見るに時刻は深夜十二時を回っている。

 普段は十一時には就寝に就いているのだが。

 発汗が収まらず、時折に気が触れたように心臓がバクバクと鳴り出すのだ。

 不安やストレス?

 自律神経の乱れか?

 とにかく、急に汗がどっと出た。

 これでは眠りにつくことなど出来はしない。

 原因を考えている。


「ホルモンバランスの乱れか?」


 生理不順などに心当たりはなく、違うように思えた。

 仕方なく煎餅布団から肌を出す。

 パジャマは好まないので、安物のショーツとナイトブラのみの体でふらふらと歩く。

 公共団地ではあるが、私のプライベートは個室を与えられることにより守られている。

 仕事で疲れた母を起こすような、小さな物音だって立てずに廊下を歩けた。

 冬だというのに粘つく湿気に覆われた姿で、なんとか風呂まで辿り着く。

 シャワーを浴びたい。

 脱いだ下着を洗濯籠に放り込む。

 浴室には大きな鏡があり、自分の粗末な肢体が映る。

 私はおそらく完璧な美少女といって良い容姿をしているのだろうが、この肉付きの悪さは少し歯噛みするものがあった。

 私を抱く男などには好まれないだろうな。

 そのようなことを考える。

 いや。

 何を考えているというのだ。

 男からの興味など、どうでもいいではないか。

 私は自分の美貌を出世栄達に利用する気など欠片も考えておらず、社会では容姿が良いことに越したことはないが。

 何らかの士業、また商売をするにあたっては、必須のスキルとは考えていなかった。

 何を気にしているというのだ。

 ただ。


「まあ、藤堂君を抱きしめるには、もう少し肉付きが欲しかったところですがね」


 何に対して、何が足らなかったかを明確に口にするばかりだ。

 ふと考える。

 不意にだ、ずっと考えていたとか、そういうことではない。

 そう言い訳をする。

 そうだ、私は藤堂君などよりも頭がよろしくて、彼が紳士的に押しかけてきた時なども一捻りにしてやったのだ。

 完璧なまでに対応してやったのだ。

 全く以て藤堂君などには感謝してもらいたいものだと思う。

 私はあの男を正道に導いてやったのだ。

 ただ、唯一欠点があるとすればだ。

 例えばべーちゃんや、うにちゃんという私の親友たちのように、女性らしい肢体に恵まれたならばだ。

 あの男などは、今頃完全に私の掌に堕ちていたのではないかと。

 胸で藤堂君の頭を抑え込んだ際に、あの男から告白などをされてしまったのではないかと考えている。

 悪いシチュエーションではなかったと思うのだ。

 あの小生意気な精一杯悪ぶった男を掌に収めるのだ。

「100万回生きた猫」という私の好きな絵本のワンシーンが脳裏に浮かんだ。

 主人公であるとらねこが、何もかもかなぐり捨てて、惚れたしろねこに自分が100万回の生で積み上げてきた名誉や実績全てを差し出すシーンだった。

 あの主人公が吐いた女への殺し文句はたった一つ。

『そばにいてもいいかい』だ。

 あの一言に此の世男女全ての人間が、惚れた相手に求める言葉が詰まっているように思えた。

 少なくとも私などはそう思ってしまうのだ。

 私がもし男に惚れて、何かを求めるとするならば何だろうかと。

 何故か、どうしてか、そんなことを脳裏に思い浮かべる。

 現代社会を営むにおいては体力など二の次で、知能こそが何よりも大事であると捉えている。

 私などは貧困の出であるが、金だって働けば稼げるものと考えている。

 容姿など肉が骸骨に張り付いたものに過ぎず、整形でも何でも好きにすればよい。

 私は男にそのような物を求めているわけではない。

 たった一つの純粋なる告白を求めている。

 条件による婚姻や、取り引きによる恋愛や、優れた能力を持った女と優れた能力を持った男が番うと言った、何かそういう敷居をぶった切ったものを求めている。

 そんなものは誰もが努力して有しているべき前提であり、もっと何かが欲しかった。

 私の為に、そうやって男が積み上げてきた能力による名誉や実績や全てを差し出すこと自体を求めている。

 口にする。


「そばにいてもいいかい」


 藤堂君に、あの藤堂破蜂という人間に、あの場でそう言われたなら私は堕ちただろう。

 誰かに口説き文句で言われても鼻で笑うだろうが、藤堂君が言うならば私は心臓を撃ち抜かれただろう。

 彼は体格が良い。容姿も良い。お金だって持っている。頭だって別に悪くはない。

 その辺りは現代社会を営む上で大事ではあるが、この桐原銭子にはどうでもよいのだ。

 私の眼前で、私の前で赤子のように自分の弱さを曝け出した。

 それがいけない。

 いつもの人を侮辱する眼差しや、他人を低く見ることでなんとか維持している気取ったプライドなども、父親に認められるためだけに必死にあがいた自分を守るために積み上げた物全てを。

 何もかもを投げ捨てた彼自身を私に晒してしまった。

 私はもう彼を嫌いになれないだろう。

 いや、それどころではないのだ。

 私は正直に告白をしよう。

 あの男が全てのプライドを投げ捨てて、私に告白してきたのならば。

 女としてそれを受け入れるのは全く悪くないし、そうしてよいと心を貫かれてしまったのだ。

「100万回生きた猫」の『とらねこ』のように、彼がプライド全てを擲って私を求めるのならば、私はそれを拒む気など欠片もない。

 シャワーはまだ浴びていない。

 だが浴室の鏡を見れば、私の全身は真っ赤に赤熱している。

 冬の寒さでもなく、浴室の熱気でもなく、ただ狂ったように発情しているのだ。

 私の瞳には、ハート形の瞳孔が映っている。

 嗚呼、もう騙すことなど出来はしない。


「私はあの男に惚れたのだ」


 口にして、現実を認識する。

 どうしよう。

 どうしよう?

 どうすればよいのだ?

 それだけが脳裏に浮かんでいる。

 冷静になど、もうなることは出来ない。

 けれども、私はこれでも頭が良い方だという自覚がある。

 ちゃんと恋愛プランを考えよう。

 今は不味い。

 まだ彼は成長段階で、少しずつ男として立派になっている最中なのだ。

 私などが告白をしたところで、彼からは容易く拒まれるのが想定できる。

 俺みたいな惨めな男は君に相応しくないと、悲しそうな顔で真剣に拒否されるのだ。

 そうして、二度と私からの告白は受け付けないだろう。

 この桐原はとても頭がよろしいから、その展開が容易に想像できる。

 不味い。

 今は不味い、それだけは理解できている。

 だから、綿密な計画を組んで達成し、藤堂君という果実を育てて収穫を得るのだ。

 あれは私のものだ。

 桐原銭子のものだ。

 優しくしてやろうと思う。

 少しずつ、少しずつだ。

 あの男の虚しい生活に浸食してやろう。

 生活の細々としたシーンで、御節介をやいてやろう。

 本当に小さな言葉のやり取りを積み重ねてやろう。

 可愛い仔犬を調教するように、彼に教練を施してやろう。

 あの傍から見てどうにもクズなエリートを真人間にしてやろう。

 時間をかけてやろう。

 彼の為に私の大事な時間を割いてのライフプランを、綿密なスケジュールを組もうじゃないか。

 二年ちょいだ。

 高校時代を過ごし、私と青春の時間を費やすことで、藤堂破蜂は桐原銭子の価値を知るだろう。

 本日行った私への懺悔のように、私を逃すまいと自分のプライド全てを擲った告白をするだろう。

 お前のためなら何でもすると呟かせよう。

 『そばにいてもいいかい』と言わせよう。

 私に惚れられるということが、どれだけ恐ろしいかを彼に叩き込んでやる時間を設けてやる。


「私と青春を楽しもうじゃないか、藤堂君」


 発情している肢体。

 真っ赤に染まった全身に、浴室の鏡に映った自分自身にそう言葉を投げかける。

 あの男は私をきっと好きになる。

 なあに、時間をかけても大丈夫だ。

 あんな性悪にしか見えない男を、誰かに横から掻っ攫われることはあるまい。

 これだけは自信があるのだ。

 そう見得を切って、私は鏡に笑いかけた。

 まさか、よりにもよって、自分の一番の親友が彼に惚れるなんて、その時は考えもつかなかった。

 人は恋をすれば阿呆になると言われるけれども、まあそれは確かだと証明してしまった。

 今思えば、他人から見えるレベルで藤堂君がまともな男振りに変貌しつつあったのが不味かったんだ。

 私が彼を育てすぎたんだ。

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