第20話 取説と桐原4


 ホームセンターで七輪を買う。

 俺の体躯の身長2mと比べれば、とても小さな七輪であり、もっと大きいものを買って配送させようとしたのだが。

 今肉が食いてえんですよ、そもそもキャンプ場で使うんじゃないんですよ。

 私のオウチである団地には、そんなデカい七輪おくとこねえんですよ。

 お前、私は玄関で、自分の靴の横に藤堂君が買ってくれた七輪並べるつもりだからな?

 洒落じゃねえぞ?

 そう桐原に責められたので、本当に一人用の小さな七輪を買った。

 木炭、着火剤、火バサミ、手袋、火消し壷等の関連道具も一式揃えて、当然のごとくに俺が全額を支払わされて向かうところは。


 「ここがお前の家か?」

 「貧乏市営団地であります」


 竣工年度は50年も経過しているだろうボロボロの住宅である。

 俺たちが生まれる前の大震災を経験しているせいか、リフォームこそされている物の災害時の対策は怪しいように見えた。

 団地に辿り着くまでに通りすがった道には古ぼけた「シンナーをやめよう!」「訪問販売に気を付けて!」「許すな! えせ同和行為」「いのちSOS 電話番号XXX-XXX-XXXX」「ネコと和解せよ」「犬を憎め!」「ゲッツ卿に注意! 食われるぞ!!」などといった看板がかかっていた。

 害鳥対策のためか、ベランダには古いCD円盤などが吊るされている。

 掃除している人がいないのか、それとも住民の質が悪いのかゴミなどが地面に散らばっている。

 すでに令和では禁止されているはずの違法風俗ピンクチラシがそこら中に散らばっている姿さえ見え、雨に濡れて丸まっているのだ。

 不法投棄は他にも多いのか、車のタイヤや、中古洗濯機などの粗大ゴミさえも転がっていた。

 令和の高齢化社会が影響してか、以前に俺が危惧したように貧困層の少年やワーキングプアを下っ端としたヤクザの構成員などは辛うじてうろついていない。

 その代わりに奇声を発したり、地面に唾を吐いている老人などが多く散見されている。

 俺は思わず口走ってしまう。

 脳裏に浮かんだのは、かつて存在したアジアン・カオスそのもののスラム街について。

 桐原の住居に対する明確な侮辱である。


 「香港の九龍城砦は俺たちが生まれる前に崩壊したはずだがな」

 「しばくぞ」


 口よりも先に、桐原は俺の尻に蹴りをいれた。

 本気の蹴りであるが、残念ながら俺の巨体にダメージは与えられない。

 市営団地は低取得層が住むところであるというのが、俺の知識だ。

 厳密に言えば、法律に「住宅に困窮する低額所得者」が対象の居住区であるとハッキリ書かれているのだ。

 別に低額取得者=貧困というわけでは決してなく、金持ちの低額所得者だっているし、住んでいる誰もが貧乏人というわけでもないだろうが。

 だが桐原の家庭に限っては完全に貧乏なので、俺などは色々と考えることがある。

 貧困の大多数は本人の怠惰が原因であるが、一部には責などなく、具体例を挙げれば眼前で歩く桐原の家庭には非など一切ない。

 この藤堂破蜂などは、父からハッキリとそう教えられて生きてきた。

 貧困の中で努力を欠かさぬ人間ほど立派な人はいないという価値観の刷り込みを父から行われているのだ。

 高校生になるまで貧困が出自の子供に出会ったことなどないが。

 初めての遭遇が桐原だった。

 大事そうに両手で、牛肉が入ったビニール袋を抱えている彼女だった。

 俺はそんな姿を見ていると、どうにもやりきれない気分になる時があるのだ。


 「肉屋さんで生まれて初めて分厚い牛肉を買いました。藤堂君の金で、ですけど」


 桐原が、自分の手にもつ味付き牛肉を眼前にぶら下げている。

 彼女はビニール袋の料金も取らなければ、現金以外は受け付けない変な肉屋で肉を買っていた。

 レシートもくれない店で、その代わりになんか妙に値段設定が安いところで、俺は初めて肉を買った。


 「あそこのお店、妙に肉が安いんですよねえ」

 

 桐原がホクホク顔で喜んでいる。

 お前、あの店は多分脱税しているぞ。

 そう思ったが、それは言わないことにした。

 ただ、ちょっとビニール袋の料金もとらないし、レシートもくれないし、現金決済以外を受け付けず、その代わりに値段がお安いだけの肉屋さんなのだ。

 いくら怪しいからと言えども、人を疑ってはいけない。

 仮に脱税していたところで、その金が桐原に還元されているのであれば俺に文句が言えるはずもなかった。

 

 「……肉を何処で焼くんだ」

 「そこらへんの団地住宅内の空き地でテキトーに」

 「本気かお前」


 俺は桐原の正気を疑った。

 疑ったが、逆に言えばそれだけである。

 俺はすぐに納得した。


 「……誰も文句なんぞ言わんか」

 「ベランダで肉を焼いてたらさすがに苦情ぐらいくるでしょうけどね。そこら辺の地面で七輪を使って肉焼く分にはどこからも文句なんか出ねえんですよ。藤堂君、密集住宅地の一戸建てが並んだ小さな庭でバーベキューをするほどの悪い行為じゃないですよ。これは」


 まあそりゃそうだが。

 俺はそう呟こうとして、はた、と気づく。


 「俺、桐原のお母さんに挨拶をしてないな」

 「放課後すぐはまだ仕事してます。家にはいませんよ」

 「そりゃそうか」


 俺の両親みたいに、一日中どっかで暇つぶししているわけではない。

 それにだ。

 挨拶をしてどうするというのだ。

 彼氏というわけでもないのだ。


 「……肉を焼くか」


 ため息を吐く代わりに、行動を能動に移した。

 考えるのは止めよう。


 「焼きましょう!」


 桐原は乗り気で答えた。

 だが、尋ねることがある。


 「桐原は七輪で肉を焼いたことが?」

 「ないです! やり方ぐらいは調べた事ありますよ!!」


 ぴし、と手を斜め上に挙げて答えた。

 イーッとでも言いそうな、特撮の戦闘員のようにである。

 はて、やらせるか、俺がやるか。

 悩んだ挙げ句、まあ最初は俺がやって見せればよいだろうと考える。

 段ボールの包装を解いて道具一式を取り出し、珪藻土で作られた小さな七輪に着火剤を放り込む。

 大きな木炭を並べて、着火剤に着火ライターで火をつけた。

 七輪本体の風口を開けて、炭が赤熱するのを待つ。


 「これで終わり」

 「簡単ですねえ」


 まあ、簡単じゃなければ人が火を使うことは出来ない。

 ここで調理となると面倒くさくなるのだが、火起こしだけなら簡単だ。

 新しい炭に火が付くのは時間がかかるので、何か会話をしようとするが、止める。

 そんなことをして何になるというのか。


 「ほー」


 口癖であるヒャア! とも言わずに桐原は火を見つめている。

 人は火を見つめていると、妙に無言になる。

 そう遺伝子に組み込まれているのだ。


 「……」


 桐原が沈黙している間に、色々なことを考える。

 よりにもよって「貧乏は悪だ。怠惰の象徴だ」などとほざく父が、同時に能力さえあればそれを全面的に認める父が、事あるごとに口にするようになった人物が、貧困の出自である桐原だった。

 俺が生まれて初めて『恵まれぬ環境』の出身者と交友を持ったのは、眼前の桐原銭子であり、今の高校に進学した一年生の時の話であった。

 最初はクラスメイトにヒャア! ウォォォ! などと世紀末じみた奇声を発する変な女がいる程度だと、化粧のケバいミニスカ淫売女や、ドスケベ風紀委員であるべーちゃんみたいなクラスの一風景だと考えていた。

 高校生にもなるのに無邪気なガキみてえのがいるとだけ思った。


 「藤堂君、炭火をウチワで仰いだりしてもいいですか。一度やりたかったんです」

 「好きにしろ」


 俺がその印象を変えたのは、最初の学年テストの時で生まれて初めて一番を奪われた瞬間である。

 今まで必死に勉強に勉強を重ねて、そうして積み上げてきた学年一位の座が桐原に奪われても、それでも俺は屈しなどしなかった。

 さすがに全国有数の高校ともなれば、俺より凄い人間がいるものだと。

 俺は彼女をライバル視さえもして、更なる研鑽を積んだ。

 だが――高校での一年を通す過程で、いつしか彼女にはどうしても勝てないと諦めるようになった。

 俺は彼女に勝てないのだと、多分何をしても知能や学習という面において、基礎能力で勝てないのだと判らせられてしまった。

 少し会話をしてみれば、弁舌で勝てないのはもちろん、思考回路が俺などとは遥かに違う。

 少々の常識外れはあるが、それを除けば知能指数がお前などとは違うとばかりに、くるくると頭は車輪のように回転する。

 桐原は、その場で手にした知識全てを水のように吸収して覚えてしまうのだ。

 学年テストだけではない幾つかの学校生活におけるイベントを通して、俺はそれを知ることとなった。

 藤堂破蜂は桐原銭子に明確に劣り、彼女には間違いなく一生勝てないのだと。

 大いなる屈辱を感じると同時に、僅かな尊敬の念を抱いて、それを言い訳にして俺は勝つことを諦めて、彼女を避けるようになった。

 俺の父などはそれを知らぬかのように、事あるごとに桐原の事を誉めていた。

 父が理事の一人を務めているウチの学校において、明確な学年一位である桐原への完全な絶賛だった。

 息子である俺のことなど、今まで人生で一度も褒めてくれたことはない癖にな!


 「……藤堂君、炭が赤熱してきましたよ。そろそろ軍手嵌めて、網を乗っけますよ」

 「好きにしろ」

 

 その状況が変わったのが、一年の三学期での時だった。

 私と付き合ってくださいと。

 尊敬の念さえ抱いていた学年主席の桐原が、何故かあまり交流を持っていない俺に対して、申し出てきたのだ。

 それは告白だった。

 俺は奇妙に思い、その告白を保留した。


 「俺はその答えを出せるほどに君を知らない」


 一度保留をして。

 そして、父に聞いた。

 彼女がこのような事を口にしたが、これはどうすべきかと。

 交際の判断を父親に委ねるなど、男として恥ずかしい行為をしたのではない。

 むしろ、その逆と言える行為で。

 俺は父に対して、こうハッキリと尋ねたのだ。

 『父さんは桐原銭子に対し、俺と交際するように要求したのではないか』と。

 父は答えた。

 『なんだ、お前にしてはわかってるじゃないか』と。

 桐原に『藤堂破蜂の彼女として付き合うように』、色々な援助と引き換えに父が要求した事を認めたのだ。

 だから、桐原からの告白を俺は拒絶した。

 それが全てで、それでも父から生活援助を約束された桐原は契約だからと、怯まずに、しつこく私に付きまとって。

 俺は桐原を拒絶したから、桐原の家庭への生活援助などしなくてよいなどとは父に告げずに。

 性的な関係ではないと告げているが、交際を拒否しているとまでは父には言わず。

 今、このように俺と桐原はダラダラとした奇妙な交友を続けている。


 「藤堂君、話を聞いているんですか」

 「聞いているさ」


 それが現状の全てだ。

 別に、父が何もかもを強要したわけではないのだろう。

 あの男は選択肢を突き付けて、むしろ意図的にそれを選ばせることを好んだ。

 桐原の弱みである金銭面の不備を握って、その全てを補填する代わりに俺との交際を要求した。

 父が何を考えてこんなことをしているのか、俺にはわからない。

 だが、一つだけハッキリしていることがある。

 桐原の俺に対する好意とは恋愛には程遠いもので、その愛情が偽物なのは誰が見ても明らかである。

 だから、桐原からの告白を俺は拒絶した。


 「椎茸も焼くぞ」

 「藤堂君。椎茸なんか焼かなくてもいいんですよ。小さい七輪だから肉以外は焼かなくていいんですよ。肉を焼きなさい。なんで貴方、偏食家の癖にキノコ類だけは大好きなんですか。漬物とか酢飯とか無茶苦茶に大嫌いで、寿司すら食えない癖に。前にキノコとミートソースのペンネ作った時、私の料理を滅茶苦茶褒めてくれたの覚えてますよ?」


 唯々諾々として生きてきた俺が、父に対して唯一反抗したこと。

 それが桐原との交際だった。

 俺は、桐原の事が男としては本当に大好きで。

 容姿も性格も、ドストライクな賜物で。

 性愛と言う区切りに限れば、桐原は本当に俺の好みと言うしかなく。

 

 「椎茸は七輪で焼くとうまいぞ」


 同時に、金銭面で父に操られて。

 俺に自分の愛情を売り渡すなんて行為をする、桐原の事は骨の髄まで大嫌いであった。

 憎んですらいた。

 藤堂破蜂と桐原銭子は、そういう複雑な環境で交友を続けているのだ。

 俺は一個の人間として、人格を尊重されるべき人として、人品を俺に売り渡すような真似をしている桐原の事を反吐がでるほどに嫌いなんだ。

同時に。

 それを求めた俺の父と、その受益者である俺は桐原に何度悔い改めても許されるべきではないクズだった。

 そう俺は考えているのだ。

 この心境を、桐原は知らないだろう。

 なんで貴方寿司食えないんですか、魚アレルギーの人はいますけど酢飯が嫌いって珍しいですよ。

 そのようなことをブツブツと呟いている桐原の顔を、愛憎入り混じった目で見つめる。

 桐原は木炭の火を見つめるのを止め、俺の目をひたと見た。

 彼女の瞳は美しく、燃え盛る炎などよりもずっと見つめていたいと思う時がある。


 「そんなに椎茸好きなんです?」

 「好きだね」


 だが、俺は男と女として、桐原と付き合うことは一生ないだろうと思っている。

 今の俺には椎茸に塩を振って焼くしかできなかった。

 七輪は、静かに椎茸を火で炙っている。

 その好ましい音が、どこか虚しく聞こえた。

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