第10話 猫と桐原2
神戸には元町高架下、略して「モトコー」と呼ばれる場所がある。
歴史をたどれば第二次世界大戦時、神戸大空襲により焼け出された人々が集まって築いた闇市をルーツとしているため、どうにも胡散臭い商店から普通の飲食店までが並んでいた。
我が父などの世代に言わせれば「泥棒市場」であった。
もっとも私の子供の頃の話であり、今はもう商店などない。
老朽化による耐震改修工事計画が実行されることにより、テナントの全てが退去してしまったのだ。
今は人すらろくに通らず、ただ寂れた田舎のシャッター通りのような有様となっている。
「……うん」
問題は、このような寂れたところに桐原がいる理由である。
桐原のGPS位置は確かにモトコーであり、閉まったテナントだけが並んだ場所を指している。
歩きスマホはせずに時折安全な場所で立ち止まりながら、画面を確認する。
「猫カフェにでも行って、猫を脅かさない程度の小声でヒャアヒャア言うことを決闘と呼んでいる可能性もあったが」
そういう可愛い話は桐原に似合わない。
よく考えるまでもなく、彼女は猫カフェに行く金など持っていないのだ。
猫を食わせる金があるならば、自分で焼き肉を食べると彼女ならば言うだろう。
桐原は焼き肉が好きだった。
焼肉チェーン店に連れて行った時などは「それで、誰を殺してくればいいんですか」と言っていた。
焼き肉を奢ってやった俺の事を、誰かの始末を依頼するヤクザのように認識していたのだ。
桐原にとっては、他人の命など和牛カルビ一皿480円より安いのだろうか?
さすがに冗談だと思いたいが、少し本気の目をしていた。
まあ、ともあれだ。
桐原は此処にいた。
何らかの目的を果たすためにやってきたのだろう。
「……なんぼなんでも、嘘だろうなあ」
ぼそりと呟く。
人間が猫と決闘などするわけがないのだ。
最初スマートフォンを私に渡そうとしたのも、追跡などされたくないためであろう。
正直、色々と不安になる時があるのだ。
桐原は奇行こそ目立つが、紛れもなく美少女である。
酷く下世話な話、女性の若い美貌は金になるのだ。
生きていれば何らかのトラブルに遭遇しやすい立場である。
治安の悪い貧乏市営団地に住んでいるとなれば、桐原の容姿は目を引くだろう。
貧困層の少年やワーキングプアを下っ端の構成員とした、小汚い半グレなどに狙われることもあるのではないか。
桐原がいくら私より賢いとあれど、緊急事態に陥れば人は判断能力が低下する。
令和の世となり犯罪は減少すれど、邪悪はただ身を潜めて悪事を働くようになっただけ。
私に言えない状況で、彼女は深刻な事態に陥っているのではないか。
まあ、なんだ。
「なんとでもなるさ」
危機管理と暴力には自信があった。
スマートフォンには110番アプリが入っており、電話などに時間を割けぬ緊急時でも通報は容易である。
緊急時用に、常に鞄には特殊警棒を忍ばせてある。
そもそも、この身長2m体重130キログラムの体躯である。
最低でも桐原一人ぐらい逃がす程度ならなんとかなるだろう。
覚悟を決めながらGPSをそっと確認すれば、もう桐原の近くまで迫っている。
特殊警棒を伸ばし、身をできる限り縮めるように潜める。
俺は高架下の出入り口から、シャッター通りの中を窺った。
日は暮れつつあり暗くて、中はよく見えないが。
「ヒャア! くたばりやがれ!!」
「ニャアア! ンナーオ!!」
声が聞こえた。
女の子の声であり、間違いなく桐原の声であった。
そして、相対するように猫の鳴き声も聞こえている。
ばん、と閉じたシャッターを蹴る音が聞こえた。
「畜生、避けやがった猫! 猫ちゃん!!」
「カカカッ、ギャッギャ! ンニャーオ!!」
桐原は蹴りに失敗したようで、罵りの声を上げている
猫は狩猟の際に興奮状態で発する『クラッキング』と呼ばれる鳴き声を上げた後に、警戒音を発している。
「猫ちゃん! 猫ちゃん!!」
「ンワーオ! ンワーオ!!」
ばん、と両手でシャッターを叩いたような音が聞こえた。
また空振りのようである。
最大音量の警戒音を発しながら、猫は叫んでいた。
鳴き声は段々と大きくなっており、いよいよ猫も戦闘モードに突入する予感がした。
「……うん」
沈黙する。
確かに桐原は猫と戦っていた。
俺は、付近を見た。
別にモトコーはスラム街の外れというわけでもなんでもない一等地であり、少し道を歩けば元町商店街がある。
そこでは沢山の買い物客が歩いており、その喧噪などが聞こえた。
ここだけだ。
ここだけが完全な異界と化しており、桐原銭子という名の美少女と。
名も知らぬ、なんかようわからんが桐原と戦っている猫と。
左手に緊急通報用のスマホを、右手に特殊警棒を力いっぱい握りしめているアホ以外の何物でもない俺がいた。
その二人と一匹だけが、異常な空間にいるのだ。
何処からか、ハシブトガラスの鳴き声が聞こえる。
あの鴉の種類は卵を育てている雌に対して、餌を取ってきたよという連絡で「アホー」と雄が鳴くのだ。
「……」
口をへの字に曲げる。
いき込んでいた俺は何もかもが恥ずかしくなり、特殊警棒を畳んで鞄に放り込む。
ポケットにスマホを入れて、ため息を吐いた。
俺はアホだった。
何もかもわかっちゃいなかったんだ。
桐原は何もかもを正直に言っただけ。
「なんで猫と決闘してんだアイツ。人生どうすれば、そんなイベントが発生するんだよ」
俺は頭を抱えて、強く呻いた。
桐原は、頭がおかしい美少女だった。
それだけは間違いなかった。
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