土方歳三という人 参

 総司の雰囲気が変わったことに気付かないふりをし、凛は言葉を続ける。


「だから丁度良かったです。もう一度お会い出来て」

「律儀だねぇ。別に挨拶なんか態々わざわざしなくてもいいのに」


 でも、と総司は言葉尻を下げ、蒼馬に聞こえないよう凛の耳元へ唇を寄せた。


「なんで僕の姓を知ってるの? 名前は皆が呼んでるから分かるとはいえ」

「そ、それは」


 どくりと心臓が嫌な音を立てる。


(しくじった)


 後悔しても、もう遅かった。

 自然と総司を『沖田さん』と呼ぶ事が染み付いていたからか、自分が失言していると気付くのが遅れたのだ。


「それは?」


 総司は緩く首を傾げ、凛の言葉を待っている。


(どうしよう。何か、何か言わないと……!)


 急速に頭をはたらかせ、総司が納得してくれる言葉を探す。

 総司と出会ってからここまで、自分の瞳には何が映っていたのか。

 総司がいなくなってから、自分は何をしていたのか。


(あ……)


 そこまで考えを巡らせると、確信的な光景が凛の頭に浮かんだ。


「──稽古場、に」


 ぽつりと呟いた言葉は、辺りにゆっくりと波紋を広げていった。


「稽古場の掛け板に、沖田さんの名前があったので」


 季節問わず常に開け放されている稽古場の障子からは、この試衛館の人間達の役職や木札が掛け板に掛けられている。

 そこには三代目宗家である周助の名を筆頭に、塾頭やその他門下生達の名札があった。


 その中の木札──塾頭の欄に、総司の名があったのだ。


「あー、あれね。あんなのただの肩書きだよ」


 凛の言わんとする事に察しが付いたのか、溜息を吐くように総司は言った。


「でも偉いね、凛ちゃん。こんなに小さいのに字が読めるなんて」

「っ」


 そして何を思ったか、ぽんぽんと頭を撫でられる。

 蒼馬とはまた違う手の温かさに、凛は図らずもきょを突かれてしまった。


 すぐ隣りから蒼馬の殺気を感じるが、総司は気付いていないのか、はたまた知らないふりをしているのか、どこ吹く風だ。


(兄上……)


 今日何度となく、蒼馬に可愛がられていると実感した。

 だから、分かってしまったのだ。


(そこまで嫉妬する何かがあるのですか!?)


 半ば呆れともつかない、声にならない声を叫ぶ。


「沖田さん」


 しかし、荒れ狂う心の内とは裏腹に、凛は神に感謝すら覚えそうになった。


「うん?」


 立ち上がった総司に向け、凛は視線を投げ掛ける。

 樹々を思わせる瞳と、宵闇よりも深い紫紺の瞳が暫し絡み合った。


「……近藤さん、でしたっけ。あの人が会っている方に、会いたいんです」


 いそいそと出掛けた勝太が誰と会っているのか、凛はとうに理解しているのだ。

 蒼馬が周助と話していた内容は、全て凛の耳に入っていた。


 話の邪魔にならないよう会話には入らず、ただじっと竹刀稽古を見つめていたのだ。

 掛け板の下の欄には、門下生の木札もある。

 土方が未だ試衛館に入門していないというのも、その名札が無かった為気付けた、といってもいい。


「は? なんで僕が? さっき湯浴みから帰ってきたんだけど。蒼馬くんじゃ嫌なの?」

「嫌、という訳ではないんですが」


 蒼馬は凛を送り届けた後、数刻は試衛館で稽古をするだろう。

 周助の部屋を訪ねたはいいが、蒼馬がその場に居ようものなら、すぐにでも『連れて行く』と言うに違いない。


 もっとも、蒼馬が勝太と土方が落ち合う場所を知っていたらの話だが、貴重な時を自分に使わせるのは正直のところ気が引けていた。

 その為、総司と鉢合わせたのは正に渡りに船だった。


「兄上、本当はお稽古に来たんですよね? 周助先生とお話が終わったらすぐ戻るので……駄目ですか?」


 ちらりと隣りにいる蒼馬を見上げ、こいねがう。


「俺じゃ嫌なのか。そうか、俺じゃ……」


小さな声でぼそぼそと呟く蒼馬の表情は、この世の絶望を集めたかのように、まるでどす黒くよどんでいた。

 しっかりと繋がれた手が小刻みに震え、凛にまで振動が伝わってくる。


(よ、予想以上に落ち込んでいらっしゃる……!)


 そこまで共に行動したいのか、という兄に対する思慕が湧き上がると同時に、あまりの剣幕に蒼馬のことを敬遠しそうになった。


「……後で蒼馬くんに殺されたくないなぁ」

「は?」


 不意にぼやいた総司の言葉で現実に引き戻されたのか、ゆっくりと蒼馬が首をもたげる。


そんなに言うなら今、此処で望み通りにしてやろうか……?」


 武器は無いが、此処は剣術指南道場だ。少し走れば竹刀や木刀は勿論、刀もある。


「あ、兄上!?」


 今にも摑み掛かりそうな空気に、流石の凛も焦る。

 まさか自分の一言で、蒼馬がここまで怒るとは予想していなかった。


(ど、どうして……。私はただ、兄上の負担を減らそうとしただけなのに)


 失言したつもりはなかった。

 本当に負担を減らしたい、そんな思いから出た言葉だった。


 蒼馬が感情を爆発させないと、どこかで高をくくっていたのだろう。

 蒼馬とて、まだ少年と青年の狭間に居る。

 見目こそ整ってはいるが、その心はまだ子供だと凛が気付いていないだけだった。


(そうだ、間違っていたのは私なんだ。だから)


 蒼馬に甘えに甘えていた。

 凛がずっと見ていたのは、この時の蒼馬ではなかったのだ。

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