試衛館の面々 伍

 一歩二歩と床を踏み締める度に僅かに木の香りが漂い、凛の鼻腔を優しくくすぐる。

 総司はとっくに稽古場へ行ってしまったのか、それとも自室に戻ったのか、既に姿はない。


(沖田さんはやっぱり沖田さんだ)


 気に入らない事があれば一人で稽古に打ち込むか、部屋に戻って何かしらをやっているのがつねだった。

 前者は分からないでもないが、後者は凛ですら知らない。

 部屋に戻る前には必ず『ふすまは開けないでね』と釘を刺されてしまうからだ。


千夏ちなつちゃんなら、知ってるかな)


 今から十年ほど後に会う少女の姿が、浮かんでは消える。

 その少女は、新選組が上京して少しした後にやってきた。

 凛は勿論だが、中でも同じ年頃の男達とよく話していたように思う。


 そして、総司のお気に入りの人間だった。


(千夏ちゃんに出会って、沖田さんは変わられたもの。でも……あと十年と少しが経てば、あの人は)


 そこから先は考えるのを止める。

 知り得ている未来を懐古しても、過去に居る間は何にもならないと、凛はとっくに知っていた。


「此処へ来るのは初めてかい」

「っ」


 不意に声がした方を見上げると、周助が優しげな瞳で凛を見つめていた。

 既に稽古場へ着いていた事に、周助から声を掛けられるまで気付かなかった。

 大人数が集まり宴会が出来るほどの広間には、二十人以上の男達の竹刀を打ち合う音が響き渡る。


 稽古の邪魔にならない場所で、座り込んだり寝転がっていたりする人間もおり、その激しさを物語っていた。


「はい。……兄上が立ち寄るから、と」


 凛はじっと周助を見つめ返し、はっきりと声を出した。

 そのさまに三代目宗家は、更に瞳を細める。


「年の割に随分としっかりしているらしい。──連れて来たのは自分の姿を見せる為、か?」


 言いながら隣りにいる蒼馬に視線を向け、周助は問い掛けた。


「まぁ、そうです。あと、凛を紹介したかったので」


 蒼馬の優しく温かい黒曜石の瞳が、凛に向けられる。


「ほう?」

「この子は俺の稽古にいつも付き合ってくれるので……なら、此処に連れて来ても大丈夫だと思いまして」

「わ、ちょ、兄上」


 ぽふ、と頭に手を乗せられたかと思うと、乱雑に掻き混ぜられた。


「やめてください!」


 堪らず凛は抗議の声を上げた。

 蒼馬のように一つに結っている訳ではない為、こうも雑に撫でられては簡単に乱れてしまうのだ。


「はは、悪い悪い」

「うっ……。次はありませんからね」


 反省の色のない声音だが、こうも屈託なく微笑されては許す他なかった。


(兄上の色香がこの時から健在だとは……)


 溜息が出そうになるのを気力で堪える。

 蒼馬がこの時点で元服を済ませたかどうかは分からないが、その見目は勿論のこと、そこらの役者に劣らないあでやかさがあった。


(おかしな方に捕まらなければいいけれど)


 凛の思考が明後日の方向に飛んでいる間も、頭上で蒼馬と周助の会話は続いている。


「……むさ苦しい男所帯に、か」


 兄妹の様子がおかしかったのか、はたまた蒼馬の言葉を自虐と捉えたのか、ふっと周助が自嘲気味に笑う。


「同じことを源さんも言ってました。まぁ……男だけだからこそ、俺は此処に寄ったんです」


 釣られたように蒼馬も小さく微笑む。


「凛はきっと、これから強くなる。何故かは分かりませんが──そんな気がしたんです。勘ってやつですかね」


 うんうんと一人うなっている凛を見つめる蒼馬の瞳は、この世の何よりも優しい。

 凛が痛くならない程度に、繋がれている手にそっと力を込めた。


「だからこそ、俺の目の届く場所で凛が強くなっていくところを見たい。──周助先生、妹の試衛館への入門を許可してくださいますか」


 蒼馬はまっすぐに周助を射抜く。

 試衛館は男所帯だが、何も女人禁制という訳ではない。

 飯炊きや食事の世話、果てには敷地内の清掃までその仕事は多岐にわたる。


 しかし、この場に集う人間の殆どが男だ。

 そのただ中に幼い妹を入門させるなど、未だかつて無いものだった。


「──凛よ」


 周助は熟考の末、やや迷いつつも凛に声を掛けた。


「……なんでしょう、か」


 びくりと凛の肩が震える。

 もしや会話を聞いていない事がばれてしまったのだろうか。


 周助──天然理心流三代目宗家は、普段は好々爺然としているが、その実勘が鋭い。

 瞳が僅かに揺れ動くさまも、呼吸や言動ひとつとっても、その裏に見える感情を読み取られてしまう。


(どうしよう、謝罪すべき……? でももし違っていたら)


 こちらが恥をかいた方が遥かに良いだろう事は、とうにわかっている。

 しかし、言葉が続かないのだ。

 喉に何かが張り付いてしまったかのように、声が出ない。


「そう怯えるな」


 すっと周助がしゃがみ、凛に目線を合わせる。


「お前の兄様が試衛館に入門させたいと言うが、どうだ? 剣術をやるか?」


 怖がらせないように、だろうか。ゆっくりと川がさざめくように紡がれる言葉は、不思議と晩年の周助を思い起こさせた。

 やまいおかされる間際、一度だけ周助を訪ねた事があった。


『お前は京へ行くのか?』


 浪士組として上京する前、既に床に臥せていた周助から言われたのだ。

 その時と同じ声音、同じ口調で訊ねられた凛の応えはただ一つだった。


「──ます」

「うん?」


 周助がやんわりと首を傾げ、先を促してくる。


「やります、入門させてください」


 気付けばその名の通り、凛とした声で宣言していた。

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