凛と咲き誇る花よ、誠の下に咲く華よ -幕末異聞譚-
櫻葉月咲
序章
終わりの始まり 壱
明治二年、五月。
蝦夷は箱館。
とある一室には女がひっそりと、寝台からすぐ側の椅子に座り込んでいた。
女が視線を向ける先には、男が一人寝台に横たわっている。
しかし、その胸は上下していない。ただ、寝顔だけは──否、死に顔だけは清々しいほど健やかで、およそ死人とは思えないほどだ。
もう見慣れたはずだが、左肘から先が無いのは痛々しい。
それもこれも、全ては自分が
それだけは一生、忘れる事はないだろう。
「……
女は寝台に横たわる男──八郎の頬を撫でる。
その頬は生者のそれとなんら変わらないほど、艶やかだった。
「今日でこの戦争は終わるんです。貴方が夢見た、新しい世が来るんですよ」
頬を撫でる手に、ぽたりぽたりと雫が落ちる。
「なのに、どうして……! どうして私を
途切れ途切れになりつつも言葉を紡ぐ。
「貴方は、本当に酷い人。……私にどうしろと言うんです」
この子は貴方の子なのに、と口の中で呟きを落とす。
最後の語尾は聞こえないほど微かなものだったが、何かを言葉にしないと、この現実を受け入れてしまいそうで怖かった。
もう八郎は手の届かない所へ行ってしまったと、受け入れるのが怖かった。
「八郎さん……」
先程見つけた
そこに書かれていたことは、自分がいなくなった先の事を案じるような言葉の羅列が、びっしりと書き連ねられているだけだった。
自分が死んだ後は好きにしろ、との旨もあった。
八郎は知らない。
八郎が思っているほど、女の愛が深いことを。八郎以外を愛せないことを。
ハラハラと落ちてゆく涙を、女は何とはなしに見つめる。
泣いているのは、自分を置いて逝ってしまった八郎のせいだ。しかし、そう思うと同時に護れなかったという悔しさが募る。
すると控えめに扉を叩く音が響いた。
「
ひく、と肩で呼吸するように女は空気を吸った。
女──神宮寺の許可を待たず、来訪者は音もなく扉を開ける。
入ってきた人物は、ひとりの壮年な男。綺麗に整えられた口髭が印象に残る、切れ長な瞳をした男だ。
「──
深い
榎本
見たところ、八郎の身体には傷ひとつ無い。
人体に害を為す薬を盛ったのが、この男であろう事は明白だった。そんな元凶とも言える男を、神宮寺は振り仰ぐ。
「八郎さんに何をしたのですか」
空気に溶けて消えてしまいそうな、小さな声音で神宮寺は呟くように言った。
声を出すのも億劫で、今すぐにでもこの場を出て一人
けれど、これだけは問わなければならなかった。
八郎は自分の意思で逝ったのか。それとも、榎本が促したのか。
「……逝ったか」
しかし神宮寺の問いに答えず、榎本はじっと八郎に視線を向けた。
その表情は痛ましく、ともすれば哀しい──そんな表情だ。
「私が部屋に入った時にはもう……」
神宮寺はふるふると小さく首を振る。
もしもあの時、八郎と共に榎本を出迎えていれば或いは──もう叶いもしない願いを、この現実を、数瞬の間に何度となく悔いていた。
「そうか」
「──榎本さん」
きっと神宮寺は椅子に座る榎本を睨み付ける。
すべての元凶が誰なのか、気付かない方がおかしいと言えた。
「どうか、本当の事を
「失礼します」
「っ」
神宮寺が言い募ろうとしたと同時に、部屋の扉が二度鳴らされた。
「入ってくれ」
榎本が静かな声で言う。
この部屋の主は八郎だが、既にいない人間だ。
本来であれば、その恋仲であった神宮寺に入室を促す権利があるはずだが、抗議する間もなく扉が開いた。
「すみません、お取り込み中でしたか……?」
控えめに姿を現したのは、昔からの馴染みであり、共に戦った戦友──
現在は神宮寺よりも格下の職に就いている為、この場では部下だ。
闇夜を嵌め込んだような濃紺の瞳には困惑の色が滲み、きりりとした眉を僅かに下げ、こちらの出方を遠慮がちに伺っていた。
「いいや、俺に用があったんだろう。すぐにでも行こう」
桐生が部屋を訪ねた理由を悟ったのか、榎本は椅子から立ち上がろうとする。
「あ、いや……確かに用はあるんですが」
歯切れの悪い言葉と共に、ちらりと神宮寺を
元より自分は「異質」なのだ。本来ならば居てはいけない人間で、あまり良い事ではないのは明白だった。
桐生とて昔馴染みとは言っても、互いの事はあまり知らない。
女という身分は、いつだって邪魔をするのだ。
(八郎、さん)
神宮寺は桐生の視線から逃れるように瞼を伏せ、夢想した。
神宮寺の身は一人のものではないと、優しい言葉を掛けてくれた最愛の人はもういない。
守り守られたあの腕に、もう抱かれる事はない。
傍にあった温もりが無くなった事以上に、女であるという事が何よりも悔しく、
仮に自分が男であれば八郎が腕を失う事はなく、今この時も隣りに立っているはずだった。
そうでなくても、もっと強ければここまで失う事はなかったはずだった。
しかし、そんな願いを抱こうと過去には戻れない。
(心からお慕いしております)
──誰よりも強く、優しい貴方に出会えて幸せでした。
永遠に応えのない言葉を胸に秘め、神宮寺は瞳を開いた。
「……桐生さん」
「は、はい」
神宮寺に名指しされた桐生は、一瞬目を
「榎本さんに用がおありとの事でしたか」
努めて落ち着いた声音で桐生に問い掛ける。
「はい、良ければ──」
「ここに私が居ては都合が悪いはず。席を外しているので、終わったら呼んでくださいね」
桐生の言葉に被せるように、神宮寺はにこりと微笑んだ。
本当はこの場に留まりたかった。八郎の傍にいたかった。
けれど、このままでは自分は邪魔でしかない、立ち去るべきだと本能とは別の理性が言っている。
「ちょ、
慌てた桐生の静止も聞かず、神宮寺は眠るように逝った八郎の部屋から去った。
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