第15話
夜から朝にかけての勤務だと、定時で退社しても早朝だ。出社する時間によって多少の幅があるものの、今から学校や職場へ向かう皆さんとすれ違うことが多い。
日勤や、もう少し遅めの時間に退社するスケジュールだと、早く上がれば楽しみもそれなりにあるのだろうけど、ただでさえ楽しみや立ち寄る場所が少ない時間帯では、多少早くなったところで、嬉しさも喜びもそんなにない。
終電後も開いていそうなお店だって、流石に一旦閉めるタイミング。駆け込みで一杯ひっかけて帰るには、場所柄が悪い。未明から動き出すような市場もなければ、二交替、三交替の工場もほぼ見当たらない。
太陽の位置もまだまだ低く、朝というよりはまだ夜の時間帯だろうか。気温も全く上がっていない。あまりの風の冷たさに、意識せずとも目が覚める。私は、帰宅してから何をするか、クリアなはずの頭を悩ませた。
とりあえず、出社する際には立ち寄らなかった、いつものコンビニへ立ち寄った。特に何か買うものがあるとか、用事がある訳でもなく、一つのルーティンとしてグルっと店内を一回りする。いつもの寄り道も、一区切り。
この間モーニングを食べに行った喫茶店か、駅前のハンバーガーチェーン店へ立ち寄っても良かったけど、どちらも開店時間前。流石に少々早すぎる。私はイートインでホットコーヒーを一杯飲んでから、自宅へ戻った。
閉店時間が遅い「キツネ亭」も、流石にこの時間帯はやっていない。珠緒さんがまだいるなら、出勤前にココでした話をもう一度やりたかったけど、それはまた今度にしよう。私がエレベーターを降りると、乗ってきたエレベーターはすぐに下へ降りて行った。こんな時間に、頻繁に上下するようなエレベーターには思えないけど、たまにはそういうこともあるか。
私は念の為周囲の様子を確かめて、立ち入り禁止の看板を跨いで階段を登った。出てくる時は、慌てて昇り降りしたんだっけ。一日、二日空けた部屋なのに、余り長居せず、戸締りも適当に出てきてしまった。
誰も来ないはずだし、盗られて困るようなものもないはずだけど、大丈夫だよね? 私は出て行った時の自分を信じて、ドアノブに手を掛けた。軽くドアを引いてみると、ちゃんと鍵は掛かっていた。
私はホッと胸を撫で下ろし、カバンから鍵を取り出して中へ入った。玄関で靴を脱いで部屋へ上がろうとした瞬間、ドアの閉まる音は聞こえなかった。反射的に中から鍵を下ろすために後ろへ伸ばしていた腕は、後ろにいた何者かによって掴まれていた。私は思わず悲鳴を上げそうになったが、ここで叫ぶのはよろしくない。ゆっくり目を閉じ、息を呑んでから、ゆっくり後ろを振り返った。
視線の先には、感情のない顔でこちらを見ている風祭先輩の姿が見えた。彼は靴の先をドアの隙間に捩じ込み、ドアが閉まり切らないようにした上で、ドアの隙間から私の腕を掴んでいた。
「なんで、先輩が?」
彼に付き纏われていたのは前から分かっていたし、ストーキングするなら自宅へ来るのも分かっていたけど、こんな時間に、こんな場所で彼と遭遇するはずがない。秘密を抱えてから十分に警戒していたつもりだけど、後ろへの気配りが甘かったか。尾行に思い至らなかった自分が情けない。
彼は不気味な笑みを浮かべ、部屋の中に入ってきた。私は掴まれていた手を振り解き、後ずさって距離を取る。彼は部屋の中を入念に確かめながら、「へ〜、ここが君の秘密基地か」と素っ頓狂に言う。
「君が菓子折りを持っていくような、得意先、大事なネタ元はどちらにいるのかな?」
彼は私の視線を見逃さず、「そうか。ここか」とゼロくんの部屋へ続くドアに手を伸ばした。
「そこまでだ」
リビングの方から、耳馴染みのない声が聞こえて来た。ゼロくんはまだ帰ってこないはずだが、幻聴ではないらしい。風祭先輩は手を止め、私の後ろを見て目を丸くする。
「何故アナタが?」
「君に答える義理はない」
風祭先輩は、驚き半分、恐れや怯えが半分といった様子で、ズッと私じゃない誰かを見ている。私も声の主を確かめるべく、そちらを見た。視線の先にいたのは、微かにゼロくんっぽい面影がある、別人だった。その顔は、前に一度だけ見たことがある。
「弟の生活を脅かすのと、弟の大事な人を怯えさせるのは宜しくないなぁ」
彼は靴を履いたまま、ゆっくりとこちらに近づいて来る。距離が詰まれば詰まるほど、風祭先輩の表情は険しくなる。
「弟だと? なんの話だ」
「お前は知らなくていいコトだ。どうしてもと言うなら、教えてやろうか?」
彼は私の横を通り過ぎると、風祭先輩に向かって腕を伸ばす。風祭先輩は、「ひっ」と顔を引き攣らせ、後ずさる。
「お前はお前の役割を果たせ。弟と彼女には二度と付きまとうな」
彼にそう言われると、風祭先輩は首がもげそうな勢いで何度も頷いた。「分かったら、さっさと行け」と言われた彼は、足早に部屋を出て行った。
風祭先輩が出て行った後、彼は内側からドアに鍵を掛けた。彼は私を見て、「もっと気をつけないとね。注意が甘いよ」と優しく言った。彼はその場から動かない私を追い抜いて、リビングへ移動した。
私は心と頭を落ち着かせながら、ゆっくり彼の後を追いかけた。彼は勝手知ったる様子で、食卓に腰掛け、こちらを見ている。私は何をすべきか悩みに悩んだ挙句、お礼を言い忘れていることに気が付いた。
「助けてくれてありがとう、ございます」
「良いって、別に。あと、敬語も要らない。お姉さんの方が年上だし」
彼は軽い調子でケラケラ笑った。前に出会った時は、真剣な面持ちで私を締め上げようとしていた。
「弟の不在時に、アイツが悲しむようなトラブルは起こしたくないしね」
「弟ってことはやっぱり……」
彼は「そういうこと」と頷いた。彼が、犬上さんが捜していて、珠緒さんが会いたがっていた、創ちゃん? ゼロくんと同様に、コウモリの能力を組み込まれた改造体。いつも眠そうなゼロくんとは違い、朝も早いのに随分と活動的な印象だ。
「ちなみに、先輩とはどういう関係で?」
たまたまゼロくんと出会って、彼の下で共に暮らすようになった私が気にすることでもないような気はするけど、彼らと関わりを持つのは簡単ではない。さっきのやり取りを鑑みるに、どうやら先輩は私より深く、彼らと関わっているようにも見えた。
「簡単には教えられないな。特に、君には」
彼は微笑みながら、私にウィンクする。
その口ぶりから察するに、完全な秘密ということでもないらしい。知りたければ、自分で調べろってことか。手間暇かけて、調べたくなるようなことでもないけど……。
彼はしばらく椅子の上で、手持ち無沙汰に身体を揺すっていたけど、とうとう飽きたらしい。「アイツはまだ戻らないらしいね」と、立ち上がってフードに手を掛けた。
「あ、えっと、犬上さんとか、珠緒さんとかが」
私は慌てて彼に声をかけた。彼はフードを被り、こちらを見やる。
「話したいって? オジさんと、珠緒さんか」
彼は外套の端を掴んで、軽く何度か振った。歪みが取れて、形が整ってくる。
「考えておくよ。伝言、ありがとう」
彼はそれだけ言い残すと、すぐに向かいの窓から外へ身を投げた。直後に舞い上がって来るのも知ってはいるけど、飛び降りる瞬間はいつもヒヤッとする。外套を器用に動かして、宙を優雅に滑空する。
ゼロくんを介して話を伝えてもらうはずが、直接対話することになるとは。結局、彼は何をしにココへ来たのだろう? 弟の不在を警備するために来たのなら、それほど悪い人ではないのかもしれない。
犬上さんの用事が済んだかどうかは定かではないが、ここから先は私の管轄外。私はとりあえず上着を脱ぎ、部屋着に着替えて洗面所で手を洗った。捨てても良い古タオルで、男どもが土足でウロチョロした箇所をしっかり掃除する。
今夜には帰って来ると言ってた気がするけど、メイクを落として仮眠を取ったら、どうしよう? 次の日も普通に仕事の予定だけど、たまには腕に寄りを掛けて美味しいものを作ってみよう。レシピとか、好きなものは珠緒さんに聞きに行こう。
床を拭きながら、仮眠後の予定に思いを馳せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます