第9話
私は、半額シールのついたお惣菜をそのままテーブルに並べ、冷蔵庫に入れておいた缶ビールを開けた。ゼロくんは、珠緒さんが作ったもの以外はほとんど口にしない偏食かつ省エネ体質らしく、私も無理に食べさせるつもりはない。
彼は斜向かいの椅子に座ると、いつものようにコートを掛け布団代わりにして目を閉じた。どうせ寝るなら自室のベッドで横になれば良いのに、私がいる時は私の側で寝ようとする。彼のことだから、監視目的か暖房器具代わりに利用されているのだろうけど、寂しさを埋めるつもりで擦り寄って来ていると思って、一人で勝手に喜んでいる。
「お兄さん以外のご家族はどうしてるの?」
私はいつものように、眠っている彼に問いかけた。一人暮らしの部屋でテレビに話しかけるようなものだけど、彼の興味が向けば目を閉じたまま返事やリアクションを返してくれる。ただ、今の質問は聴き方が悪かったのか、話題が良くなかったのか、彼は完全に無反応だった。
私はお惣菜の中華サラダを口に運びながら、自分で口にしたことを反芻する。そう、家族。彼とそういう関係は全く無いにせよ、一緒に生活するとなればご両親への挨拶ぐらいはしておくべきでは。社会人として、大事な配慮、手続きを欠いてしまった。
「ご両親は、ご健在? お元気にされてるなら、挨拶とか……」
私がそう言うと、彼は重そうな瞼を微かに上げた。
「オレの家族は、兄貴と珠緒さんだけ。親の顔は覚えてない」
彼は掠れた声でそう言うと、椅子から腰を上げた。大きな欠伸をすると、コートを引き摺りながら、自分の部屋へ歩いていく。
私の問いかけが鬱陶しかったのか、彼にしては随分早い時間にベッドで横になるようだ。つまり、今夜は外出や「仕事」が無いってことでもある。私も久々に、朝までゆっくり出来そうだ。
そうと分かれば、さっさと食事を終えて、お風呂の段取りと行かねば。駅の向こうにあるスーパー銭湯は一人で行っても楽しいけど、湯冷めを考慮するなら手前のお風呂屋さんにしておきたい。
私はお惣菜の残りを食べ、ゴミをまとめた。缶ビールの残りをグッと飲み干し、もう一度出かける準備に取り掛かった。誰に見られるわけでもないし、メイクはしない。いつものお風呂セットと、仕事着より地味な部屋着に、お気に入りの上着を羽織って部屋を出る。階段を降りた後、お店の前でエレベーターを待つ時間が一番キツいけど、大きめのサングラスとマスクをつけさえすれば、どうと言うことはない。
洗濯しておきたかった小物もカバンに詰め、寒空の中、銭湯へ向かった。
眠りが深かったのか、翌朝は日が昇らないうちに目が覚めた。布団から出たくなくなる寒さではあるものの、眠気という点では全くもって未練がない。遅番の方が給料がいいからと昼夜逆転の生活を続けていたけど、やはり夜に寝て朝起きる方が身体にはいい。
私は布団の中で気合いを入れると、えいやと抜け出して着替えを済ませた。寝癖でボサボサの髪に軽く櫛を入れ、かすかに暗いところで三面鏡と睨めっこしながら、朝のスキンケアと軽いメイクも済ませた。
カバンの中から腕時計を取り出すと、時刻はまだ午前七時になっていない。お湯を沸かして、紅茶かコーヒーを入れ、適当に食パンをかじる朝食でも構わないけど、今朝はまだまだゆっくりできる。
どうせなら、近くの喫茶店で優雅にモーニングでも楽しみたい。自分一人で出かけてもいいけど、折角なら道連れが欲しい。私はケータイでこの時間から空いている喫茶店を探しながら、ゼロくんの部屋に向かった。ドアノブに手をかけ、できるだけ音を立てないように静かに開ける。彼は、ベッドの上で死んだように眠っている。「仕事」でない限り、コレが彼のデフォルトとも言える。
細い隙間からジッと見ていると、息をしているのかどうかも不安になるぐらい、綺麗な姿形を微塵も動かさないまま、目を閉じている。
「なんだい?」
彼は目も開けず、身じろぎ一つすることなく、声だけを発した。
「眠りは妨げないっていう、約束だったはずだけど」
彼は目を少し開け、鋭い目で私を見た。私はそれに臆することなく、「一緒に、朝ごはんどうかなと思って」と言った。
「昨日は早く寝てたし、一回ぐらいさ」
私が何を言っても彼は聞く耳を持たないと言った様子で、何も答えない。私は検索結果が表示されているケータイをちらっと見て、次のカードを探した。数は多くないけど、甘味が豊富な喫茶店もヒットしていた。
私はそのうちの一つをタップして、グルメサイトのページを開いた。そこに掲載されている写真を選択して、彼に良く見える画面を突き出した。
「モーニングだけじゃなくて、パフェもあるって。フロートも選べるみたいだし」
私が「パフェ」と口にした途端、彼は素早く身体を起こし、私のケータイに顔を近づけた。私の手を押さえ、画面に表示されている写真を穴が開きそうな目で見つめている。
「よし、行こう。今すぐに」
彼は私の手を離すと、身体からずり落ちていたコートを羽織り、フードも目深に被った。彼は私を置いて玄関とは反対方向へ行こうとするが、私は彼の手を引いて「こっち」と強引に振り向かせた。
「お兄さんも君も、なんで窓から出入りするのかな」
「その方が楽だからだけど?」
ゼロくんは、私の抗議が納得いかないといった様子で即答した。私は後頭部を掻きながら、「君らはそれでいいんだろうけど」とぼやいた。常人離れした特殊能力を持つ彼らなら、煩わしい人様のやり方なんて踏襲する意味もないのだろう。
ズボラというよりは、合理的と言った方がいいそのやり方に、私も力があれば賛同しただろうけど、今回は一緒に行きたいのだから、こちらに合わせてもらわねば。彼に抱き抱えられる形で地上へ降りられても、私には好ましくない。
私はゼロくんに、玄関で少し待つように言い、カバンと上着を手に取った。ケータイと財布も忘れないようにカバンへしまうと、ちゃんと待っていたゼロくんに声をかけ、外へ出た。誰も来ないとは言え、念の為に鍵をかけ、先に階段を降り始めた彼を追いかける。彼はキツネ亭の前で私というより、エレベーターが来るのを待っていた。
私は一人で先に行こうとするゼロくんを制しながら、目的地までの道のりを何度も確かめた。エレベーターで下へ降り、ビルを出る。高架の向こうにある商店街へ行くと、その中にあった年季が入った喫茶店に足を踏み入れた。
まだ少し早いのか、道中ですれ違う人は少なく、お店の中も空いていた。すぐに中へ案内され、四人掛けのテーブルに通された。私はトーストと茹で卵、ブレンドコーヒーがセットになったモーニングを、ゼロくんはパフェとクリームソーダを注文した。見事なグレイヘアの店主は、「朝からパフェかい?」と驚きながらも、快くサービスしてくれた。
私としては、少しぐらいのんびりと朝食や喫茶店の雰囲気を楽しみたかったけど、ゼロくんは自分の欲に忠実で、あっという間にパフェもクリームソーダも平らげた。私は一刻も早く帰りたそうにしている彼を引き留めながら、猛スピードで分厚いトーストと茹で卵を食べ、火傷しないように気をつけながらコーヒーを飲んだ。
ゼロくんが一人で帰らないように引き留めながら、お会計を済ませて外へ出た。人の良さそうな店主は、早々と店を後にした我々にも、「またどうぞ」とお店の外まで見送りに出てくれた。
ゼロくんはそんな機微に気を引かれることもなく、ズンズンと一人で自宅へ歩いていく。明るくなり始めた街を出歩くのは、本意ではないらしい。
駅前まで戻ってくると、向こうの方に見知った顔が見えた。アレは確か、犬上さん。彼はこちらに気がつくと、必死の様相で近付いて来た。
「よお。久しぶりだな」
犬上さんは、白い息を吐き、両手を擦りながら言った。隣にいるゼロくんは、犬上さんを睨みつけるように見下ろしている。彼と一緒にいられるところを目撃されたからと言って、必ずしも編集長に情報が行くとは思わないけど、できるだけ穏便に事を済ませたい。
犬上さんは「狸」で店番をしている時とは明らかに違う、鋭い目をしている。私も記者の端くれとして、同じ目をしたことがある。何かを掴もうとしている人の目だ。
彼は「朝からデートかい?」と軽い調子で言うものの、顔つきや警戒感は変わらない。程よい緊張感で私たち、というよりはゼロくんを見続けている。
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