第6話
私は早速、日々の仕事をこなしながら、彼の部屋に移住するための必要な段取りを確かめた。家主によれば、管理会社は例の看板を跨ぐことにそれほど関心がないらしい。どちらかというと、真下のお店「キツネ亭」の店長に話をつける方が優先順位が高いとか。
彼の助力も得ながら、キツネ亭の店長、阿久津珠緒さんへアポを取ることができた。近いうちに、菓子折りでも持って彼と共に訪問する予定になっている。
珠緒さんとの相談を待ってからだけど、もし郵便物の受け取りや住民票を移すのに問題がないようなら、今の住まいは引き払ってもいい。どうせ、大した荷物もないし、彼氏や友達を部屋に呼べなくて困ることもない。
意外と厄介そうなのは、最近私が裏でコソコソしていることに気がついているらしい編集長と、彼の昔馴染み。
フラッとカレーを食べに行って以来、犬上さんを街で見かける機会も増えた気がするし、編集長に朽木の身分証を回収されてしまったのも、今思うとおかしかった気もする。
彼らは多分、ノクターナスが何かを知っている。犬上さんも正体を分かっていて、おまけに、私が彼らに接触していることも多分把握されている。
クソ親父の経歴なんて知りたくもないけど、若い頃はバリバリの武闘派だったという噂も小耳に挟んだことはある。犬上さんも当時の仲間だというのなら、過去の何らかの繋がりで、そういった情報も有しているのかもしれない。だからこそ、今の地位を得ているような気もしてきた。
やはりこの業界、秘密のパイプ、情報源が全て。どんな障害が現れても、必死であの坊やに食らいつくべき。下手な手を打って邪魔されないよう、細心の注意を払わねば……。
「そんなに眉間に皺を寄せて、どうしたんだ?」
風祭先輩は、私の分のコーヒーも持って、私の席までやってきた。私は「ありがとうございます」とそれを受け取りながら、目の前のモニターを睨みつける。彼は私の後ろから画面を覗き込む。
「住宅情報に、郵便局に、百貨店のショップリストか。全部バラバラだな」
彼はモニターに素早く目を走らせ、小さく笑いながらコーヒーを啜った。そんなに笑うなら、知恵や経験の一つでも借りてやろう。
「先輩はいつも、どれ持っていくんですか?」
「相手との関係は?」
風祭先輩は、自分のコーヒーをデスクの空いた場所へ置き、私の手からマウスを奪ってページをスクロールする。私が相手の情報、シチュエーションを伝えると、「それなら、この辺かな」と何店舗か選んで、新しいタブに表示させた。どれも、千円ちょっとの日持ちしそうな無難な焼き菓子を取り扱っている。
「あ、もしかして好調の秘密?」
彼は私の顔を覗き込み、笑顔を見せた。
「だったら、もうちょっと上物かな。それぐらいの相手なんだろ?」
「いや、そんな」
私が曖昧な笑みでお茶を濁そうとするも、彼は「そんな凄いネタ元なら、オレも一緒に挨拶行こうかな」と笑う。
「いえいえ、本当に何でもないんで」
放っておいても、普段の私より何倍も仕事が出来る先輩に、私のとっておきを嗅ぎ付けられるわけには行かない。私が必死になって、彼の追及を躱していると、編集長が彼を呼び出した。声を掛けられた先輩は、「気が向いたら、よろしく頼む」と言い残し、軽やかに去っていった。
「何で、アンタみたいなのと勉くんが楽しそうに喋ってんの?」
編集長とオフィスを出る支度を整えていた風祭先輩を見ていたら、後ろから日中担当のお局事務、宍戸さんが声を掛けてきた。彼女は粘り気のある視線で、私を舐め回すように見つめる。
化粧品の匂いが強い彼女とは、可能ならあまり話をしたくない。それでも、夜の錠さんでは分からない事務手続きの件を、彼女に尋ねなくてはならなかった。彼女は何も言わない私の顔を見飽きたのか、私の目の前にあるモニターに視線をやった。
「そういえばアンタ、なんか話があるんじゃなかったっけ?」
彼女は私の画面を覗き込みながら、キャスター付きの椅子ごと少し近付いた。私はモジモジと、「ええ、その」と言いながらマウスを操作する。
「仕事絡みのお知らせって、住所変更したら、全部そっちに郵送されますよね?」
「アンタ、引っ越しでもすんの?」
宍戸さんは「減給処分くらっちゃったもんね〜」と言いながら、私の見ていたページを横から見る。
「転送とか、私書箱じゃダメな場合があるもんね」
「やっぱり、そうですよねぇ」
一時的に全部鳥取の実家宛にする方法を考えたりもしたが、重要な書類が混ざっていた場合、易々と取りに行けない。私書箱利用も検討したけど、転居先の住所がどうしても必要になるらしい。
結局、郵便受けとして今のアパートは維持しなければならないかもしれない。それだけのために月数万円は、正直イタい。宍戸さんが、一緒に考え込んでくれるとは思いもよらず、私はその顔を見て「ま、まだしばらく先の話なんで」と言った。すると彼女は、「そう? じゃあ、本当に引っ越ししたら教えてちょうだい」と答えた。
モニターの隅に目をやった彼女は、「あ」と声を上げた。
「アンタもう、タイムカード切らないと」
宍戸さんに言われて、退勤時間が迫っているのを思い出した。端末の電源を落としながら、風祭先輩に入れてもらったコーヒーを飲み干した。本当は、カップやホルダーを片付けないといけないのに、慌てた私を見かねたのか、宍戸さんが「それは私がやっておくから」と、手に持っていたカップを受け取ってくれた。
私は彼女に礼を言い、椅子に腰掛けたまま、社内用のスリッパから外出用の靴に履き替えた。足元に置いていたカバンを握り締め、タイムカードを切りに向かう。
「お先に失礼します」
私はオフィスに残っていた宍戸さんに声をかけ、タイムカードに打刻して外へ出た。先輩が教えてくれた商品を買いに行くには、まだ少し早い。駅前のハンバーガーチェーンで、コーヒーでも飲んで時間を潰そう。
私は冷え込みの強い晩秋の朝を闊歩して、颯爽と駅前に向かった。通勤通学には少し遅い時間帯、日向は多少暖かいものの、日陰に入るとグッと寒くなる。そう言えば、少年の部屋を掃除した後、お気に入りのコートはクリーニングに出したんだっけ。年季の入ったボロボロのコートは、適当に新調したい。
コートの受け取りって、いつの予定だったかな。コーヒーを飲んでいる間に、財布やカバンを探ってみよう。どこかに伝票が入っているはず。
私はいつものようにお店に入り、一番短い列の最後尾に並ぶ。常連らしい、ちょっと耳の遠そうな高齢者の注文を穏やかな心で見守り、自分は一番小さいサイズのホットコーヒーを頼んだ。朝限定のポテトのサイドメニューは、今日は選ばない。
支払いを済ませ、一人掛けのカウンター席に移動する。私はカバンをテーブルの端に置き、コーヒーを片手にクリーニングの伝票を探し始めた。ここに入っていれば、行き帰りで受け取って帰れるかもしれない。僅かな期待を持ちながら探すものの、残念ながら見当たらなかった。
どうせ近々、半休を使ってキツネ亭へ挨拶に行くんだし、その日に合わせて受け取りに行ければ良い。目の前のガラスに反射する自分の姿はダサいけど、今は気取っても仕方ない。
私は先輩が教えてくれたお店と商品を頭の中で思い描きながら、目の前を行き交う人や車をぼんやり眺める。熱いコーヒーを飲んでいるにも関わらず、だんだん眠気が襲ってくる。
このままここで座っているより、さっさと電車に飛び乗ってデパートへ向かった方がいいかもしれない。私は自分の両手で頬を軽く叩き、眠気を追い払うと駅に向かった。改札でICカードをかざし、ホームに入ってきたばかりの電車に飛び乗った。
幸か不幸か、まだ少し熱いホットコーヒーを片手に持っているのに、どこの席も座れそうにない。私は大人しく吊革を握って、ロングシートの真ん中あたりで立つことにした。コーヒーがこぼれないように祈っていると、眠気はいつの間にか消えていた。
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