第2話
結局、朽木京志郎の身分証を持ったままオフィスに帰社した。なんとか九時前には到着し、私物とクビは守られた。
帰社早々に編集長に呼び出され、どこで何をしていたかの説明を求められた私は、カバンの中に突っ込んだ手帳を取り出すのと同時に、朽木京志郎の身分証を床に落とした。私が慌てて拾い上げる前に、編集長はそれを拾い上げた。
彼はそれをどこで手に入れたのか、私にしつこく聞いてきた。私は事情も事情なだけに、それとなく濁しながら、「取材の途中で」とだけ答えると、編集長はそれ以上質問することなく、「これは預かっておく」と自分の抽斗にしまった。鍵がかけられる、一番上の大きな抽斗に。
編集長は、私が身分証を拾ったことと、拾った場所に関することとを口外するなと繰り返し言い、自分が呼び出したくせに「もういい」と手で払った。私は事情が飲み込めないまま、編集長の部屋を後にした。
今日はほとんど仕事をしていないけど、私の勤務時間はとうに過ぎていた。編集長にも一応断ってから、タイムカードを切る。駅前の現場に出て、駅の近くで朝まで過ごしてわざわざオフィスへ戻って来たのに、物の数分で退社するなんて馬鹿みたいだと思いながら、再び駅前まで戻ってきた。大手ハンバーガーチェーンの朝限定メニューを頼み、ポテトとコーヒーで小腹を満たしてから、手帳とペンを取り出した。
昨夜の記憶と、今朝の出来事とを、ようやく回り始めた頭で考える。
昨夜の記憶で確かなのは、事件現場の近くで黒いコートに身を包む背の高い若い男と、それを密かに追いかけたこと。今朝見たのは、それとよく似たコートを掛け布団にして寝る若い男と、そこから持ち出した朽木京志郎の身分証。「昨日やった」と彼は言ってたけど、朽木京志郎って、誰だっけ。
私は腕時計で時間を確かめた。朝イチの時間は少し過ぎている。今なら大丈夫だろうとたかを括り、オフィスに電話を架けた。数回のコールの後、風祭先輩が電話に出た。
「おはようございます。茂上です」
「六花ちゃんか。おはよう。連絡もなしに朝帰りなんだって? 編集長から聞いたよ」
編集長め。オフィスに滞在する時間の短い風祭先輩にまで、そんな情報を吹き込むとは。根も葉もない噂話じゃないだけに、かわし方が難しい。私は否定も肯定も特にせず、「ええ、まあ」と曖昧な返事で言葉を濁し、「ところで」と本題を切り出した。
「クチキキョウシロウって、何処かで聞きました?」
風祭先輩は、電話口の向こうで急に吹き出した。
「何処かって、六花ちゃんが昨夜取材に出た現場のガイシャだよ。宿帳と部屋番号から、身元が特定されたって」
「宿帳と部屋番号からって、身分証は?」
「現場から発見されたって話は、まだ入ってないね」
風祭先輩は、紙を何枚か捲っているらしい。クリック音も微かに聞こえる。
「顔も潰されてるから、科学的な検証はまだかかるみたいだけど……」
風祭先輩は、電話口の向こうで「うわぁ、こりゃひどいな」とボソッと呟いた。現場の写真でも見ているのだろうか。
私は手帳へ書き出した図に、朽木京志郎の情報を書き加える。同じページの片隅に、「編集長?」と小さく書いて丸で囲った。
「ところで今、編集長は?」
「君が退社してから外出してるよ」
「そうですか。ありがとうございます」
私は先輩に別れの挨拶をして、そこで電話を切った。外出しているとなると、編集長の部屋へ入れるのは鍵を持っているお局めいた秘書さんだけ。彼の鍵付きの抽斗を開けられるのも、彼女しかいない。
比較的仲の良い風祭先輩なら、そういう無理もお願いできるんだけど、あの人、苦手なんだよなぁ。変に貸し借りを作って、上に立たれるのも嫌だ。
今からオフィスへ戻っても、編集長の周囲を探るのは難しい。そうなると、昨夜の不審者、今朝の少年、朽木京志郎の三つから考えるしかない。今朝の少年は、「やった」と言った。物凄〜く単純に考えると、彼が朽木を殺害し、現場から身分証を持ち去ったってことになる。犯行後に見かけた怪しい人物を私は尾行して、ガイシャを殺ったと言い張る少年の部屋で、朝まで過ごしている。昨夜の不審者と今朝の少年をイコールで結べば、私が身分証を持っていた理由もしっくり来る。
それはあまりにも出来過ぎな気がする。頭と心を落ち着かせるべく、普段は滅多に買わずにいた新聞を手に取った。朽木の事件が一面に掲載されている。犯人の行方は掴めておらず、最近頻発している殺人事件と手口が似通っているのだとか。
優秀な警察でさえ追及しかねている犯人と、その潜伏先を私は掴んでしまった。そんな偶然、あるはずない。いくらなんでも、出来過ぎだ。
でも、万が一本当で、私しか知らない情報なのであれば、貴重なスクープでもある。上手い具合に付き合えれば、万年ダメ記者の汚名も挽回できるかもしれない。編集長に横槍を入れられる前に、何らかの手を打っておかねば。
意気込んでイコールを赤ペンで何度もぐるぐる囲い、コーヒーを飲み干したのは良いけど、何からやればいい? 力を入れて線を引いたおかげで、書き込んだページはボロボロになっている。
空の紙コップを弄びながら、ボーッと外を眺めていると、通りの向かいにあるうどん屋さんが目についた。お昼には少し早いけど、今から営業開始らしい。お店の中から、代表的なメニュー付きの看板を、キャスターを転がしながら出してきた。そこに、「キツネ」の文字が書かれていた。
そう、「キツネ」。お店の上が彼の根城だった。お店の人に話を聞くという手もある。まずはケータイでキツネ亭の営業時間を調べた。定休日かどうかはよく分からないが、夜遅くまでやっているダイニングらしく、早くても夕方五時を回らないと開いていないらしい。
今の時間に電話取材を申し込んでも、空振りだろう。もう少し時間を置いてからトライしよう。それまでは、今夜の出勤に備えて適当に睡眠を取らないと。
ハンバーガーチェーンを出て、駅とは反対方向へ向かって歩く。職場からは多少距離はあるけど、徒歩圏内。駅前には、ハンバーガーチェーンで朝限定メニューを頼むために立ち寄っただけ。少しでも眠気を喚起するべく、ちょっとずつ遠回りして自宅へ向かう。途中、雑居ビルの前でカレーの匂いに誘われた。ちゃんとしたブランチは食べていない。食べ過ぎな気もするけど、お腹を落ち着かせた方が寝られる気がする。
雑居ビルの地下一階へ降り、カレーの匂いが漂ってくる方へ進む。オーセンティックなバー「狸」の扉が開け放たれ、カレーはこの奥にあるらしい。私は薄暗い店内に足を踏み入れた。お洒落な空間には似合わない風貌の雇われマスターが、カウンターの中で鍋を掻き回していた。
「おう。六花ちゃん」
彼は眠そうな目で私を見るなり、元気よく挨拶をした。もう一つ下の階で探偵事務所を開いている、犬上さんだ。編集長の古い知り合いらしく、昨夜も遅くまで打ち合わせをしていたのだとか。
私は背の高い椅子によじ登り、誰もいないカウンター席に腰を落ち着けた。隣の椅子にカバンを置く。犬上さんは私の上着を受け取って、ハンガーにかけてくれた。所作や佇まいは店長の刑部さんに厳しく指導されているのか、とても様になっている。この場所に似つかわしくない匂いと音を立てて、カレーを温めていない限りは。
私は元の場所に戻った犬上さんに、やんわりと注意する。
「いくら間借りカレーとはいえ、やり過ぎじゃないですか?」
「誰がカレー屋だ。オレは探偵で、ただの便利屋。ここで留守番しながら依頼人を待ってるだけさ」
犬上さんはそう言いながら、私に「で、何にする?」とランチ用のメニューを差し出した。私はカレーと、特製のブレンドコーヒーを注文した。彼は「あいよ」とカレー屋さんの口調で返事をした。
彼はキビキビと手を動かし、カレーとコーヒーの準備に取りかかる。化学実験めいたコーヒーの抽出が、目の前で始まった。
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