第2話

 翌朝目を覚ますと、野久保の姿は消えていた。「また、飲もう」と書かれた、彼のメモが残されていた。几帳面な彼の字は、なぜかとても懐かしかった。

 オレはサッとシャワーを浴び、目と頭をスッキリさせてから外に出た。彼が滞在していたというホテルに赴くが、野久保という客は泊まっていないと言う。数日の間に、それらしい客がチェックインした痕跡もないようだ。

 ホテルのフロントではそれ以上調べようもなく、身元も怪しいオレには、中を調べて回る権限もない。仕方なくオレは事務所へ戻った。牧からの新しい依頼に、折り返しで野久保の件で協力を打診した。身元や近況を調べるのに、力を貸してくれないか、と。牧からの返事は、「お前の仕事だろう」と文句は付けられながらも、「やるだけやってみる」という文言で締められていた。

 牧からのメールに「よろしく頼む」と返し、端末の電源を落とした。時刻はあっという間に午前九時。自分の朝食も「狸」で摂ることを決め、顔と髪を整え、刑部さんから預かっている制服に袖を通した。事務所を閉め、「御用の方は"狸"まで」と札を下げて上のフロアへ移動する。

 地下二階でじっとして居ても、新たな客は中々来ない。刑部さんのご厚意により、間借りカレーとカフェ、バーの留守番を兼ねた営業に立つ。昨夜はカウンターの向こうで客として酒を飲んでいたが、今日はカウンターの中で雇われ店長として、テキパキと開店準備を進める。

 夜は締め切っているドアを開け放ち、狭いカウンターと小さい冷蔵庫を駆使してランチのカレーを準備する。鍋を火にかけ、具材を炒める前に、厚切りの食パンをトースターに放り込んだ。

 オーセンティックバーに似合わないスパイスとトーストの匂いが、狭い空間に充満する。いつか近隣のテナントに怒られるんじゃないかと心配したが、地下へ直接顧客を引き込むには、この匂いが役に立つらしい。誰にも迷惑をかけていないのなら、オレは好きなようにオレ好みのカレーを作るだけ。

 カレーの下準備が終わる頃、食パンが焼けた。オレは自分のために香り高い特製ブレンドコーヒーを入れ、厚切りのトーストと共に、それを楽しむ。食事のお供は、刑部さんには無用なはずの、店に配達される朝刊。お店の経費で、オレのために取ってくれている。刑部さんに多大なる感謝を捧げつつ、穴が開くほど朝刊を念入りに読んだ。昨夜の騒ぎが一面と社会面に掲載されていた。

 現場は、今朝訪れたものとは別のシティホテルの一室。被害者は朽木京志郎、五十代の男性教師。何件か、買春の疑いをかけられていたようだ。被害者は顔が分からないように潰された上、普段から持ち歩いていたはずの身分証は、何者かに持ち去られていた。

 新聞に掲載された写真を見ると、かなり凄惨な現場にも思えるが、荒らされた様子もなく、現場には有力な証拠は微塵も残されていなかったとか。

 余程の恨みを持たれていたのか、プロによる犯行か。いずれにせよ、そんな人物と野久保が結びつく恐れはなさそうに思える。オレは新聞を綺麗に畳み、お客さん用のラックにかけた。

 自分が散らかした後を綺麗に片付け、カウンターの汚れも拭き取った。両手も綺麗に洗ってカレーの仕込みに戻ると、牧のところのダメ記者と名高い、茂上六花が入ってきた。仕事はできなくても見た目には気を遣っていた彼女だが、今日の印象は普段と違う。

 オレは彼女のオーダーを受け、注文されたカレーとコーヒーを出した。彼女の愚痴にも程々に付き合いながら次の客を待っていると、カウンターの黒電話が鳴り始めた。オレは受話器を取って耳に当てた。

「犬上だな?」

 電話の相手は牧だった。オレはカウンターの六花ちゃんを横目で見ながら、牧とのやり取りを続けた。

「直接話がしたい。時間は取れるか?」

 オレは再び六花ちゃんを見た。彼女は既にカレーを食べ終え、食後のコーヒーに手を伸ばしている。彼女を追い出して店を閉める方法もあるが、狸のサービスとして、それは申し訳ない。

「すぐに準備する。場所は後で送ってくれ」

 オレがそう告げると、牧は「分かった。何とかしよう」と答えて電話を切った。オレは受話器を戻し、前掛けに手をかけながら、カウンターの立花ちゃんに話しかけた。

「大変申し訳ないんだが、一時間、いや二時間ぐらい、オレの代わりに店番を頼めないかな。面倒な客は、追い返してくれていい」

 彼女は面食らった様子で、「えっ?」と呟いた。

「君のところのボスに呼び出されてね。すぐに行かなくちゃならない」

 オレは外した前掛けを彼女に差し出した。

「ダメなら今すぐ出て行ってもらうが、どっちがいいかな?」

 オレの問いに、彼女は少々躊躇いながらも、渋々といった様子で前掛けを受け取った。

「すまない。助かるよ」

「別に良いですけど、すぐ帰って来てくださいよ」

「もちろんさ。すぐ帰る」

 オレはカウンターから出て、彼女に中の機材を軽く説明する。彼女は「何度も来ているから、大丈夫」と前掛けをつけながら言った。手慣れた様子で自分の食器を流しに引き上げ、早速洗い物を始めている。

「コーヒーは好きなだけ飲んでいい。オレにつけといてくれ」

 オレがそう言うと、彼女は気の抜けた声で「は〜い」と返事をした。オレは微かな不安を覚えながら、事務所に一旦寄って薄っぺらい上着を羽織る。一気に階段を駆け上がり、地上に出て牧の指定した場所を確かめた。

 指定されたのは、牧が足繁く通うオールドスタイルな純喫茶。先に店内へ入っていた彼の席へ案内してもらう。彼はゆったりとしたソファ席に身体を預け、書類をいくつかテーブルの上に広げていた。

 オレは彼が頼んだものと同じものを注文し、彼の向かいに腰を下ろした。牧はオレの格好を見て、「勤務中だったか。すまん」と言った。

「気にするな。オタクのお嬢ちゃんに任せてきた」

 オレの言葉に、牧は目を丸くして、眉を上げた。すぐに口元を歪ませ、「妙に勘の良い奴だ」と笑いながらコーヒーを飲んだ。

「話っていうのは、そいつの件だ」

 彼はテーブルに出してあった紙のバインダーとは別に、胸ポケットから小さなカードを取り出した。表面が周囲に見えないよう細心の注意を払い、オレに差し出す。オレも周囲に気を配りながら、そのカードを確認する。

「こんなもの、どこで」

 オレはカードを牧に突き返した。牧はカードを胸ポケットにしまいながら、「オレも詳細は知らん」と言った。

「事件の手口から見て、ノクターナスの小僧が絡んでいるのは間違いない」

 牧の口から飛び出したワードに、オレはつい眉を動かしてしまう。

「随分久しぶりに聞くフレーズじゃないか」

 牧は、「オレも驚いたよ」と笑みを浮かべた。

「じゃあ、昨夜の殺しに野久保は」

「ーー無関係だ。間違いない」

 オレはホッと胸を撫で下ろし、運ばれてきたコーヒーに口を付けた。

「何だ。随分嬉しそうじゃないか」

「そりゃあな。昔の仲間が手を汚してないと分かれば、嬉しいもんだろ」

「自分のことは棚に上げてか?」

 牧の言葉に、オレは「黙ってろ」と呟いた。

「それで、話っていうのは?」

「要点は三つだ」

 牧は指を三本出して一本ずつ折りながら話を続ける。

「一つ目は、茂上のことだ。たまたま、ノクターナスの小僧に行き当たった。今のところは何も起こらないと思うが、何かあった時は守ってやってくれ」

 牧の差し出したカードと、その入手経路に何となく予想がついた。自分のところの部下だろうに、オレを無償で巻き込むとは図々しいにも程がある。

「何かとは随分抽象的だな。善処はするが、期待はするな」

「もちろんだ。分かってる」

 牧は深々と頷くと、今度は紙のバインダーをオレの方へ押し出した。

「野久保の現状を、ざっくりまとめてある。あとはお前の方でなんとかしろ」

 オレは彼の差し出したバインダーをとり、中をパラパラと捲る。最近の野久保の情報が、端的にまとめられている。深い調査はオレの領分。餅は餅屋ってことらしい。

「三つ目は、お前にも野久保にも関わることだが、ソムスス研究所の閉鎖が早まるという噂がある」

 牧の言葉に、オレの鼓動が早まった。

「ノクターナスの残党と、俺たちの仲間が結託して、武装蜂起に乗り出しているという噂だ。その対策に、研究所の閉鎖と保管されている臓器の廃棄が早まるという噂も広まっている」

 武装蜂起? そういうきな臭い話とは無縁の人生を取り戻したつもりだったが、ここにきて一気に目の前へ躍り出てくるとは。寝耳に水どころの騒ぎではない。

 もしかしたら、昨夜の野久保もその噂を聞きつけて接触してきたのかも知れない。

「詳しいことは、本人と会って話せ」

 牧はオレにそう言うと、残っていたコーヒーを勢いよく飲み干した。彼は流れるような動きで、卓上の伝票に手を伸ばす。

「オレが送った新しい仕事で、しっかり稼いでくれ」

 牧はカバンを持ち、颯爽とレジへ向かった。オレはカップに残っていたぬるいコーヒーを、喉に流し込んだ。

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