奈落の擬死者たち(仮)

仮面ライター

第1話

 会計を終えた牧は、領収書をキッチリ二つに折り畳んでしまった。オレの渡した写真とデータはカウンターへ投げ出したままなのに、刑部さんに上着を着せてもらっている。オレは自分の仕事を牧に押し付け、刑部さんからダウンジャケットを受け取った。

 牧は、オレが押し付けた封筒をカバンへ押し込んだ。刑部さんが開けてくれたドアから、店の外に出た。彼はその場で居住まいを正し、深々と頭を下げてオレたちを見送る。

 牧は両手を上着のポケットに突っ込み、デカい図体を震わせた。

「今日は冷えるな」

 彼は両手に息を吐きかけて、擦り合わせる。オレは「そうか?」と肩をすくめた。地上へ出る階段の前まで来ると、オレは足を止めた。牧はオレを見下ろし、「冬の地下生活ってのは、ツラくないのか?」と尋ねた。

「年中締切に追われるゴシップ誌の編集長と、いい勝負だ」

 牧は「そいつは結構だ」と鼻で笑った。彼は造りがしっかりしているコートのポケットに再び両手を突っ込んだ。オレの薄っぺらいダウンを舐めるように見る。

「鈴ちゃんのプレゼント代が余ったら、その上着も何とかしろよ」

「刑部さんに断られたら、考えるさ」

 牧はもう一度鼻で笑って「また、連絡する」と言い残し、階段を登って行った。元々重そうな身体だったが、最近はますます足取りが重くなっている。その背中を見送って、オレは下に向かって階段を降りた。

 最低限の照明は、共用部のものと同じ昼光色。微かな青白さと底冷えする寒さは、いつものことながら、オレのやる気を奪っていく。

 裏路地の雑居ビル、地下二階はテナント募集の張り紙だらけ。オレの自宅を兼ねた事務所以外のテナントはなく、我が事務所も滅多に来客はない。人気のないフロアを、自分の足音を高らかに響かせながら歩く。事務所前まで来ると、ドアの隙間に何件かの郵便物が挟み込まれていた。

 鍵を開け、軋む鉄の扉を押し開けながら中に入る。窓はなく、人工的な灯りが散らかり放題の狭い部屋を照らした。オレは口笛を吹きながら、郵便物を確かめた。どうでもいいDMや地域指定のチラシ、水道光熱費の納入通知書に混じり、野久保からのハガキも届いていた。

 近々、こちらに来るから一緒に飲まないかというお誘いだった。「野久保照」の名前と折り返し連絡用のメールアドレス、用件以外の記載はなかった。記載されていたメールアドレスに、当たり障りのないメッセージを送った。しばらく返事は来ないだろう。

 熱いシャワーでも浴びて飲み直すかと思っていると、すぐにケータイの画面が光った。通知を見ると、野久保からの折り返しだった。彼は今、最寄駅近くのビジネスホテルに滞在中らしい。

 向こうもまだ起きているのなら、このまま呼び出してしまおうか。時計を確かめると、丁度日付が変わったタイミングだった。この時間では、刑部さんは「狸」を閉めた後だ。この辺りで遅くまでやっているとなると、駅横のキツネ亭ぐらいしかない。

 野久保にキツネ亭の場所を添えてメールを送ると、すぐに折り返しの返事が来た。オレは牧から新しいメールが来ていないのを確かめ、事務所を出た。鍵を掛け、今降りてきたばかりの階段を二階分上がる。

 エレベーターもあるにはあるが、老朽化していてまともに動かない。定期点検を終えたばかりだというのに、管理会社は改修の予定も伝えてこない。安くはない管理費がどこへ消えているのか、暇ができたら追求したいところだ。

 随分と草臥れていた「狸」の新人バイトを追い越して、駅前まで歩く。終電は出た後だと言うのに、駅の向こう側は随分賑やかだった。行き交う野次馬によると、雑居ビルの一角で殺人事件があったらしい。パトカーや救急車も駆けつけていて、煌々としている。

 野久保が巻き込まれていなければいいと願いながら、線路に沿って少し歩く。ちょっと入り組んだ路地の中にある、細長い雑居ビルが見えてきた。この上に遅くまでやっている「ダイニング キツネ亭」が入っている。

 古めかしい丸いボタンを押し、エレベーターを呼び出す。四人も乗れば一杯になりそうなゴンドラに揺られながら、キツネ亭のある階まで上がった。キツネ亭の中へ入ると、カウンターの中で若女将の珠緒ちゃんが、せっせと何かを作っている。

「ああ、犬上さん」

 彼女は顔を上げると、オレにカウンター席の奥を案内した。厨房を囲むように作られているカウンターの端っこに、先に来ていた野久保が座っていた。彼は既にビールを一口飲んでいた。オレも同じものを珠緒ちゃんに頼み、代わりに差し出された暖かいおしぼりを受け取って席に座った。

「遅い時間に呼び出して悪いね」

 オレはバイトの子が運んできたビールを受け取り、代わりに脱いだダウンジャケットを預けた。野久保のグラスへ軽く乾杯して、口をつける。

「ああ、そっか。先に乾杯だ。色々不作法で悪いね」

「いいさ。別に」

 オレと野久保のやり取りを邪魔しないように、珠緒ちゃんはカウンターの中から、野久保の前にあるものと同じ小鉢を、オレの前に置いた。彼女は伝票を手に「何にします?」とオレに訊いた。

「さっきまで、狸で飲んでたからなぁ」

「じゃあ、僕が適当に頼むよ。一緒にしといてくれる?」

 野久保が手振りで珠緒ちゃんに伝えると、彼女は「は〜い」と返事をして自分の仕事に戻っていった。

「良いのか?」

「良いよ。お互い様さ」

 野久保はメニューを開き、バイトの子を呼んで、適当に何品か注文した。よほど喉が渇いていたのか、ビールもすぐに飲み干してお代わりを頼んだ。

「飲むようになったんだな」

「そうかな。久しぶりで楽しいだけさ」

 野久保は届いたビールも、運ばれてきたサラダやチーズの盛り合わせ、山のようなローストビーフも、一人でどんどん口に運んだ。昔の野久保は線が細く、食もそれほど太くはなかったが、今もそれほど変わっているようには見えない。どこにそれだけ飲み食いする余地があるのだろう。

「あんまり無理はするなよ」

「無理なんてしてないさ。まだまだ飲めるし、まだまだ食える」

 彼はビールを赤ワインに切り替え、少しだけペースを落とした。その横顔を見ながら、引っ掛かっていることを小声で切り出した。

「駅前の騒ぎ、お前じゃないよな?」

 野久保はオレの問いにケラケラ笑いながら、「僕じゃないよ」と答えた。

「僕の両眼じゃ、夜の"活動"は無理だよ」

 彼はサングラスを指でズラし、その下にある双眸をオレに見せた。本物の人の眼に似せてはあるが、義眼より虚ろに見える作り物の眼が嵌め込まれている。表情も考えていることも読み取れない、不気味にも見える独特の眼。

 目元の手術痕も、痛々しい。夜でもサングラスをするのは、自分のためでもあるし、周りのためでもある。実力行使云々を棚に上げても、実物を見る度にそう思う。オレも、できることなら、明るいうちに外を出歩きたくはない。

 日中ならどんな眼よりも優れた効力を発揮する、夜目の利かない特殊な眼。事情を何となく察している珠緒ちゃんは、オレたちの話には割り込んでこない。野久保はやはりペース配分を間違えていたらしく、だんだん様子が怪しくなってきた。バイトの子にも心配されながら、一回トイレへ駆け込んだ。ひとしきり激しくやったらしい。

 オレは珠緒ちゃんに会計を頼み、野久保の金で支払った。きちんとレシートを預かり、野久保を連れて店の外へ出た。野久保のホテルへ戻るには駅前の野次馬を避けねばならないらしく、しばらくそちらへは戻れそうになかった。

 オレは仕方がないと腹を括り、野久保を連れて自宅兼事務所へ舞い戻った。彼のためにベッドを空け、彼をそこに寝かせた。オレは接客用のソファを片付け、ダウンジャケットを毛布代わりに、風邪をひく覚悟を決めて横になった。

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