第17話 勢いに乗るのと流れに身を任せるのはまったく違うという実例

 向かった先は、農学部が所有している構内の菜園だった。さすがにパリに行くとは思っていなかったけど、ちょっとだけデートみたいなことを期待していたのに。そんなこと、この美空先輩には通用しないってわかってたはずなのに。


「ほらほら、あそこ見て」


 美空先輩が一つの木を指差す。

 大きな夏ミカンがたわわに実っている。そこは整備された畑ではなく、元から植えてあったものらしい。周囲の畑から外れたところにあるけど、こっちも農学部で丁寧に世話されているのが素人目にもわかった。


「ニュートンは木から果実が落ちるのを見て、あらゆるものは引き合っているんじゃないかっていう思考実験を行なって引力を発見したんだよ」

「いや、それってリンゴじゃなかったですか?」

「そういう細かいことはいいの! 大切なのはすべてのものは地上に引かれて落ちていくってことなんだから」


 もっともらしいことを言いながら、美空先輩は高い枝に実った夏ミカンに手を伸ばす。背伸びをしてもまったく届きそうもない。んー、と声を漏らしながら体を震わせているのを見ていると、少しだけ輝に似ていると思ってしまった。


 自由で、自分の気持ちを素直に行動に移してしまうところ。俺が美空先輩に惹かれた理由。家族やいろんなものに縛られて身動きがとれないことが多かった俺とは違う。美空先輩は自分のやりたいことをすぐに開始して、やりきってしまう。


 それも美空先輩自身の力でだ。


 俺みたいに周囲の環境に言い訳して立ち止まったりしない。その強さに俺は憧れたんだ。


「でも、輝ちゃんのイメージならリンゴより夏ミカンの方が似合うと思わない? 明るくて元気で、ちょっと酸っぱいところもあるけどおいしくて」


 諦めた美空先輩は額の汗を拭いながらこちらを振り返る。


「ちょっぴり苦みがあるところも、ですかね?」

「そういうところもあるんだ。私が知らない輝ちゃんをこーくんは知ってるんだねぇ」

「別にそういうわけじゃ。輝は美空先輩のことが好きだから、そういうところを見せたくないんだと思いますよ」


 部屋の中でダラダラしている輝を見たら、美空先輩はどう思うだろう。結局かわいいって言うだけで、何も変わらないような気もするけど。


「うーん、だいぶインスピレーションが湧いてきたね。そろそろ戻ろっか」


 美空先輩は思いついたように声を上げる。その声色が少しだけ暗いように感じられた。


 俺は思いついたままに、美空先輩が背を向けた夏ミカンの木に走り出す。助走をつけて木の幹を踏みつけるようにしながら太めの枝に手を伸ばした。


 木登りなんて小学生の頃でもやったことなんてなかった。


 ケガをするから、汚れるから、低俗だから。


 そんな理由を父親からつけられて、俺は一度も友達の背中を追って木に飛びつく事ができなかった。あの頃よりも小さくなったように感じる木の幹にしがみついて、両手を交互に伸ばして上へと進んでいく。たくさん実った果実から黄色く染まった一つをもぎとって、ゆっくりと木の上から飛び降りた。


 元々運動不足の俺には、これだけでもずいぶんと大変だった。体中から汗が噴き出している。顔の周りだけを簡単に拭って、俺は取ってきたばかりの夏ミカンを美空先輩に押しつけるように渡した。


「先輩にも、似合うと思いますよ、これ」

「あ、うん。ありがとう」


 美空先輩はポカンとして受け取った夏ミカンと俺の顔を交互に見比べている。その反応を見ていると、だんだんと冷静な思考が戻ってきた。

 いったい俺は何をしているんだ。自分のこの数分間を振り返ってもなにを言っているのか意味がわからない。でも伝えたかったことはあった。


「輝だけじゃなくて、美空先輩のことも俺は知ってます。美空先輩が素敵な人だってこと、俺はたくさん見てきましたから。ずっと俺の憧れで、一番好きな人です!」

「えっと、その、ありがとう?」


 美空先輩はやっぱりまだ戸惑ったまま、少しだけ俯いて答える。さっきと違うところと言えば、少し顔が赤いことくらい。


「こーくんの気持ちは嬉しいんだけど、ちょっと突然すぎるって言うか。少し考える時間が欲しいな。だから、今日はここで解散ね!」


 一方的にそう言うと、美空先輩は俺から逃げるように畑の真ん中を突っ切るように走っていった。残された俺は天を仰ぐ。夕焼けが少しずつ顔を出してきて、空にミカン色が混じり始めていた。


 夕日を浴びていると、今しがた自分が言ったことを冷静に思い返せるようになってくる。


「今のって、もしかしなくても告白したことになるのか?」


 美空先輩の答えを思い返す。現実では初めて聞いたけど、告白の答えを言いあぐねたような言葉の選び方はマンガで何度か似たような言葉を聞いたことがある。


 付き合ってほしい、とはっきりしたことは言えなかったけど、気持ちは伝わってしまったらしい。


「やっぱり考えなしに行動に移すのは俺向きじゃないよ。美空先輩や輝みたいにはいかないか」


 ぼんやりしているうちに美空先輩の姿はすっかり見えなくなっている。追いかけたところで何を言えばいいかもわからないし、なんて言われるかと考えると追いかける勇気は出てこなかった。


 一応部室に戻ってみたけど、美空先輩は30分待っても帰ってこなかった。溜息を何度もつきながら、俺はお腹を空かせて待っているであろう輝のいる自分の部屋に帰るしかなかった。

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