第9話 輝と生活することによって起こる乙女心の把握能力の向上
4限目の講義の経営科目の授業が終わると、俺は早々に広げていた教科書とノートを片付けて席を立った。
広い講義室は最大350人が座れるらしいが、全体の半分も埋まっていない。まして前の方の席には俺を含めて10数人程度で、後は後方にひしめくように固まっていた。
「せっかく学費を払ってきてるんだから真面目に聞けばいいのに」
私立大学の学費は安くない。授業料を年間で受けられる講義時間で割れば、この1コマの授業だって数万円の価値がある。俺はその時間を無駄にするのは嫌だった。
それでも授業が終わってすぐに講義室を出る準備をし始めたのは、1秒でも早く美空先輩に会うためだ。
今日はもう16時を回っている。ただでさえ一緒にいられる時間は少ない。さらに今は部屋で輝が待っている。あまり遅くなると不機嫌になるので困ったものだ。
メッセンジャーバッグに放り込むようにノートをしまい込んで立ち上がると、目の前に見たことがあるような男がにへらと笑顔を浮かべて手を振っていた。
「大山ってこの後時間あるか?」
「これからサークルだけど」
「そっか、お前ってまだ思考実験サークルにいるんだっけ?」
男の笑顔が少しひきつる。この反応は慣れたものだ。大学一の変人である美空先輩のいるサークル。そこに所属しているだけで広いキャンパスの中で誰でもこんな反応になる。
「でも参加強制じゃないだろ? ちょっと付き合ってくれないか?」
「本当に俺で間違いない? 誰かと勘違いしてないか?」
「間違えるかよ。講義結構一緒だし、
それを聞いてようやく思い出してきた。確か去年、入学してから数ヶ月くらいはつるんでいた
美空先輩の行動に耐えきれずに辞めてからも少しは仲良くしていたがだんだんと疎遠になっていって、話すのは1年振りくらいだった。
「まぁ、別にいいけど。何するんだ?」
「カラオケで親睦会だよ。メンバーが足りてないから付き合ってくれ。予約した奴が来ないとキャンセル料が無駄にかかっちまうんだ」
「そういうことか。サークルは自由参加だし、いいよ」
一応美空先輩にはチャットアプリでメッセージを送っておく。ほとんど使っていなかったけど、最近は輝の近況報告として連絡するようになった。
「助かったぜ! それじゃ行くか」
関本は俺の肩を組みながらがっしりとつかんで絶対に逃がさないという雰囲気だ。その迫真の表情に少し選択を間違った気がしたけど、もう遅かった。
大学近くのカラオケ店の一室はパーティの予約をしていたらしく、入るなりジュースや酒、ポテトフライや唐揚げといったコース料理の品が並んでいた。キラキラとミラーボールが輝いて眩しさに目がくらむ。
その部屋の雰囲気に対して、集まった男たち8人の姿は堤防に打ち上げられて一晩過ごした魚みたいに淀んでいた。
「この感じだと誰かの誕生日って感じじゃないな」
誰も歌い出すどころか口すらろくに開かない。揚げたてのポテトのサクサクという音が聞こえるほど静かだ。
隣でずっと俯いている関本に聞いてみる。頭を抱えて顔を上げたその顔は今にも泣きだしそうだった。
「合コンだったんだよ」
「男しかいないぞ?」
「そうだよ。俺と俺の彼女が主催で4対4の合コンのはずだったのに。昨日打ち合わせでうちに来たと思ったら、急に怒り出してさ。
『こんな奴の呼んだ相手と合コンなんてしたくない』って怒り出してドタキャン食らったんだよ。メッセも既読つかないしさぁ」
「それでキャンセルしないために俺を呼んだのか」
そして合コンでウキウキだった奴らはこの落ち込みようということだ。ご愁傷様、としか言いようがない。
「昨日もなんか急に不機嫌になってさ。『何か言うことないの?』とか言い出して」
「それっていつもと何か変えてたんじゃないか? 髪型とかネイルとか」
俺は関本の話を聞いて、思ったことを口にした。この間の買い物の時に輝も髪留めを買っていて翌日につけていたのだけど、俺はさっぱり気付かなかった。
いつもよりやけに前髪をいじったり、肩にかかるくらいしかない後ろ髪をしきりにかきあげたりしていたのに、俺はまったく無関心だった。
いつもと変わらずゲームをしていたのに急にふてくされたかと思うと、輝は無言で顔を寄せてきてようやく気付いたのだ。
「こーすけのためにかわいいの選んだのに。バーカ!」
そんなこんなでその日の家事はすべて俺がやって、夕食のデザートにケーキをつけてなんとか機嫌を直してもらった。
「そう言われると、そうかもしれねえ。それから不機嫌になりながら夕食も作ってくれたんだけど、褒めたら急に怒り出して」
「他の誰かと比べなかったか? 母親とかチェーン店とか」
「そういや、うちの母親よりうまいって」
「そういうの嫌がられるぞ。ただうまいって言っておけばいいのに」
輝も一度だけ昼食を作ってくれたことがある。少し水分の多いご飯と焦げた焼き鮭と具がわかめとネギの味噌汁だった。
その時の俺は最大の賛辞のつもりで、
「全然いけるぞ。俺よりうまい」
と言ったのだけど、最低レベルの俺と比較されたことが気に食わなかったらしい輝は、向こう3日は料理をしてくれなかった。
俺が答えると、暗かった関本の顔は驚きに変わっていた。
「大山。お前、もしかして江越先輩と付き合ってるのか?」
「な、な、なんでそうなる⁉︎」
「だってさっきから恋愛強者っぽいじゃん。それで未だに思考実験サークルにいるってことは、江越先輩と付き合ってる以外考えられないだろ!」
「いや、ほら、その思考実験だよ。状況を想像して、相手の視点を想像しただけっていうか。あくまで仮説でしかないし」
「なんか経験談みたいな言い方だったけどなぁ」
それからはテンションの持ち直した参加者にいろいろと探りを入れられながらなんとか乗り切った。
美空先輩と付き合いたいけど、周囲に嘘をついて既成事実を作る気はない。いつか真正面から告白して答えをもらうつもりだ。
カラオケ店を出るとすっかり日は暮れていて時計は夜8時を回ったところだった。少しお酒も入っていて気分がいい。次はどの店に行こうか、と二次会の場所をそれぞれが探していた。
「こーすけ!」
そこに聞き慣れた声で名前を呼ばれる。一気に体内のアルコールが蒸発した。
「輝⁉︎ なんでここに?」
「いつまでも帰ってこないから探してたの! ほら、帰るよ」
買ったばかりのセーラーワンピースを着た輝が目を尖らせて俺の手を取る。
「悪かったって。だから引っ張るなよ」
「全然反省してない! 僕お腹空いても待ってたのに」
「わかった。今日は好きなものなんでも奢るから」
俺たちのやりとりを見ていた関本たちは妙に納得したような声をあげる。
「なるほど。それが噂の彼女か」
「違う!」
「まぁまぁ。俺は理解あるつもりだから。それに、今は犯罪でもあと10年、いや5年もすればなんの問題もなくなる」
「だから違うんだって。事情があって預かってるだけで」
何を言い訳しても関本は聞いてくれそうもない。輝が腕を引く力もだんだん強くなってきている。結構酔っているし、明日にはすっかり忘れていてくれるといいんだけど。
「じゃあ、俺はこれで」
「今度彼女のために詫びは用意するから。またなー」
結局誤解は解けないまま、俺は輝に連れられてすっかり夜になってしまった街を並んで歩く。
「こーすけはもっと僕のこと大切にするべきだよ」
「そうだな。連絡もなしに遊びにいって悪かったよ」
「晩ごはん、何食べようか?」
「なんでも輝が好きなものでいいよ」
少し頬を膨らませた輝の髪にはダイヤをかたどった髪留めがついている。足元のミュールもこの間買ったもの。輝の持っている最高の他所行き仕様だ。
「やっぱりその服似合ってるな」
「え? うー、そんなこと言っても僕は全然許してあげないからねっ」
怒っていた輝の表情が少し和らぐ。半歩だけ俺に体を寄せる。空いていた左手を輝がそっと握った。
「はぐれると困るから。早くご飯食べて帰ろ。帰ったらゲームの相手もしてもらうから」
「あぁ、わかったよ。お姫様」
俺がそう言うと、輝はまんざらでもなさそうに微笑みを返した。
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