シュレディンガーの兎

神坂 理樹人

第1話 突然押しつけられたウサギは男か女か

 岡坂おかざか大学思考実験サークルは、一般教養棟4階の隅にある。


 大学内で一番古いこの建物にはエレベーターなんてない。中高6年間を帰宅部として過ごした万年運動不足の俺にとっては山登りと大差ない。階段で4階まで上がるだけで息が切れる。それでも毎日この狭い部室に通うのには理由があった。


大山幸佑おおやまこうすけ、ただいま参りました!」


 息を整えてから余裕な振りをして元気に部室に入る。ウサギ小屋のように狭い部屋の中で本に落としていた視線を上げて、宵闇よいやみのような漆黒の前髪をわずかに指ですくいながら、江越美空えごしみそら先輩が俺に微笑んだ。


「こーくんは今日も元気だね」


 たったそれだけで失神しそうになる。


 長い黒髪の奥に光る宝石みたいな瞳と長い睫毛まつげ。柔らかそうな頬と薄く桃色に色づいた唇。どこをとっても美しいという感想しか出てこない。


 今日は少し肌寒い5月の空気に合わせて、寒がりの美空先輩は厚手のニットを着ているのに、体のラインがはっきりとわかる。というか机の上に乗っている。


 この世界に人類を複製できる機械があったら、間違いなく美空先輩であふれているだろう。そんな妄想を振り払う。


「美空先輩も今日は授業終わりですか?」


「うん。もう3回生だからね。専門科目しか残ってないから。今日も一限だけ出て後はここで本読んでたよ」


 美空先輩は小さな口からあくびを漏らす。あの口の中に住みたい。一限目の授業が終わるのは11時前だから、6時間以上もここにいるということになる。その言葉を聞いてほっとする。


 江越美空という女性は超がつくほど美人だ。

 ただし、黙って座っていてくれれば。


「あいかわらずすごい集中力ですね。それで一つ聞きたいんですけど」


 俺は部室に入ったときから見えていたけど見ないふりをしていた存在を指差す。部員が二人しかいないこの思考実験サークル。その部室に今日はもう一人の姿があった。


「そこにいるバニーガールは誰ですか?」


 居心地の悪そうに部室の隅で存在感を消すように座っているけど、格好が格好なだけにまったく存在感を消せていない。むしろ本以外に物がほとんどない部室では悪い意味で目立ちまくっている。


 中学生くらいだろうか。バニースーツが余っているように見える胸元はほとんど膨らみがない。鋭い釣り目がさらに細くなって俺の方を睨みつけている。折れそうなくらいに細い腕と黒のストッキングで守られた細い脚。


 美空先輩とは対照的に金色に染められた髪は根元のあたりに地毛の黒色が見えている。

 不満そうに口先を尖らせて、居心地の悪そうに肩のあたりまで伸びた髪先を指でもてあそんでいる。


「今朝登校してくるときに拾ってきたの」

「そんな捨てネコみたいなノリで拾ってこないでください!」


 半年前の俺なら大きな溜息を我慢できなかっただろう。だけど、この一年で俺もすっかり感覚がマヒしてしまった。


 大学で一番の美人である美空先輩は大学一の変人でもあるのだ。


 去年の春。どこのサークルにも興味が持てなかった俺だったけど、美空先輩に一目惚れして、いまだに何の活動をしているのかよくわからない思考実験サークルに入部した。


 俺と同じ考えの男は山ほどいた。この狭い部室に入りきらないくらいの男たちが毎日のように仮入部と称してやってきた。しかし、それも1ヶ月足らずで全員いなくなってしまった。今年の4月もだいたい同じ感じで、結局この部室に残ったのは俺と美空先輩だけだった。


「この世界が実はすべて5分前につくられたと言われたら信じられる? 嘘だと思うならそれが嘘だって証明できる?」


 いきなりそんなことを聞かれたら、普通なら意味が分からないと思って聞き流すけど、美空先輩みたいな美人となれば話は別だ。頭を悩ませ続けて熱を出して逃げていった奴はたくさんいた。


 ある時は嵐のような大雨の日に急に立ち上がったかと思うと、雨ガッパをしっかり着込み始めた。


「今日は沼に行って雷が落ちるのを待とう!」


 その日は一晩中、大学近くの山の中腹にある沼のそばで大雨の中で座り込みをした。それで精神を擦り切られて辞めていった奴もいた。


 そんな人だから、バニーガールの一人くらい拾ってきてもおかしくない。そう思える程度には俺と美空先輩の一年間はとても濃厚な時間だった。もちろん俺の望んでいない方向で。


「それで、どうするんですか。勝手に拾ってきて。うちの部室じゃ飼えませんよ」


「失礼だなぁ、こーくんは。私だって何も考えなしに拾ってなんてこないよ。とっても寒そうにしてたし、家を聞いても事情を聴いてもぜんぜん答えてくれないからとりあえず連れてきたの」


「十分考えなしですよ。警察には行ったんですか?」


「警察は嫌だって言うから」


「まぁ、こんな格好でうろついてるってことはそれなりの事情があるんでしょうけど。何か着替えとか貸してあげなかったんですか?」


 バニーガールの少女は俺の方をまだ睨んでいる。美空先輩と比べて貧相な体とはいえ、いろいろと目のやり場に困って俺は視線をすぐに美空先輩に戻した。


「だって、私の服じゃ着られないし」


「まぁ確かにサイズとか全然違いそうですけど」


「いや、そうじゃなくて、この子、男の子なんだって。天野輝あまのてるちゃんって名前だけは聞けたんだけど」


「えぇ!? どう見ても、どう見て、も?」


 言われるままにじっとバニーガールもといバニーボーイの体を見る。


 確かにさっきも見た胸は平らだし、中性的な顔立ちで男と言われればそう見えなくもない気がしてくる。


「じろじろ見るな、変態っ!」

「変態ってなんだよっ! 男なら別にいいだろ」

「男でも嫌なものは嫌なの! あっち向け、ド変態!」


 言われなくても男のバニーに用はない。そういうのは美空先輩みたいな大人の女性が身に着けて初めて意味があるのだ。


「そういうわけだから、こーくん。何日かこの子を預かってくれない?」

「なんでそうなるんですか!?」


「だって私は実家暮らしだし。こーくんは4月から一人暮らしでしょ。そろそろ寂しくなってくる頃だし、ちょうどよかったじゃない」


「いや、寂しくないですし。そもそも一人暮らしの男の家に女の子にしか見えない子供が泊まるのはマズいですよ」


 ようやく実家を離れて勝ち取った一人暮らしの権利。それなのにバニーガールを家に連れて帰ってしまったら、近所の人からロリコン変態大学生のレッテルを貼られてしまいかねない。


 もう一度輝を指差す。その指を乱暴につかむと輝は容赦なく捻り上げた。


「痛ってぇ!」


 ウサギに指を噛まれた気分だ。


「うーん、なかよしなかよし。それじゃよろしくぅ~」


 そう言うと美空先輩はすべてを押しつけて部室からふわふわとした足取りで出ていった。


「美空先輩の奇行にも慣れたと思ったんだけどなぁ」


 サークルに入って以来、久しぶりに俺は大きな溜息をついたのだった。

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