電気の武者
@okurayamanoue
僕の物語らしい
僕はその時になってようやくペンの扱い方に慣れてきたところだった。
どうしてペンを扱うのに時間がかかるのかというと、まずその時ひどく手が震えていたし、そもそもペンで紙になにかを書きつけるなんていう、前時代的な行為をとても久しぶりにやったからだ。
小説を書くときはキーを叩いて、大好きなメカニカルキーボードの感触を思う存分堪能しようと決意していたのだけれど、どうやらその決意は守れそうにない。
つまり僕は二重で損をしたわけだ。だって、今時キーボードを使っている人も少ないというのに、そんな嗜好のために買っておいた十年も昔の機器を変換器ごと買って、せっかく使う機会が来たのに命の危険のために使うことは叶わなかったうえに、わざわざペンを手に入れなくてはいけなかったんだから。
それで、「その時」っていうのは僕の命の危機が一旦は過ぎ去った時だった。
まず僕が命の危機にさらされることになったきっかけを語らないわけにはいかないだろう。これは小説で、僕はその登場人物なのだから。
僕はニューシティMに住むごく普通の学生で、名前をジョンと言った。
ここに説明すべき点が三つある。
一つはMという名前の町は現実には存在しないこと。二つ目はジョンという人間は現実には存在しないことだ。そもそも彼は日本人だ。
僕がもし、この紙をどこかに落としたり、なにかの拍子で閲覧された場合、非常に困る。ひょっとしたら五回ほど殺されるかもしれない。
だから実在しない町の名前で、実在しない名前を、こんなアナログな方法で騙るしかないのだ。
それで三つ目は、僕がそういった現実にすっかりうんざりしきっていたということ。つまり、ニューシティMに住んでいるのも、普通で退屈な学生であることにも、できれば今すぐおさらばしたがっていたということだ。
とにかく、学校では友達を作らずに小説ばかり読んでいた。ディスプレイが友達だったと言い換えても良い。時には紙の本を借りもしたけれど、基本的には電子書籍を読んでいた。
どうして紙の本がいまだに実在し続けているのか、僕には理解ができない。だって、場所を多くとり重く、暗いところでは読めない本にどんな利点があるって言うのだろう?
電子書籍なら読みたい本を読みたいときに読めるし、月額のサービスに加入していれば随分安く読書ができる。しかも自分から発光しているんだ。
馬鹿げたことに聞こえるかもしれないが、紙の本を誰かに借りてみればすぐにわかるさ、光らない物体で読書をすることの困難さが。
で、僕はとても憂鬱だった。読書もせずに、無言電話(これは最近流行りのサービスで、キーを打ち込めばそれを自分によく似た電子音声が相手のイヤホンに喋ってくれる。逆も同じだから、他人に盗み聞かれる心配なく無言で電話ができるってわけ。)をずっとしているような連中と友達になりたいとは思えなかったし、そいつらにしても読書なんていう長くかかる娯楽に時間を割くような人間と友達にはなりたくなかっただろう。
当然の成り行きとして、僕には友達が居なかった。友達なんて要らないと思ったことは一度もないのだが、なりたいと思ったやつにも出会ったことがない。それで憂鬱だった。
僕が憂鬱なのには他にこまごまとした理由があるのだけれど、一番重要で一番具体的なのはその理由だった。それで、僕はここじゃないどこかなら友達になりたい人間が現れるかもしれないって考えた。
学生である限り、僕らの個人端末はロックされて、実際にあった人間とでないとメッセージを交わすことができないから、インターネットという広い場所で友達探しをすることもできない。
僕の住むニューシティMなんて町は都会よりも随分遅れている場所だから人口も少ないし、誰かと出会う機会もものすごく少ない。
だから僕はニューシティMに留まっているのが我慢できなかったし、学生であることにも我慢できなかった。
それで、僕はその時一人で町を歩いていた。学校の帰り道。
できる限り、監視カメラのない路地を選択して歩いていた。彼を特別にしてくれる出来事を探し、待ち構えて、特別でないものたちを守るカメラを、僕は避けるのだ。
もっと正確に書くなら、僕はその時、なにかを探しているわけではなかった。頭の中ではどんな題材で小説を書くのかっていうお決まりの想像が始まっていたから、自分の外に何かを探しながら歩くのは不可能だった。
けど、何かが起こることを期待していたのは否定できない。僕は四六時中それについて考えていて、もはや考えるまでもなく、心臓の鼓動と同時にその妄想はずっと動き続けていたような気がするから。
ポケットに違和感を感じ、ズボンに手をやる。携帯端末を失くした。
網膜ディスプレイにジェスチャーし、端末の発する位置情報で場所を特定する。二十メートル後ろに落としてきたようだ。
その路地は狭くて、暗かった。両端にある店はどれもシャッターが下りてさび付いていた。
そこら辺が都市化するってなった時に色めき立って随分と色々な、雑多なものが開店したけれど、結局残ったのは表通りの方にある店ばかりで、路地に一歩入り込むとほとんど人気がない。
空はどんよりと曇っていて、考え事をするにはうってつけの日、そして場所だ。
人が居なくて、改ぞう人間の耳障りなモーターか何かの動作音が聞こえてこなければ(そして歩くことのできるなしょなら)、僕は多分どんな場所でも好きになっていただろう。
最近の学校では改造人間のことを改ぞう人間と書くように指導されている。
「彼らは造られたのではなく、自らを改めただけなので造という漢字を使うのはやめましょう」
とかなんとか言っている。その内、この世から意味のある言葉は消滅すると思う。
僕が端末を拾うと、電話がかかって来た。端末が振動し、網膜ディスプレイに通知が表示される。
知らない番号からの無言電話だ。端末を操作し、電話に出る。システム的に知り合いからしか掛けられないのだからと、僕は何の警戒もしていなかった。
後ろから何か冷たい手のようなものに口を押えつけられ、歩けなくなった。
路地は変わらず静かだ。抵抗することすらできない。
僕の耳には合成音声が聴こえていた。
「騒げば殺す」
その声は澄んだ大人の女性の声で、少女の声にあるとげとげしさの無い心地の良い声だった。僕は一瞬、状況を理解することができずにその声に聞き惚れていた。それくらい美しい声だった。
しかし、届いた言葉はそんなに穏やかではない。僕は暴れなかったが、その言葉に含まれた意味に密かに興奮した。
両手を挙げ、抵抗の意思がないことを示した。その手は微かに震えていた。
だって、それは僕の待ち望んでいた「特別」な状況だったからだ。
網膜ディスプレイには「通話中」を示すアイコンと、日本語配列のキーボードが映っていた。
「上着をよこせ」
淡々とした口調で、合成音声はささやく。
僕はウィンドブレーカーを脱ぎはじめた。その日は冷たい風が吹き、その年で最も冷え込む日だった。
人生を変えるには良い日だ、と僕は思った。
脱ぎ終えると、背後の誰かはそれを奪い、ごそごそと着始めた。
口に当てていた手が外れたが、助けを求めようとは思わなかった。そんなことをしたら即座に殺されると確信していたからだ。
僕はまだ死にたくはなかった。特別な体験をしたのだから、きっと人生は変わるのだ。
背後でチャックを上げる音がする。路地に高い音が響いた。
「一人暮らしか?」
合成音声は尋ねる。
「そうだ」
網膜ディスプレイに映ったキーボードを視線とまばたきで打ち、返事をする。
僕はこのキーボードが嫌いだった。ほとんど憎んでいたと言っても良い。たしかに、一度慣れてしまえば便利なことの方が多い。わざわざキーボードを持ち運ばなくっても素早く入力できる。しかし、当然ながら物理キーボードのように気持ちの良い打鍵感は得られないし、なにより、視線をきょろきょろさせ、何度も高速でまばたきをする様子が間抜けでしかたがないと思わないか?
物理キーボードを接続するためのポートを備えた機器自体がそもそもかなり減っており、学校で高機能なパーソナル・ターミナルを使う際には備え付けのプロジェクション・キーボードしか使用が許可されていない。
だから、僕は物理キーボード以外の多くのキーボードを憎んでいた。
そんなことより、僕は脅迫犯からの世間話のような言葉に困惑していた。そして、悪い予感もしていた。
ウィンドブレーカーの外の寒さにさらされ興奮は冷めつつあり、早く解放されることを願い始めていた。
「では、家まで案内してもらおう」
悪い予感は実に最悪な形で的中した。命の危機は続くのだ。それに、恐らく犯罪ほう助とかでしょっぴかれる可能性すらも出てきた。
「さもなくば今ここで殺す」
そう。命の危機は続くのだ。
僕は端末をズボンのポケットに入れ、路地を歩く。なんとなく後ろを振り向くことはしなかった。
前述の通りの理由で、僕の家までの細かい道順を説明することはない。
道中で他人と出会うことはなかったとだけ記しておこう。
僕の住居は平凡なアパートだ。都市化の際、計画的に建築された画一的な住宅群の一室。学生の一人暮らしでは広すぎる一室をあてがわれている。
このマンションの部屋はその半分が空室だ。都市化に成功していれば学生の一人暮らしを受け入れるような余裕はなかったはずだが、作られたマンションの多くはこんな様子だ。
そこらのサラリーマンでも、もっと良い家を借りられるし、金持ち連中はそもそもニューシティMから減っていっている。空気が美味くて、中途半端に都市化なんかされていないところに住居を構えるからだ。
エレベーターの前に立ち、脇にある銀色の腰くらいの高さの柱に親指を押し当てる。指紋認証。扉があき、エレベーターに乗る。
音もなく扉が閉まり、上へと上がる感覚がした。
そこで僕はようやく後ろを振り向き、合成音声の主を見ることになった。
「お名前は?」
と、口に出して尋ねた。
「私はTだ」
合成音声は答えた。
Tは美しい女性だった。身長は170cmほど。すらりとした細身の体形で、僕の貸したウィンドブレーカーはぶかぶかだった。それ以外にはなにも身につけていない。下にはなにも履いていない。硬く、形の整った足の指がエレベーターの汚い床を踏みしめていた。
肩に届くくらいの長さで切りそろえられた艶のある髪の毛は、珍しい黒髪だ。
最近の若者は髪の毛の色を変えない方が珍しい。それくらいしかやることがないのだ。ファッションに気を使い、日々自分の見た目を変えることぐらいしか。
白すぎる肌は血の流れを感じさせず、しかし唇は薄っすらとピンクがかっている。
彼女は改ぞう人間だ、と僕は直感した。安価な人工皮膚を張り付けた場合、不気味な外見になるものだ。
それでも顔を美しいと感じたということは、彼女は骨格までは弄っていないということになる。整った外見にするには、統一された規格から自分の好みにあった型番を指定すれば、神経適応手術の際に整形してくれるサービスがあるから、世の中には似たような顔立ちの改ぞう人間であふれている。
そんな顔を一々美しいと思っていては、日常生活に支障が出るというものだ。
「お前と私の間に名前はあまり意味を持たない」
僕の視線を嫌がるように、Tは視線を動かし瞬きをする。そして音声を送信する。
「僕はジョンだ。お前じゃない」
僕は強気にそう口走った。
しかし、僕だってTの言い分には相応の納得をしていた。この名前の交換に一体どんな意味があったというのだろう?
エレベーターは目的の階に到着し、上昇を止めた。
扉が開く。
Tは少し思案するような表情を浮かべた。
「OK、ジョン。私は君の生死を握っているわけだが、それ以外はフェアにいこう。礼儀は大切だからな」
彼女はそう出力すると、扉から身をずらした。
「君が先に出るんだ。メンズ・ファーストってやつさ」
僕は彼女を自分の背後に回らせるのが嫌になってきたが、そう思っても、どうしようもなかった。僕の生死は彼女に委ねられている。が、それ以外はフェアだ。
勇気を出し、扉から一歩踏み出して自分の部屋へと歩いて行った。
Tはその後ろから付いて行く。
「実にフェアだ」
と、僕は呟いた。
僕は部屋の前で立ち止まり、ポケットから端末を取り出してドアノブにかざした。カチッと金属音が鳴り、ロックが解除される。
「結構なセキュリティだな。君の部屋にはCDのコレクションでもあるのかい?」
Tは初めて肉声で喋った。
僕は特に感慨を覚えるわけでもなく答えた。
「CDってなんだい?」
実のところ、彼女の声は合成音声の方が美しかった。
ドアノブをひねり、扉を押し開けて彼女を招き入れる。
「レディ・ファーストってやつさ」
僕はTに聞こえないように、より小声で呟いた。
と、同時に僕は腹部に今まで感じたことの無いような衝撃を感じ、一瞬の浮遊感を味わった。
彼は激痛と共に、部屋の奥まで吹き飛ばされていた。
「メンズ・ファーストだ。ジョン」
生まれて初めて味わう暴力と激痛に、頷くしかなかった。
彼女は悠然と入室し、扉を閉め、僕を追うように部屋の奥まで歩いた。彼女は裸足だった。
僕の部屋には物というものがほとんど無かった。
黒いデスク、白いケースに収められたコンピューター、白い丸机に黒い背もたれ付きのチェア、そして壁際に白いベッド。
どれもが簡素な組み立て式で、唯一デスクの上に置かれたメカニカルキーボードだけが鈍く光っている。
Tは部屋を見渡して、チェアに腰を下ろした。
僕は何とか立ち上がり、ベッドに座った。
「さて、次に君に要求するのは、ホソノ社の人工血液三パック、タカハシ製皮の人工皮膚HSシリーズの六番、坂本商事のセルフ・リペアーセットK、YANOの精密ドライバー。以上だ。」
それを一息で言い終わると、彼女はウィンドブレーカーのチャックを下げて上半身を露出した。
ひどい有様だった。
皮膚は切り刻まれてずたずたになり、中の強化骨格、強化樹脂で守られた内臓と血管、それに流れる白い人工血液が丸出しになっていた。
樹脂には少しひびが入っており、そのひびの近くの血管は傷つき、白い血液が微量だが流れ出していた。
「二時間以内に修理をしなくては、私の生命活動は停止する。そうなった場合、私の心臓に仕込まれた小型水素爆弾は爆発し、このマンションは台無しになる。そのように、今設定した。つまり残念なことに、私が死ねば君のコンピューターや…………そこの骨董品のキーボードも私と運命を共にすることになるわけだ」
彼女が言い終わる前に、僕は部屋から飛び出していた。
僕は再びエレベーターに乗り、今度は階を下る。
エレベーターが動いている間にポケットの中の端末に触れ、網膜ディスプレイに検索エンジンをポップさせた。これもまた、学生用のプロテクトがかけられた代物でアクセスできるサイト数が極端に少ない。
検索エンジンに「人工血液 ショップ」とタイプ。現在地点から最も近い店舗への最短ルートが示される。
一時間後、指定されたものを詰めたビニール袋を両手に提げ、僕は部屋に戻っていた。
Tの指定した物品は全て安価で無骨な量産品で、値段とある程度の耐久性以外は評価され得ない言わば工業的な製品だ。
包装も、デザインも、広告も最低限。僕はTの趣味に好感を持った。
それに僕のクレジットの利用限度額をそこまで損なわない程度の値段であったから、安心した。今月はまだまだ始まったばかりだ。
ドアノブに端末をかざし、扉を開ける。
一時間前から変わらず、Tはチェアでくつろいでいた。
「買ってきたよ。まだ死んでいないよね?」
袋を掲げ、白い丸机の上に買ってきたものを並べた。
人工血液のパックが三つ、人工皮膚のロール、リペアーセットの小さな箱、精密ドライバーが一つずつ。
「うん、どうやら頼まれたものを買ってくるくらいはできるみたいだ」
Tは頷き、机の上の箱に手を伸ばし、自らの修理を始めた。
その時、扉の鍵が開く音がし、何者かが入室した。
僕は思わずそちらを見たが、Tは気にする様子もない。
「ハロー、デイヴちゃん。ご機嫌いかが?」
軽快な歩調で桃色の髪をした美青年が一人、僕らに近づいてきた。
彼の顔はつるつるとしていて、そしてやはり青白かった。統一された規格の整った顔立ちをしており、身長は160cmくらい。Tと似た細身で、中性的な印象を与える。
「一緒に行ったカートは死んだが、私はこの気の良い少年…………ジョンに助けられてね」
Tは修理作業を続けながら青年に返事をした。
「それと、今私はデイヴじゃない。少し前からTになったよ。気休めだがな。カートから情報が引き出されないとも限らん。君もクリスは辞めた方が良いな」
「へえ、そっか。あ、じゃあ、今からわたしはレックスね」
クリスと呼ばれ、レックスに改名したらしい青年は話している間にも歩みを進め、通りすがりにTの頭を撫で、なんの断りもなしにベッドに腰かけた。
僕は、彼のことが一目見たときから嫌いだった。
そもそも、ファッションが気に入らなかった。彼はオーバーサイズの迷彩柄ジャンパーを灰色のパーカーの上に着ており、ズボンはジャンパーと同じ迷彩柄だった。
脳裏に浮かんだのは、著名なインターネットアイドルの女性だった。
彼は、彼女とほとんど同じ服を着、同じ髪色で、同じ髪型をしていた。
つまり、彼は彼女のファッションを丸々コピーしているのだ。
僕はそれがどうも気にくわなかった。
整えられた顔で、他人のコーディネートを丸々引っ張ってきたうえで、部屋に勝手に入って来て勝手にベッドに腰かけるのだから、好きになれという方が難しいだろう。
「あー、そうだ。ジョンくん?結構なセキュリティだけど、鍵くらいは変えた方が良いと思うな。こんなんじゃ、君も安心して暮らせないよ?」
レックスは立ち尽くしていた僕の瞳を覗き込んで、そう言った。
彼の声は、憎たらしいほど美しかった。十年ほど愛されてきたアニメの人気キャラのような声。聞こえた方向に振り向いてしまうような声。
「そいつはどうも御親切に」
顔の筋肉に力をいれながらそれだけ絞り出すと、座る場所を探すように部屋中をうろうろと歩きまわった。なるべくレックスの顔を見ないように。
僕はそのファッションや軽薄さへの憎しみ以上に、ここまで初対面の人間に嫌いになられるレックスに恐怖を感じつつあった。彼は全てが整っていた。顔も、スタイルも、声も、態度も。一貫性のない一貫性のようなものが、彼の雰囲気を形作っていた。
「どうしたの、そんなにうろうろして。ほら、隣座りなよ」
レックスは座る位置をずらし、もう一人分座ることのできるスペースを作って、そこを手でぽふぽふと叩き、優しい声を出してジョンに座るよう勧めた。
「彼は君に惚れてるんだよ、きっと。隣に座らせなんてしたら落ち着かないだろう?」
元々体に張っていた人工皮膚を剥がしにかかっていたTが、からかうような口調で返す。
その言葉にむっとして、つい僕はレックスの隣に座っていた。
しまった。と思う間もなく、僕の右手はレックスに握られる。
「捕まえた!」
と、レックスはあどけない笑みを浮かべ、僕の手を両手で握りしめる。その手は、恐ろしく冷たかった。
彼は良い人工皮膚を使っているのか、きめ細やかな肌触りに僕は得体のしれない興奮を感じていた。多幸感が脳を満たしている。
「こいつは危険だ」と感じているにも関わらず、僕はレックスに逆らうことができなさそうだった。
「そうそう、Tちゃんを助けてくれたお礼を言ってなかったね。」
「本当にありがとう!わたし、Tちゃんのことが心配で心配で…………」
レックスはそう言いながら目を潤ませ、握った手を自分の胸の高さまで上げた。
「いや、別に大したことは…………」
僕はそう言いながら、胸の高鳴りと怖気を同時に覚えた。
どうしてこいつはこんなことを言っているのだろう。思考は混乱した。レックスへの生理的嫌悪感と相反するなにかが、彼の握った手から注入されているのではないだろうか、と不安になり、握られた手を振りほどく。
それでも、望んだような安心がやってくることは無かった。
レックスの潤んだ瞳に、否応なく視線が行く。
全く嘘くさい。というか何をしたいのかが分からない言動に、僕の理性ははちきれんばかりだった。
その顔、規格通りの骨格の顔。それがどうしてこんなにも魅力的に映るのか? 僕には理解できなかった。僕はその時、レックスのことが好きでたまらなかった。
僕の、感情の一部分しか使わない生活が終わりを告げたように感じていた。脳がしびれ、手先は震えていた。
僕はレックスと互いの目を見つめ合っていた。
不要な幸せからくる緊張。彼は楽しくて堪らないといったような笑みを浮かべていた。
静寂は、大きな音のノックでかき消された。
用があるならブザーを押せよ、と僕は思った。なんとなく、邪魔されたような気がした。
立ち上がり、扉の方に近づく。
「どちら様ですか?」
扉の向こう側に向かって問いかける。
「警察の者ですが、ジョンさんのお部屋はこちらで間違いないでしょうか?」
よく通る低い声だった。仕事然とした厳しい調子。
「間違いないですが」
僕は答え、生唾を飲み込む。
Tに損傷があったということは、なにかがあったということだ。
そして、そこらの人間を脅迫して協力させたのも。
そこに警察が来たということは、彼女が事件に巻き込まれたのか、事件を起こしたのかのどちらかしかない。
「入ってもよろしいでしょうか」
腰を抜かし、大慌てで扉から離れる。
殺しに来たんだと、僕は思った。
部屋の中の一切合切を全部殺しにきた、という妄想に、というか確信に僕は取りつかれた。
「もしもし?」
警察官の男性が、再び扉をノックした。
返答がない、と判断した彼らはドアノブに手を掛ける。
当然回らない。彼らにはキーがない。
部屋の扉が凄まじい力で叩かれる。金属製の扉がへこみ、ゆがむ。
「ジョン、お客さんが来てるぞ」
Tは新しい人工皮膚を張り終え、喉から透明の管を伸ばし人工血液をパックから補給しているところで、僕に扉を指さし指摘した。
「どう考えても君らの客だろう?僕は部屋の隅っこで両手を挙げて跪いているから、君らが応対してくれないか」
僕は言い返した。
どう考えたってこの連中はまともじゃない。もっと早く気付くべきだったのだ。
Tは暇そうに指をピンと伸ばして眺めている。レックスは手鏡で紙を整え始めた。扉はもうすぐこじ開けられる。
「君の部屋に来たってことは君の客だろう。落ち着いて身なりでも整えな。みっともないぞ」
Tがそう言うと、レックスは「うんうん」と頷いた。
扉が破られた。歪んだ金属の板がフローリングを傷つけながら滑る。
黒光りするハンド・レールガンを持った武装警官が五人、部屋に押し入ってきた。
全員がフルフェイス・ヘルメットを被り、重要な内臓器官を守るプロテクターを着用していた。
「警察だ!全員両手を挙げて膝をつきなさい!」
彼らの内の一人が叫ぶ。
僕は事前に言っておいた通り、部屋の隅っこで両手を挙げて跪いた。
「君たちは重大な通信犯罪を犯した。抵抗するようなら、射殺許可も出ている。大人しくそこの少年を解放するんだ」
僕は希望を持って顔を上げた。ようやく解放されるのか?
僕はいい加減、この特別すぎる状況にうんざりしていた。
「助けてください警察官さん!そこの女に殺されそうになったんです!」
僕は絶叫した。
「みっともないぞジョン。君はもう私たちの仲間だろう?」
Tは言う。レックスは頷く。
警官の視線は、一瞬僕の方に向く。
なにかを発音しようとした警察官の頭に、一本の帯がよぎった。
ヘルメットの割れる音がし、そこには人工血液で汚れた日本刀らしきものを構えたレックスが立っていた。
警察官のヘルメットの隙間から真っ白い液体があふれ出す。
レックスは横に刀を振るい、その警察官の首を切り落とした。
他の警察官が手に持った銃をレックスに向ける。発射。
頭を割られた警察官と床、壁に着弾。随分と焦げ臭い。
レックスは既に警察隊の背後に回りこんでいた。後列左の一人の頭部を割る。
勢い余ったのか喉元まで切断。
人工血液をまき散らしながら刀を引き抜き、その勢いで回転。後列右の一人の首を横一文字に切断。
首なし死体を前方に蹴り飛ばし、残りの二名の体勢を崩す。崩れた姿勢では銃撃は当たらない。
上段に構える。蹴り飛ばした死体が直撃しなかった方が銃撃のために伸ばした両腕を切り落とす。正眼に構えなおす。
もう片方、体勢を大きく崩された方にローキック。たまらず膝を付く。振りかぶり、首を切り落とす。
腕を切り落とされた警察官がハイキック。レックスは返す刀で蹴り足も切り落とす。
一瞬の内に勝負はついていた。
「洗濯機ってある?」
レックスは質問する。
「ねえ、洗濯機ってある?」
レックスは再び質問する。
ハッとした。僕に質問しているのだ。挙げっぱなしになっていた両手を下ろし、無言でバスルームのある場所を指さした。
レックスの服は白い血にまみれていた。
「使ってもいい?」
頷くと、レックスは刀を握ったままバスルームに向かった。
Tは空になった血液パックを床に投げ捨て、あくびをするふりをした。
彼女は椅子から立ち上がり、両腕と片足を失い、もがいていた警察官のまえでかがんだ。
「じゃあ、ご用件を聞きましょうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます