黒いゴミ袋 その②

 ──────夢を、見ている。

 いや、違う。

 これは過去。

 ひどく冷たくて暗い、まるで寒空の下に放り捨てられたゴミ袋のような……。

 それは彼にとっての『よくある話』。

 今もどこかで終わってははじまる、むかしむかしからつづく人の営み。

 その連鎖の、鎖の一欠けら。

 どうしようもない人の性と世界の形が織りなすカリカチュア。

 ────『物語悲劇』が、はじまる。







 俺、花坂形離はいわゆる捨て子、というやつだった。もの心付いた時には、既に施設で暮らしていた。

 親の記憶は勿論無かったし、家族がどういうものかも知らなかった。小さい頃は本気で赤ちゃんは工場で産まれてから、こういった施設に預けられて育てられるとばかり思っていた。

 でもそんな幻想は、小学校に入学する頃には周りの子供達から馬鹿にされてしまう妄言だと気づかされる。


 オマエバカじゃないの? 赤ちゃんはのお腹から産まれてきて、そんで普通はに育てられるんだぜ。それが家族ってやつ。だからオマエん家は普通じゃないんだよ。


 ……確かそんなやり取りがあった。

 その日は帰って直ぐに施設の人にそのことについて尋ねた。

 何故自分はここにいるのか、そして自分の親は誰なのかと。

 はじめ施設の人は言い渋った。そして最後には「大きくなったら話す」とだけ言われた。

 しかし当時の自分はそれでは納得できなかった。まぁ仕方ない。さすがにそれで納得するのはキラキラ一年生のガキには難しい。

 大きくなったらっていつ? 身長がひゃくはちじょうを超えたら? そんなの待てない。今すぐ教えてほしい。

 そういった言葉を浴びせた、と思う。今思えば施設の人には悪い事をした。だってどう答えたって悲劇しかない質問ほど人を困らせるものはない。その質問相手が善人ならなおさらだ。

 だからだろう。見かねた同じ施設の、俺より先輩の子が真実をありがたくも教えてくれた。


 おい、いい加減にしろよ! いいか、そんなに知りたきゃ教えてやる。オマエもオレも、捨て子なんだよ。


 ……捨て子?


 親に捨てられたってことだ。でもオマエはもっと悲惨だ。だってオマエは────


 その子は顔を真っ赤にして、でも目にはどこか笑いに似た卑しさを宿らせながらこう言った。



 その瞬間、俺は幻視した。産まれた直後に、無慈悲に黒いゴミ袋に詰められて捨てられる自分の姿を。

 そうして俺は……盛大に吐いた。

 こみ上げてくる吐き気にとどまらず、それは悲しみ、嫌悪、憎悪、臭わないはずのゴミの腐臭、知らないはずのゴミ袋の内側のツルツルとした手触り、見た事のないはずのゴミ袋が縛られていく光の収束、そういった全てが想起され、そのすべてに身体が拒絶反応を示した。


『────』


 悲鳴は誰のものだったのか。

 先輩のものだったかもしれないし、施設の人だったかもしれないし、俺だったかもしれない。

 または脳に刻みこまれた、黒いゴミ袋に捨てられた名の知れない赤ちゃんの悲鳴だったかもしれない。

 それから俺はゴミ袋を見るだけで吐くおもしろ体質になってしまった。

 あの日見た幻視を、体感を、頭が自動で再生してしまうのだ。

 でもゲロの処理には困らない。だって目の前にはゴミ袋があるのだから。

 けどまぁ、そんなヤツはもちろんまともな日常生活、特に学校生活を送れるはずがない。

 すぐに『ゲロ袋』というあだ名が付いた。子供ながらに中々いいセンスだ。俺の特徴を一言で表している。

 そんな『ゲロ袋』には役割があった。それはみんながサボった掃除を独りでこなすこと。でもその代わり『ゲロ袋』は給食当番を免除された。

 ウィンウィンである。

 皆は掃除をしなくて良いし、なにより皆の食事にゲロの臭いがまとわりつかなくてすむ。

 そう、ウィンウィンだ。間違いない。だって先生もそれを了承していたのだから。

 学校での俺の立ち位置はそうして無事決まり、施設での立場もこの頃には大分固まっていた。

 施設では『ゲロ袋』とは呼ばれず、簡単に『ゴミ』とだけ呼ばれた。

 ゴミ袋に捨てられていたのだから、オマエは『ゴミ』だと、そう言われた。

 あの頃の俺は色んな呼び名があって、一体自分はなんなんだろうと困っていたのを薄っすら覚えている。

 でもその頃に学んだ事はしっかりと心に刻まれていて。


 弱者は寄り添うものではなく、より下位のものを見つけて虐げるものなのだ、と。


 ああ、あとそういえば、その頃日課のようにしていた遊びがあったっけ。

 それはとってもシンプルな問いかけ。


 ────何故自分は捨てられたのか。


 そんな疑問を、どこともなしに投げかけていた。

 勿論答えなんて出ないし、返ってはこない。


 何故捨てられたのか?可愛くなかったからか?女の子が欲しかったのに俺が男の子だったからか?本当は双子で俺は余った方だったとか?それとも誘拐されて犯人が用済みになって捨てたとか?もしくは俺はこの世界の住人じゃなくて何かの事件でこの世界に迷い込んだとか?俺は本当は異世界の王子様で今も本当の親が必死になって俺を探しているとか? 


 そんな戯言を繰り返していた。さっきも言ったが、勿論返事なんてありはしないけど。

 でも意外に時間を潰せるので暇つぶしとしては丁度良かった。

 遊びとはそういうものなのです。

 さて、日々『ゲロ袋』『ゴミ』と呼ばれる毎日。

 もちろん楽しくはなかったが、それほど嫌というわけでもなかった。

 結局俺の心を埋め尽くしていたのは、黒いゴミ袋のことだけ。

 誰にも知られず、なんでも捨ててしまえる黒いゴミ袋。

 それだけが、どうしても恐ろしく、怖かった。

 それ以外は正直どうでもよかった。


 黒い、黒い、ゴミ袋。

 俺のはじまり。

 俺の世界のすべて。

 そして終わりそのもの。


 けれど毎日『ゴミ』と呼ばれる俺を憐れに思った、もしくは現状をどうにもできなくて後ろめたく思った、とある人がある日教えてくれた。

 その人は例の俺が質問攻めにしてしまった、気の毒なあの施設の人。

 因みにその頃には、彼はもう別の場所で働いていて会う機会もかなり減っていた。

 そんな彼がわざわざ会いに来て教えてくれたのは、自分の形離という名前の由来についてだった。

 どうやら自分の捨てられていた黒いゴミ袋の中には、自分の他に『カタリ』と書かれた紙が入っていたそうだ。そして自分はそれをまるで大事なもののように握りしめて離さなかったとか。

 それを運命的に感じた彼は、俺の名前を『形離かたり』にするよう周りに訴えたらしい。

 形見を決して離さない。そんな意味を込めて、『形離』……と。


「そもそも名前とは、夕闇の中、目の前にいるモノの正体を口にする事で、相手を認識、または確定させるという意味から産まれた言葉なんだ。だからこそ形離という名前は…………………闇に飲み込まれそうな君を救ってくれる。必ず。

 そして名前は自身を現すだけじゃない。人の生き方を決めてしまうほどに大きな力を秘めている。だからこそ、形離という名前は、きっと君を導いて、時に勇気をくれるだろう」


 そんな言葉を、あの人は当時の自分にかけてくれた。今にして思えば、彼は中々にロマンチックな人だった。小さな子供にそんな事を教えたって、意味なんてわからないだろうに。

 まあ、結局なんだかんだとその言葉に影響されて、名前に対して思い入れを持つようになったのだからあまり茶化す事もできないけども。

 とそんなこんなの少年期を愉快にも過ごしていた俺だが、これまた愉快が重なって、こんな俺にもある時夢ができた。

 それは簡単にいってしまえばヒーロー……でも厳密に言うと少し違う。

 子供の頃に大部屋の端から見た、朝のヒーロー番組の光景が何故か子供心に焼き付いて離れなかった。

 ヒーローと、その活躍で発生するに、俺は心躍らせた。

 端的に言えば、ストーリーは遠くからしか見られなかったからよくわからなかったので、遠目でもわかるわかりやすいシーンしか印象に残らなかっただけの話しだけど。

 それでも、あの超人さに、何よりどんな嫌なものも、醜いものも全て最後には爆破して輝きに変えるというのが、俺にとって憧れだった。


 爆発こそが、ヒーローの本質だ。


 ……我ながら少し歪なガキだったと思うが、でも仕方ない。だってそれぐらい俺はヒーローが起こす爆発に魅入られ、身を焦がすほどに憧れたのだ間違ったのだ

 そうして俺の夢は……生き方末路は決まった。

 それを叶えるまでは死ねないし、死ぬわけにはいかない。何度ゲロを吐こうとも、どれだけ人の醜さに厭れても、何がなんでも生きて、あの煌めく輝きを、感動を、己の人生の意味にする為に。……己の夢を叶える為に。

 それが黒いゴミ袋に捨てられた自分の、曲がりなりにも見つけた生きる理由のようなもの。

 だから俺の夢がヒーローは少し違う。ヒーローはヒーローでも、俺が憧れ、目指したものは、ヒーローが起こす爆発の輝きなのだ。

 そうして自分の命の使い道を決めた俺は学生生活をルンルンで卒業すると同時に、施設も卒業。そうして地元を離れ、東京へと出発した。

 ああ因みに言うと、中学でも別に特筆する出来事はなかった。

 いつも通りの日常。いつも通りのゲロ袋。いつも通りの人の性。それだけだ。

 だからそこら辺は大幅カット。尺は有効に活用しないと。ただでさえこんなツマラナイ人生なのだから。……それに結末はご存知の通り、決まっているのだし。

 さてさてそんなわけで、東京ははじめて目にするものばかりで、目が回ったのを覚えている。

 異世界にでも迷い込んだのかと本気で思った。ここでなら怪人が暴れていても納得できるな、くらいには人も建物も欲望もなにかもが溢れていて。

 しかしそんな夢心地だったのも最初だけ。後にここも自分の地元と地続きの日常だと思い知らされるわけで────。

 東京初日、俳優事務所にいきなり突入したら、門前払いどころか危うく警察を呼ばれそうになった。……これはまぁ俺が悪い。あの時は舞い上がりすぎていた。所謂黒歴史である。

 一旦落ち着いた俺は、名前の意味を熱く語ったあのロマンチストの人に紹介してもらった寮付きの仕事場に挨拶へと向かった。

 そこは小さな町工場だった。こんな田舎者まるだしの中卒を、いくら紹介とはいえ雇ってくれるモノ好きな社長と、そんな人柄に惚れ込んだ部下が数人の温かな職場だった。

 俺はそこで、迫害されない日々というものをはじめて体験した。

 挨拶しても許される環境、目の前でご飯を食べるのを怒られないどころか、寧ろ奢ってくれたりする優しい同僚。仕事でわからないことを聞いても、ちゃんと教えてくれる上司。そして俺の夢を聞いても馬鹿にせず、寧ろ全面的に皆応援してくれた。「お前ならきっと叶えられるさ」と、力強く背中を押してくれた。オーディションがあれば、仕事を快く変わってくれたりもした。

 それらの事に一々戸惑う自分を、彼らは優しく笑いかけ受け入れてくれた。

 幸せだった。東京に来た初日の頃感じた夢心地とはまた違った、しっかり地に足が付いた温かい幸福。

 ここでの生活のお陰で、俺はようやくゴミ袋を見るだけで吐いてしまうあのおもしろ体質が改善されはじめた。

 まだ完全に克服とはいかなかったが、けれど着実にゴミ袋への忌避は薄れていった。

 それは根気よく話しを聞いてくれた社長やその奥さん、毎回吐くたびに水やタオルを持って来てくれた上司や同僚たちのおかげ。

 最初は申し訳なくて死にたくなった。けれどみんな笑って「こんな事ぐらいで一々気にするな。これくらいの気遣い普通だから」と言ってくれた。

 そこで俺は、人間の善性を垣間見た。彼らにとって良き行いは特別な事ではなく、普通の日常なのだ。明日も、その明日も、彼らの日々には優しさと思い遣りが溢れているのだ。

 でもそれこそが、なにより特別な事なのだと俺は身に染みて理解していた。

 だからその尊いものを守りたかったし、俺もその日々の一部になりたかった。


 けれど、この世界はあの地獄日常と地続きの現実だということを、俺は真っ赤に燃え上がる工場を見上げなら痛感した。


 その日はスタントマンの事務所の入所オーディションだった。そして例の如くいつものように同僚が俺の代わりに仕事に入ってくれて、工場の皆の頑張れという声援を受けて出掛けた。

 温かで幸福な、けれど何の特別でもない、いや特別な日にするはずだった日。

 その、はずだった。

 しかしオーディションを終えてその手ごたえを報告しに帰ってきてみれば、その幸福に溢れていたはずの場所は、死と絶望と炎が渦巻く地獄に変わっていた。

 ある意味、特別な日にはなった。


 あかい、あかい、炎の花。その開花は鮮烈な爆発を伴って、幸福な日々とか、大切な思い出だとか、そういった何もかもを瞬く光に変えていった。

 それはどこか、いつか見たテレビの画面の中の爆発と似ていて。

 事件から一夜明け、工場の皆の死亡が確認された。


 鈴木太郎、鈴木春子、田中英雄、前田健司、立花幸喜、堂島治夫、岡本嘉久次。


 計七人の死亡。


 出火原因は不法投棄された黒いゴミ袋内の薬品の化学反応による発火。犯人は不明。

 また……ゴミ袋だった。どうやら自分の人生には黒いゴミ袋が深く関わる運命のようだ。

 まるでストーカーだ。

 残ったものは何もない。工場があった場所もすぐに別の建物が建ち、彼らがいた痕跡は本当に何もかも消え去った。

 俺はというと、あの日受けたオーディションは皮肉にも合格し、事務所の所属が決まり夢へと一歩近づいた。

 最早意地である。例え薄情といわれようと、俺は彼らが応援してくれた夢を叶える為に、いやそれ以上のものを実現する為に、なりふり構わず走り続ける事を誓った。

 まるで目に見えないナニカに復讐するかのように。


 ────しかし現実は甘くはない。


 俺はたいして花開くこともなく、いつしか惰性のように、そして呪いのように夢に縛られ生きてきた。

 途中腐女子という未知との遭遇を経験したりもしたが、それも別に最早驚くに値しない。

 人生とはそういうもの。

 良いことも、悪いことも、起こる時は起こるのだ。

 そのことに一々怒っても、世界は何も変わらない。

 幼い頃夢見たヒーローと爆発。人生の意味にしてみせると誓ったその光景に、大切だったものを焼き払われたあの日、俺は心のどこかで気づいてしまったのだ。

 世界とは、人生とは、『よくある話』と片づけられる幸福と……悲劇で満ちているのだ。

 それだけ世界は広い、というだけの話。

 特別な幸福が特別じゃなかったように、特別な悲劇が別段そこまで特別な悲劇じゃなかったと、否が応でもそのどちらも垣間見た自分にはわかってしまったのだ。


 それはまるで道の真ん中に芽を出した蕾を踏みしめて行くのと同じこと。


 だから自分がいきなり宇宙人に襲われて、エイリアンに寄生されてソレを腹から産みだし死にかけて、それからその子を昔の……黒いゴミ袋に捨てられたという過去のトラウマから育てる事になっても「ああ、次はそうなのか」と最終的には受け入れられた。

 例えどれだけ絶望しても、世界にとっては『よくある話』。だからせめてやれる事は効率よくやるしかない。割り切って、進むだけなのだ。

 余分は要らない。そんなものに割く余裕は俺には無いのだから。

 それが俺の人生の結論。面白みもない、俺を救ってくれた鈴木さん達に胸を張れない弱者の言い訳。けれどそれが賢い選択だと信じて。


 ────だというのに、あの子を育てはじめてから調子を崩してばかり。

 何でもない事に一喜一憂して、命の輝きみたいな何かに感動して、涙して。

 あの子がミルクを飲んでくれるだけで嬉しくて、上手くげっぷをさせられたらまた嬉しいし。一緒に昼寝をすると心がふわりと干された布団みたいになる。ただあの子が笑うだけで、こっちまで笑顔になって、それを見たあの子がまた嬉しそうに笑う、そんな繰り返しがただただ幸せで……。

 ホント、どうしてしまったのか。こんなの世界中どこにでもあるありふれた子育てで、『よくある話』でしかないはずなのに。

 ……はず、なのに。


 








 そうして彼の言う『よくある話』とやらは終わった。

 終わって、しまった。

 わたし、佐藤春香はいわゆる普通の家庭で育ってきた。

 父も母もいて、五歳年の離れた絶賛反抗期真っ盛りでどんな些細なことにも反抗するロックンロールな妹がいる。

 本当に普通で、不幸もあれば幸福もある、そんな家庭でそれなりに不自由で自由な生活を送ってきた。

 そんなわたしも産まれてなんだかんだと二十年は経った。

 けど、逆を言えばたったの二十年しか経っていない。

 だから社会の成り立ちとか、現実とかも、本当の意味でわかっているとは……彼の過去を追体験した今のわたしにはとてもじゃないが言えない。……言えなくなってしまった。

 甘かった。世界はこんなにも残忍で理不尽で……悪趣味なものなのか。

 わたしの知っている世界なんて、たかが知れているのだと痛感した。

 でも。

 そんなわたしだけど……いや、こんな普通のわたしだからこそ、言えることがあるし、言わなければいけないことがあると思う。

 いや……そんなカシコイ言い方はやめにしよう。

 今わたしは、どうしても、どうしても言いたいことがある。

 それは、



「────形離さん、馬鹿じゃないんですか」

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