第17話

 トリタニア湖はオルディネの南東に位置する大きな湖だ。

 周辺は見晴らしの良い草原地帯で、街道も整備されているので治安も良い。


 この時分には、漁師くらいしか訪れる人はいないだろうが、暖かくなると屋台が並ぶくらいに観光客で賑わう場所だ。


 ただ、夜のトリタニア湖のことはあまり知られていない。


 僕は父から教えてもらった。

 まさか自分から誰かを連れて行こうと思うなんて……。


 ふふ、父が今の僕を見たら驚くだろうな。


「あ、小鳥が……」


 マイカが帽子を押さえながら、荷馬車の幌の上を見上げる。

 見ると、幌の上に数羽の小鳥が並んで羽を休めていた。


「ほんとだ、ツバメだね。彼らもそろそろ旅に出る時期かなぁ」

「旅、ですか?」


「そうだよ、ツバメは冬になると暖かい国へ旅立つんだ。寒いのが苦手なのかな」

「へぇ……そうなんですね、知りませんでした」


「まぁ、僕も父の受け売りだけどね」

「シチリのお父様はどんな方だったのですか?」


「どんな方……うーん、そうだなぁ……僕にとっては、たったひとりの家族だったかな。あ、ほら、僕は母のことを覚えていないから」

「あ、私……無遠慮でしたね、ごめんなさい」


「いやいや、全然大丈夫だから気にしないで。むしろ、こういう話ができることって、今まで無かったからさ、聞いてくれると嬉しいな」

「聞きたいです。私、もっとシチリのことが知りたいです」


 マイカに見つめられ、恥ずかしくて目を逸らしてしまった。


「そ、そう? それじゃあ……オホン、えっと、父はとても優れた薬師だったし、猟師でもあったんだ」

 僕が話し始めると、隣でマイカが頷く。

「猟師を生業としていた父は、腕っ節も強くて、山のことも知り尽くしていてね。僕も色々と仕込んでもらったよ。僕の知識は全部父から教わったものなんだ。それで、母が病で倒れてから、父は薬師になった。薬草の知識は猟師だったから詳しかったし、育てるのも上手だったなぁ」

「シチリが頼りになるのもお父様のお陰なのですね」


「えっ! た、頼りに……⁉ へへ、そ、そうかな……」

「はい、とても」


 何だかむず痒くなりながら、僕は話を続けた。


「僕が薬草を買ってもらっているモーレスさんも、元は父の猟師仲間だった人なんだ。父が薬師になったのをきっかけに、今の小売店を開業したって言ってたよ」

「かなり長いお付き合いなのですね」


「うん、父がいなくなってから、あの農園と家を悪い人に取られそうになったことがあってね。その時、モーレスさんが悪い奴らを追い払ってくれたんだ」

「そうだったんですね……」


「薬の作り方とか、畑の管理法なんかも指導してもらって、僕が大きくなるまでは、良く一緒に住まないかって言ってくれてたんだよ。嬉しかったけど……でも、やっぱり、僕はあの家から離れたくなくてさ、ピウスもいたしね」

「……ひとりで寂しくなかったのですか?」


「そりゃあ、寂しい時もあったよ。でも、あまり考えないようにしてた。毎日、へとへとになるまで、森に入って薬草を探したり、狩りをしてたかなぁ」


 森を抜けて、見晴らしの良い街道に出た。


「あ、ほら、森を抜けたよ」

「うわぁ……すごい。シチリ、あんなに遠くまで見えますよ!」


 興奮したマイカが御者台から身を乗り出す。

 僕は慌ててマイカが落ちないように手を伸ばした。


「あ、ごめんなさい」

「ううん、急に立つと危ないからね」


「シチリが優しいのは、お父様に似たのですね」

「さぁ、どうだろう? 僕からすると、怖い時の方が多かったからなぁ……。小さい頃、頼まれた薬草を間違えた時なんてさ、こーんなに目がつり上がって『シチリ! 何度言ったらわかるんだ!』って良く怒鳴られてたよ」


 ふざけて顔を作ると、マイカがお腹を抱えて笑った。


「あはは、何だか光景が目に浮かぶようですね」

「いまとなっては良い思い出かな」

「思い出ですか……私にもあるのでしょうか」

 マイカは地平線を見つめながら、そっと呟いた。


「ご、ごめん、まだ記憶がもどらないんだもんね、話を変えよう」

「ううん、大丈夫です。ただ、シチリに申し訳なくて……」


「僕に?」

 マイカはコクンと頷く。


「私が何者なのかわからないまま、こうして側に置いてくれるのは、シチリが優しいからだとわかっています」

「そんな……」


 慌てて僕が否定しようとすると、マイカはふるふると小さく顔を振った。


「だからこそ、不安なんです。だって、もし……本当の私を知って、シチリの気持ちが変わってしまったら……。それに、私のせいで危険なことに巻き込まれてしまったらと思うと怖くて……。だから、ちゃんと自分のことを思い出したいのですが……いくら考えても、なぜ、自分があの場所にいたのか、何をしていたのかが、まるで、そこだけが抜け落ちてしまったみたいに、真っ暗で、何も……何もないんです……」


 ぽろぽろとマイカの言葉がこぼれ落ちる度に、僕の胸はナイフで刺されたように痛んだ。


 マイカは何も言わなかっただけだ――。


 何気ないの笑顔の裏で、こんなにも思い悩んでいたのかと思うと、鈍感で脳天気な自分が嫌になった。

 僕はそっとマイカの手を握った。


「シチリ……」

「あのね、マイカ。僕は君が誰であろうと変わらないよ。約束する。だから、安心して」


「……ありがとう、シチリ」


 マイカは目尻の涙を拭う。

 そして、小さく何度も頷いた後、にっこりと僕に笑顔を向けてくれた。


 旅というには大袈裟だけど、大切な人と一緒に何かをするというのはとても楽しいことだ。

 今だって、ただのんびりと馬車に揺られながら、他愛のない話をしているだけで、僕の心はこんなにも満たされている。


 彼女の可愛らしい声や仕草、思わず見入ってしまいそうになる笑顔。マイカといるだけで、僕の世界は輝きを増していく。本当に不思議だ……。


 街道を進んでいくと、遠くにキラキラと輝く湖が見えてきた。


「シチリ、あのキラキラしたのがトリタニア湖でしょうか?」

「そうだよ、水面に光が反射してるんだ」


「すごく大きな湖なのですね」

「うん、この辺りじゃ一番大きいかな」


 トリタニア湖に近づくにつれ、緑も増えてくる。

 街道沿いには、春から初秋にかけて観光客相手の屋台が並ぶのだが、今はシーズンオフということもあり、どこにも見当たらなかった。


「今年は終わっちゃったみたいだなぁ……」

「何が終わったんですか?」


「ここはね、夏になると街道沿いに屋台が並ぶんだ。もう少し早ければ買い物も楽しめたんだけど……」

「えー、それはちょっと残念です」


「だよね。まぁでも、シーズンオフならではのお楽しみもあるから、期待してて」

 僕は少し得意げに言うと、トリタニア湖の湖畔に向かって馬車を進めた。

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