第7話 取扱説明書
私の体は地面と玉藻前の肉球らしきものにサンドイッチにされ、手足ですら身動きが取れなくなる。はっきりいって、玉藻前の体はかなり重く、潰れてしまうのではと思った。それはもう、ここが私の墓場かと錯覚してしまうほど。
「ちょ、ちょっ……! 急に何するんですか……っ! 重いです、どいてください!」
「あ? その声……百合か」
そろそろ圧迫死しそうで限界だったので、腹の底から声を振り絞るように叫んだ。すると私の声が届いたようで、ようやく気がついた玉藻前がそっと足をどかす。だが、謝ろうとはしないあたり、さすが玉藻前だと苦笑いを浮かべた。パッパッと砂埃を払い落とし、いつの間にか擦りむいて赤くなっていた手首を見て、げっと声がもれる。母にバレないように注意を払ってここへ来たのに、これでは翌朝傷が見つかって、夜に出歩いたことがバレてしまうかもしれない。手首の他、膝も赤くなっているのを見るにあと数箇所は擦りむいていそうだ。どうやって隠そう。また明日怒られるかもしれないと考えると、今からズンと気が重くなる。
しかし、この狐はそんなことお構い無しに、少し気まずさを含んだ声で話しかけてきた。
「なぜこんな時間に出歩いている。人の子は弱いのだから、厄難に遭う前にさっさと家に帰れ」
目は一切合わせず、荒々しい口調で締めくくった。これは……玉藻前なりに心配してくれているのだろうか。私が都合の良いように解釈しているだけかもしれないけれど、この時は何となしにそう感じた。
だが、私も目的があってこの場所に訪れたわけであって、もちろんタダで帰ってあげる訳にはいかない。この狐に言わなければいけないことがたくさんあるのだ。私に注意するだけして身を翻す玉藻前の前に立ち塞がる。玉藻前は怪訝そうな表情を浮かべたが、そんなものは知らない。私は自分の何倍以上もある狐に目を合わせ、ご近所迷惑にならない程度で声を張り上げた。
「ちょっとうち寄っていきませんか」
カチャリ、と極力小さな音だけを出すよう心がけて扉を閉めた。まるで我が家に忍び込んでいるみたいだと、そんな変な気分になりながら、忍び足で二階へ上がる。ちらっと盗み見ると、リビングに繋がる戸のガラス部分から光が漏れ出ていたので、母か父のどちらかがまだ起きているのだろう。それにほっと胸を撫で下ろしながら、二階の自室へ向かうのだった。
パチンと部屋の電気をつけ、一目散に窓の外を覗き込むと、私たちの作戦通りそこには小さくなった玉藻前がいた。
「もう大丈夫ですよ。来てください」
「う、うむ……」
戸惑った様子の玉藻前は、九本の尻尾を巧みに扱い、二階の私の部屋へ飛び込んでくる。それをバッチリ受け止めた私は、夜出る前に冷蔵庫から頂戴してきたいなり寿司を目の前に出した。途端に、曇っていた表情はぱあっと晴れ、私といなり寿司を交互に見る玉藻前。
「た、食べていいのか……!? いいんだな!?」
「いいですよ、いいですから声のボリュームを落としてください」
「ぼりゅうむ?」
「……音量です。声の大きさ」
「ほう。今の人の子は何やら難しい言葉を使うのだな」
と、口いっぱいにいなり寿司を頬張りながら感心したように話す玉藻前。前に私は高貴だ何だと言っていたが、この姿を写真に撮って見せてやりたい。高貴な方はこんな食べ方しないと思いますけど、と一言を添えて。
そして、やはり私の予想通り、玉藻前はろくに食べ物を口に入れていなかったらしい。バクバクと、某掃除機のようにいなり寿司を次から次へと吸い込んでいく。かなり量はあったはずなのだが、数分後には平皿の底の可愛らしい模様が顔をのぞかせていた。思わず、
「食べるの早くない……?」
と呟いてしまったほど。しかし、それを気にもとめない玉藻前は、口の端に着いた米粒をぺろりと舐め取った後、私を不思議そうに見つめてきた。何だろう。もしや私の口にも何か着いているのだろうか。
「何か着いてますか?」
玉藻前は喋らない。気になって、人差し指で触れようとするがただ空を切るだけだった。
それとも、まさか幽霊的な何かが背中に憑いているのか。よく見れば、玉藻前は私の後ろを見ているような気もしてくる。
「な、何か憑いてるんですか!? いるなら取ってください!!」
それを想像してゾッとした私は、一人で慌てふためき始める。いやまず、幽霊ってどうやってとるんだ。引き剥がすことって、できるっけ。
何も言わない玉藻前に余計に恐怖を感じていると、ふっと何かが切れたように笑い始めた。
「え……? なん、え?」
「いやあ、人の子を揶揄うのはやはり楽しいと思ってな。ぷっくく……! 百合の今の表情、夏芽に見せてやりたいくらいだ」
「もう次からいなり寿司用意しませんから」
「なっ! この私相手に脅しか……!? そんなものが通用するとでも……くっ……!」
今度から、玉藻前がバカにしてきた時はいなり寿司を人質に取ろう。そう心に決めた瞬間だった。
人質に取ってもなお謝る素振りを見せない玉藻前に呆れ、そんな話よりと、ここへ呼んだ本来の目的を達成させるべく別の話を振る。
「あの、玉藻前が前に言ってた夏芽さんと私の昔話ですけど。ちゃんと話したのでもう良いですよ、私に気を使わなくて」
「…………は」
玉藻前にしては珍しく、蚊の鳴くような声が目の前から聞こえた。目を見開いて、体と同じ黄茶色を露わにする。きっと私が同じことを言われても、彼女と同じ反応をするだろう。それほど変なことを言っているという自覚は私にもあった。
「夏芽さんのこと好きなんでしょう? 長年友達になりたいと願い続けるくらいには」
玉藻前の顔が歪む。お前に何がわかるのかという表情だった。
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