第3話 消えた百合
まだ何か言いたそうに口をムニムニとさせる夏芽さんをなだめていれば、後ろから聞き馴染みのある声がした。
振り返ってみるとそこには誰もおらず、少し視線を下にずらすと、ようやく声の主が発見できた。
「おや、また喧嘩してるのかい。日向ぼっこの邪魔だから静かにしとくれよ」
「猫又さん」
「だっ、だって……!」
くああっと目尻に涙をためながらあくびをする猫又さんは、夏芽さんの必死な抗議には目もくれず、スタスタとお賽銭箱の前まで歩いていってしまった。
不完全燃焼の夏芽さんはぶすくれていたが、既に夢の中の猫又さんを起こしては悪いと思ったのか口を閉じている。
このまま作文のことも忘れてくれればいいのだけれど。
私も夏芽さんの荒ぶりを落ち着かせて疲れたので、癒しを求めてお賽銭箱の前へ移動する。
こんなに近くに来ても全く起きない猫又さんに、初めて会った時よりも信頼されているのかなと嬉しく思った。
しばらく艶々の毛並みを存分に味わっていると、掃き掃除が終わったらしい夏芽さんも私の隣へ座る。
特に何か話すわけでなく、ただ座って風の音を聞いているだけ。
そんな時間が、最近はとてつもなく愛おしく思えるのだった。
気持ちよさそうに眠る猫又さんを撫でていると、私にもだんだん睡魔が移ってくる。
暖かい直射日光と、爽やかに吹く風で揺れる木々たちの音が、言葉には形容しがたい居心地の良さを作り上げているのだ。
一言で簡単に言えば、つまり今の私は超絶眠たいということだった。
「おや、百合ちゃんも眠たいの?」
「ん……はい」
「寝ていてもいいよ。帰る時間になったら起こしてあげるから」
「ありがとう、ござい……ます」
心を読まれたのか、ただ単に見た目で分かったのかは知らないが、夏芽さんのその言葉を聞いて安心して目を閉じた。
木々の囁く声を聞きながら。
目を開けると、だだっ広い草原が向こうまで続いているような場所に私はいた。
先ほどまで神社にいたのだから、きっとこれは夢だろう。
夢の中で意識がはっきりしているなんて変な話だが。
せっかくだから周りを散策してみようかと歩き始め、しばらく歩いているとたくさんの花がある場所へ出た。
白、ピンク、紫、黄色、青、オレンジ……。
どこに目をやっても色が渋滞しており、目がチカチカしそうだ。
百合の花はあるだろうか。
自身の名前が百合だからか、私は異様に百合の花が好きだった。
探してみようと思い、花畑へ踏み入ろうとすれば突然けもの道のようなものが現れる。
まるで、その道を進めと言うように。
少々怪しみながら、おずおずといった感じでけもの道を進んでいく。
――そして、それは歩いてすぐの場所にひっそりとあった。
白くて凛としている百合の花。
その白さには、穢れを許さない純白さや、凛とした佇まいから鋭い威厳さも感じ取れる。
光の当たり具合で少し色を変えるその百合は、素人目の私が見てもとても綺麗で貴重なものだと思った。
触れてみたい。
素直に直感的にそう思い、キラキラ優しく光る百合へ手を伸ばす。
が、しかし、私が触れる一歩手前のところで、百合は跡形もなくドロドロに溶けて消えてしまったのだった。
そして、百合だったそれは、襲いかかるようにして私を包んだ。
息が苦しい。
もがいてもがいて苦しみから逃れようとするが、それは実態がなく水のような液体であり掴めるはずがない。
平凡でなんの特技もない私は水泳選手のようには息が続かず、こぽ、と最後の空気を手放した。
薄れゆく意識の中、誰かの声がぼんやりと小さく響いて聞こえてくる。
それはだんだんと近づいてきて。
明確に、はっきりと大きな声で聞こえた。
――もうすぐ出会えるようだね。よかった。
「っは……! は……っ」
「わ、びっくりした。今からちょうど起こそうと思ってたのだけれど、その必要はなかったみたいだね。おはよう、百合ちゃん」
「お、おは……おはよう、ございます」
肩で息をしながら意識が覚醒した。
夢から覚めたことに安堵し、そしてまたよく分からない夢だったなと思い出す。
特に最後のあの言葉。
誰が何のために私にかけた言葉だったのか、そしてその言葉の意味。
全てにおいて謎に包まれたままだ。
前の夢もこんな感じだった。
内容はたしか、二輪の花が…………えーっと、なんだっけ。
特に夢日記をつけている訳でもない私が、遠い昔の夢の内容なんて覚えているはずもない。
二輪の花が登場してきたことだけは覚えているのだけれど。
まあ、忘れるということは大した内容ではなかったのだろう。
私は思考を放棄して、まだ荒ぶる息を整える。
横を見れば、猫又さんはまだ寝ているようだった。
「ささ、もう帰る時間だね。猫又はまだ寝ているようだから放っといていいよ」
「……夏芽さんってたまに笑顔でひどいこと言いますよね」
「えっ? そうかな……へへ」
「いやなんで照れてるんですか。褒めてないんですけど」
「そういう百合ちゃんはだいぶ毒舌になってきたよね」
「……気のせいです」
階段のところまで、夏芽さんと並びながら歩いていく。
こうして彼女と話しているとやはり安心するのか、夢のことなどほとんど消えかかっていた。
果たして、それがいいことなのか、悪いことなのか。
私には分かるはずもなかった。
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