第二章 夏の思い出
第1話 夏休み初日
セミの鳴き声と、うっすら聞こえるお母さんの声で、意識がだんだん覚醒していくのを感じた。
瞼を開ければ、いつも通りの自分の部屋の天井が目に入る。
なんだかとても壮絶でリアルな夢を見ていたような気がするのだけれど、起きたばかりで頭が働かないのかぼんやりとしか思い出せない。
太陽に向かって笑う花の色だけは思い出せるのだが――。
ちょうどその時、リビングから美味しそうな匂いが漂い始めたので、お腹が鳴いた私は思考を放棄し階段を下りて下へ向かった。
食卓には既に朝食が並べられており、美味しそうな匂いの元はトースターで程よく焦げたパンからだったようだ。
匂いが鼻を通して空きっ腹に伝わり、それでまたお腹を鳴らす私にようやく気づいた母が、食器片手におはようと優しく笑って言った。
「食べる前に顔洗ってきなさいね。にしても今日から夏休みかぁ……。課題とかいっぱい出てるんじゃないの?」
「まあね。でも、もう終わらしたのもあるから」
「へえ」
感心したように短く言葉を発した母の横をドヤ顔で通り過ぎ、早く朝食を食べるため洗面所へ直行する。
暑い夏の朝にピッタリな冷たい水で顔を洗う。
さっぱりした気分で再びリビングへ戻り、いつも座る固定の席に腰を下ろした。
みずみずしいレタスに、香ばしい匂いで食欲をそそるウインナー。
焼きたてほやほやのトーストからは、ほのかにバターの匂いが鼻をくすぐり、その上には母のお手製のスクランブルエッグがたっぷりと添えられていた。
それらをあっという間にペロリとお腹に入れ手を合わせる私に、母が苦笑いを浮かべているのが視界に入る。
「そういえば、今日どこか行く予定はあるの?」
「あー…………。まあ、うん。友達のところに」
友達というのは、言わずもがな夏芽さんのことである。
神様を友達と呼んでいいのか分からないけれど、素直に神社に遊びに行くと言えば、なぜ行くのか、何しに行くのかなど問いただされそうで面倒くさかった。
シンクに食器を片しながら、まあ嘘は言っていないだろうと自分に言い聞かせる。
それより、これ以上ここにいると母にいろいろ聞かれボロが出そうだと思い、私は足早にその場を去った。
自分の部屋に戻って、パジャマから動きやすい服装に着替える。
これでやっとスイッチが切り替わった。
夏芽さんのところへは、ようやく勉強のやる気スイッチが入ったことだし、少し課題をしてから向かおう。
涼しい風が入るよう開け放たれた窓の外を見ながら、夏休みの課題へ取り掛かった。
次第にセミの声が大きくなる。
集中して数学のワークを解いていれば、いつの間にか時計は十二時を指していた。
少しやったら神社へ向かうつもりだったのだが。
自分の集中力の長さに感心すると同時に、涼しい朝のうちに行けなかった残念感を覚えた。
とりあえずお腹が空いた私は、一旦勉強をストップさせてリビングへ向かう。
いつの間にか母は仕事に行ったようで、下の階は電気が消してあった。
ドアのすぐ近くにある照明スイッチを押すと、明るくなった部屋のテーブルの上に一枚の紙とラップで包まれたお皿があることに気がつく。
紙には「チンして食べてね」と母の字で書かれていて、横にあるこのオムライスは私の昼食なのだと理解した。
私は書かれてあった通りに電子レンジで温めた後、ホカホカのオムライスをこれまたペロリとたいらげた。
洗い物までしっかりと済ませ、ソファーの上でくつろぎながらこれからどうしようかと考える。
勉強に戻ってもいいのだが、午前中に数学を詰め込みすぎてそろそろ頭がパンクしそうなのだ。
かと言って今から神社に向かうのは暑いし、何よりセミの声がうるさい。
けれど、神社に行けば夏芽さんにも会えて、尚且つあそこは涼しい風が常に吹いている。
選択肢を天秤にかけた時、それはゆっくりと神社に行く方へ傾いた。
「あっつ」
家から出たは良いけれど、日向へ出たくなくて玄関前から一向に進まない。
私が呟いた声も、セミの声が大きすぎてかき消されそうだ。
てらてらと照りつける太陽から逃げるようにして、日陰と日陰の間を上手く通っていく。
傍から見ればただの変人だが、暑さを軽減させるための行動であって、断じて誰かをストーカーしている訳では無い。
幸いにも、神社とうちの家は近いので、そんな怪しまれる行動も誰にもみられず目的地へ着くことができた。
頬に伝ってきた汗を拭って、涼しそうな林の中へ足を踏み入れる。
ひんやりした空気に生き返るような心地を感じていれば、見慣れた鳥居が見えてきた。
そういえば、前に夏休みに掃除に来ると言っていたがすっかり忘れていた。
明日の私がもし覚えていたら、雑巾片手にここへ来よう。
その時はもちろん、人に見られないように細心の注意を払って。
いつものように鳥居をくぐって、石段を一段一段上っていく。
あと数段上れば神社に着く――そう思った瞬間。
夢で見た揺れる花と、太陽に向かって咲く花の光景が頭を掠めた。
自分は何も考えていないのに、突如として流れてきたそれに驚いた私は、危うく階段から転がり落ちてしまいそうになる。
こうして記憶に流れてくるということは、あの夢はやはり何かを伝えようとしているように思えた。
しかし、それが何を伝えようとしているのかまでは分からない。
なぜ私に伝えようとしているのか、なぜあの夢を見たのか――。
「あれ、百合ちゃん? そんなところで突っ立ってどうしたの?」
「わっ!?」
深く考え込んでいたせいか、こんなに近くに来ていた夏芽さんに気が付かなかった。
またもや落ちそうになる私を、夏芽さんが驚きながらも慌てて抱きとめてくれる。
夏芽さんの体は、温かくもひんやりと冷たかった。
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