第2話 夏芽という神様
生暖かい風が頬を撫でる感覚が擽ったくて、私の意識はだんだんと浮上した。
意識がはっきりしてくると、高いような低いような声の持ち主に、名前を呼ばれている気がしてくる。
誰も来ないと高を括って賽銭箱の前で眠っていたのだが、もしや管理者や参拝者が神社に訪れてきたのだろうか。
怒られる、直感的にそう思った私は、恐る恐る目を開けてあたりを見渡した。
しかし、周りに人の姿は見当たらない。
相変わらず木々が立ち並んでいるだけだ。
風が人の声に聞こえたのかもしれない。
誰もいない事実に安堵した私は、もう一度睡魔が襲ってくるのを感じた。
もう少しだけ寝て帰ろう。
そう思いながら目を閉じようとした、その時。
「あ、ちょっと……、もう夕方だし夏とはいえ風邪ひくよー? でもまあ、見たところ長袖だし大丈夫そうだけど」
「…………うわあ?」
「おお、起きたね。そしてなんで疑問形?」
さっき目を開けたときにはいなかったはずの、金色の髪を上で一つに結い、巫女服のようなものを着て翠眼を輝かせる綺麗な女の人が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
人間離れした程に整った顔立ちに思わず見惚れていれば、その人はすかさず容姿に合わなさすぎるズッコケる真似をする。
そしてその美しさ溢れる容姿から発せられた声色は、私の名前を呼んでいた声に酷似していた。
この人が私を呼んでいたのか。
だが、私たちは今初対面であり、自己紹介などしていない。
ならば、なぜこの女性は私の名前を知っているのだろう。
「それは私が君の内面を見たからだよ。白井百合ちゃん」
語尾にハートマークでも付きそうな声色に、背筋がゾクリと寒くなった。
きっと今の発言も、私の内面を見て答えをくれたのだろう。
とても人間業ではなせないことに、彼女を見る目に不信感がこもる。
その翠眼は私を映し、楽しそうに弧を描いた。
瞬間、私の中で危険信号が鳴り響いた。
私は慌てて荷物を抱え、階段から立ち上がり、謎の女性から距離をとる。
「えっと、あー! 私は用があったのでこれで失礼しま」
「いやいやまだ帰すのは無理だよ。百合ちゃんには今からいくつか質問するからね」
「いやそういうの結構です……」
「だぁいじょぶ、だいじょぶ。本当にちょっとだけだからさ」
顔に笑みを貼り付け、馬鹿力で腕を掴んで離さない女性に、元々押しに弱い私はついに折れてしまった。
本当に自分のこういうところを直したい。
ため息をつきながら、もし何か紙にサインをなんて言われたら逃げようと決意した。
「えーっと、じゃあまず一つ目。どうやってここに入ったの?」
「どうやって……? と言われましても、普通に階段を登ってとしか」
「普通に、ね。なるほど。じゃあ二つ目。さっきからずっと気になっていたのだけれど、何で夏に長袖を着ているの? 人間からしたら夏は暑いでしょう」
「っ……と、それは」
一つ目はよくわからない質問だったが、二つ目は最もな質問だった。
というかこの女性、今さらっと「人間からしたら」と自分は人間ではない発言をした。
人の子に自分は人間ではない何かだと気づいてほしいタイプなのだろうか。
疑問に思いながら、素直に質問に答えるべく口を開く。
「クラスの目立ってる子に、日焼けしたくないけど一人だけ長袖は嫌だから、みんな長袖ねって言われて断れなかったんです。だからまあ、何というか……自業自得と言いますか。もし断って、裏で悪口とか言われたらとか考えたら怖くなっちゃって」
不思議な女の人は、静かに黙って私の話を聞いてくれていた。
彼女の目が優しい翠色だからか、もしくはその視線が柔らかいからか、まとまっていない話を最後まで話すことができた。
心に秘めていた思いを人に打ち明けることができたことにより、この神社に入る前とは打って変わってスッキリと晴れ晴れした気分だ。
サワサワと木々が揺れる音がする。
女の人は、少し黙って考えたあと、ふんわりと口角を上げてこれまた優しく言い放った。
「人間はそういうものだよ。百合ちゃんは怖いと思うものから自分を守ったんだ。いいんだよ、別に。それも生き残る一つの手だ。……でもそうだね、百合ちゃんが納得してないのなら、その長袖はやめたほうがいいと思う」
「っでもそれじゃ……」
「私個人の意見だよ。結局は君次第だし。まあ、私なら周りを巻き込むなってその子に直接言うだろうけれど」
私が苦手とすることを、この女の人も簡単にやってのけるようだ。
自分で考えて、自分で行動する。
もしその行動がおかしくて周りに笑われたら。
間違っていて責められたら。
私はその言葉が頭に並ぶと、縮こまって何もできなくなってしまうのだった。
――ふと、俯き気味に考え込み始めた私をそばで黙って見つめてくれる女の人に、妙な懐かしさを感じた。
いや、今日初めて会ったのだから、懐かしさなんて感じるはずがない。
気のせいだと自分に言い聞かし、再び思考に戻ろうとした。
「さ、今日のところはもう帰りなよ。そろそろ暗くなる頃だし」
しかしそれは女性の言葉で遮られ、元々帰りたいと望んでいた私は素直に首肯した。
最初に登ってきた石段の方へ歩み、そして足を止める。
その行動に、あの女性が首を傾げているのが目に浮かんだ。
「あの、またここに来てもいいですか?」
「もちろん。百合ちゃんなら大歓迎だよ」
不安そうにきいた私を安心させるようにして、ふんわりと微笑みながら答えてくれた。
プラスな返事に胸をなでおろし、再び階段の方に向き直ろうとしたが、もう一つ聞きたいことを思い出して視線を女の人に移した。
普通、こんなことをきくべきではないと分かっているのだが、気になって夜しか眠れなくなりそうなのだ。
間違っていたら本当に申し訳ないと思いながらも、私は小さく口を開いた。
「あの、もしかしてなんですけど。あなたはこの神社に祀られている神様、とかなんでしょうか」
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