12/10 土曜出勤【あつくて】

 八時五分ぴったり。彼女――真木さんはビルのエレベーターホールに現われる。

 いつも低めの音のしないパンプスと白っぽいコート、長い巻いた髪。寒がりなのかマフラーまで巻いた彼女を、僕は遠目でもすぐに見つけられる。

 僕たちのオフィスは同じ六階にあるけど、北と南の区画で行き来はない。僕は仕事で社外に出ることがあっても彼女はほとんど内勤のようで、平日にどこかでばったり会うなんて偶然は起こらない。

 だから朝、同じエレベーターに乗ることは彼女に会う唯一の方法。それは今でもあまり変わらない。

「真木さん、おはようございます」

「お、おはようございます杏野さん」

 またどもる。

 地味に毎度傷ついてるけど、そんな顔はしない。自分のできる一番穏やかな笑顔を向ける。顔芸には定評があるし、彼女はあからさまにホッとした顔になる。

「今朝は寒いですね」

「そうですね」

 ――あの停電の日から、僕たちはつかず離れずの距離をとっている。

 腰の砕けた彼女をホテルに連れ込んだことは事実で、なんなら翌昼まで一緒に過ごしたけど、残念なことに「なし崩し」にはならなかった。告白は本気にしてないのかもしれない。

「明日は雪だそうですよ」

「そう、ですか」

 二度、食事に誘ったけどどちらも断わられてしまえば、打つ手はなかった。僕は別に無理やりが趣味な訳ではない。だから、あの日は吊り橋効果的なアレに任せ過ぎたんだと反省してる。もっと時間を掛けるべきだったと会う度に後悔してる。

 それでも週に三回は彼女と同じエレベーターに乗らずにいられない、声を掛けずにいられないのだから――ぞっこんてやつだ。

 エレベーターが来る。知り合い特権で一緒に乗り込んで隣をキープする。落ち着かなげに髪を直す彼女を見下ろして、僕は少し緊張して六階まで待つ。

 約二分半の逢瀬。



 ◇



 土曜出勤は嫌いじゃない。

 土日はリモートで仕事する人が多く、オフィスは大体がらんとしてる。カフェスペースも充実していて、良くも悪くもずっと籠もってられる。

 朝から来た甲斐があって残務はなくなった。午後が暇になる。

 ――本当は昨日の朝、真木さんを誘おうと思っていた。直接の誘いなら断わられない気がして、六階に着いた瞬間に呼び止めた。でも、戸惑ったような彼女の顔に怖じ気づいた。結局「何でもないです」と笑うのが精一杯だった。

 日に日に弱気になっていく自覚に嫌気が差す。

 あーぁ、と誰もいないのをいいことに革張りのソファに横になる。ここは真木さんが座った瞬間から僕のお気に入りだ。

 雪が降る予報は嘘ではないようで、空は曇天。ブラインドを半分だけ上げた四角の視界が、あの日の夜を思い出させる。

 稲光が差して一瞬見えた、彼女の心細げな表情。

 あのときは紳士を貫こうと思ってたのに。

「くっそー、なんで最後まで我慢できなかった」

 ……でも真木さん可愛かった。

 このループから抜け出せず、僕は彼女を諦められない。

 ソファでひとり悶えて、やっぱり直接誘うのは無理だと結論が着いた。そして、はっきりと引導を渡してもらおうと。新年まで持ち越したくはなかった。

 >今日、午後から会いませんか

 何度か逡巡して送った。すぐに既読はつかない。でも急な誘いだ、断わりやすいだろう。

 僕はひと仕事終えた心地になり、スマホを握りしめたまま伸びをした。

『予定がある』と返ってきたら『もう誘いません』と返そう。恐らく当たって砕けるだろう――そうなったらどこかで昼から飲んで遊ぶのもいいかもしれない。

 立ち上がり、コートを羽織った。

 こうなったらヤケだ、と爛れた週末を過ごすことに決める。ただ、自分がどこかのバーで肩を抱く相手の顔がどうしても真木さんにしかならなくて、僕は唸った。とりあえずは酒を飲もう、それで色々やらかして忘れよう。


 オフィスを閉めて、いつも通り階段で降りようと思ったのをやめた。最後にひとりで思い出に浸るのも惨めったらしくていい、と馬鹿なことを考えたからだ。

 そうだ、月曜からは彼女に合わせて出勤するのもやめよう。うちは変則勤務でもいいいいんだ、もっとゆっくり起きれるじゃないか。

 ホールを隔てる自動ドアが見えてきて、僕は社員証を用意した。そしてガラスの向こう、エレベーターを待つ女性の後ろ姿にハッと脚が止まった。



(了)


 ──────────────────────

 羊のフリに定評のある杏野。


『あつくて、とける』

https://novelup.plus/story/646131170

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