三葉先生と猫たちの数あそび

はーこ

第0話 バッドエンド

 ヒトであり、ケモノ。

 生命いのちことわりからはずれてしまった者。

『彼ら』に愛されてしまったが最後、ヒトの世界には、二度と戻れない。



  *  *  *



「おれはレイ。キライなモノは雨」


 あかい紅い、夕暮れどきのことです。

 プールサイドには、わたしと、もうひとり。

 肌寒い風に夜のような黒髪をなびかせた少年が、うずくまるわたしに向かって、淡々と告げました。


「スキなモノは……」


「もうやめてッ!」


 悲鳴のようなわたしの拒否を受けて、スッと閉じられる薄い唇。でもそれも、ひとときのこと。


「アナタがきいたんです。おれは誰なのかと。アナタは、それを知っているのに」


 鮮烈な夕焼けを背に、少年が一歩。


「やだっ……来ないでッ!」


 二歩、三歩、四歩。


 少年が歩むたび、嫌な汗がこめかみをつたい、視界がにじんでしまいます。


「おねがい、来な……っ」


 恐怖に凍える自分を、大きく裂けたブラウスごと、苦しいほどに抱きしめます。


「痛みに恐怖し、死をいとう。ヒトは、ことごとく無知だ。死とは、未知への恐怖です」


 とうとう、少年の影に捕まってしまいました。

 しゃがみ込む、きぬずれの音。


 こわごわと見上げ、びくりと肩が跳ねます。

 蒼と金。右と左で色のちがう虹彩が、真っ赤な逆光のなか、爛々らんらんと輝いていたからです。


「未知を教えましょう。そうすれば、アナタの涙も、止まるはずです」


「……厶リ、です……死んだ人間は、笑わないわ……笑えない、のよ……!」


「不適です」


 やっとの思いで絞り出した言葉は、一蹴されます。

 まるで、ゴミ箱に捨てられるように。


「おれが教えるのは未知であって、死そのものではありません」


「どういう、こと……?」


「さて、それを説明する時間があるかな。もう限界でしょ?」


「うっ、くぁ……!」


 ぐらつく意識。

 なんとか保っていましたが、少年の言うとおり、限界のようです。


「い、たいッ……!」


 当然です。横腹を裂かれて平然としている人間なんて、いるはずがありません。

 はっ、はっ、と虫の息をくり返すわたしを、ふいに伸びてきたしなかやな腕が、仰向かせ。


 ――ちりん。


 どこからか澄んだ音がひびいて、謎の浮遊感がありました。

 少年に抱きあげられたのだと理解するのに、何十秒を浪費したことでしょう。


(……鈴の、おと)


 鈴はブレスレットのように、少年の右手首から提がっていました。


「じっとしててね」


 酷くやさしい声でした。

 わたしを横抱きにした少年は、ワイシャツが血に染まるのも気にとめずに、踏み出すのです。


(もう……ダメね)


 血を流しすぎたようです。

 いまから救急車を呼んだところで、到着する七分のあいだに、わたしは事切れてしまうでしょう。


 ……冴えない人生でした。

 ひっそりと息を続けて、けれどもそれなりに満たされていたのに。

 平凡なわたしの二十四年は、七つも年下の少年によって、あっけなく幕を下ろすのです。


 ちりん、ちりん。


 鈴の音が、ひびいています。


「おれはレイ。キライなモノは雨。スキなモノは、なんだと思います?」


 ……なんだか、まぶたが重くなってきたわ。

 はやく眠りにつきたくて、わたしは問い返すのです。


「それは、もの……? それとも、ひと、でしょうか」


「ヒト、です。猫がダイスキな女の子。薄汚い野良猫を拾って、お風呂に入れちゃうような、ね」


 ――ちりん。


 鈴の音が止まりました。少年が歩みを止めたのです。


「水はだいっきらいだけど……ふぅちゃんとなら、イヤじゃなかった。いまも、そう」


 わたしにできるのは、ぼんやりとした意識のまま、身をゆだねることだけ。


「スキ。もう、離れないから……」


 少年は、女のわたしから見ても綺麗な顔を、おもむろに近づけます。

 そうして形のいい唇で、わたしの下唇を、そっとむのです。


「ずっといっしょだよ――ふぅちゃん」


 それが少年の、最後の言葉でした。


 ひっくり返る天地。

 パシャン、と水面に叩きつけられる感触のあと、身体が沈んでゆく感覚。

 つんと鼻にくる、次亜塩素酸ナトリウムのにおい。

 細かな水の泡が、わたしを、わたしたちを包み込みます。


 不快な思いは一瞬だけでした。

 抱きしめられて、なんだか無性に、安心してしまったのです。


 イタミも、クルシミも、なにもわからない。

 だれにもジャマされず、ただただ、しずんでゆく。

 ふかく、ふかく、ふたりだけで。

 

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