第一話 朝日奈 日向という者は

一九〇〇年 四月。



中部州愛知国の首都名古屋。



桜の蕾が咲くのを待っているように膨れ、 すぐそこまで来ている春を向かい入れるために、土の中に閉じこもっていた虫たちが少しずつ動きはじめている。




阿修羅斬あしゅらぎり!」


 朝日奈道場に明るい声が響く。


「ぐへっ!」


 目にとらえることができないほどの速さに、小柄な姿態からは想像のつかない威力で繰り出された一振り。

 その一撃に、大柄な男は呻きとともに吹き飛ばされた。


 攻撃を繰り出した少年は、竹刀を軽く振り直し、姿勢を整えると、自信満々な笑みで審判を見る。

 耳下で切りそろえられたやわらかい黒髪がふわっとゆれて、丸い目が細められた。




「……勝者、朝日奈日向あさひなひなた!」

 日向専用の黒色の旗を上げる審判。


「やったー! これで全勝! この道場でぼくが一番だ」


 日向がニッと頬を上げると、両目尻のホクロのような菊のあざが一緒に上がる。


 よわい一四の少年にしては、どこか幼く、小柄で、髪が短くなければ、そのあどけなさを残す顔は少女と間違われてもおかしくない。


 健康的な肌に、黒い二重の丸い瞳は好奇心に満ちている。


 同じ年頃の少年と並んでも頭一つ低い身長に、筋肉のつきにくい柔らかい体からは、日向から繰り出される人外的な動きと威力を全く予想させない。


 前重ねの上着を直し、下衣を整える。左腰に常にさしている黒い刀をなでて、そこにあることを確認する。



「これなら、来週の受験も余裕だ!」


 そのとき、背後の大きな影が、身長の低い日向を覆う。


 ガツンッ 


「いてっ!」


 頭を殴られた日向が、涙目で見上げる先には、長身の初老の男が立っている。


「いちいち技名を叫ぶな」


 日向の師であり、恩人である、朝日奈慶次あさひなけいじだった。



「三日かけて考えました」

 姿勢を正して堂々と胸を張る日向に、慶次は小さくため息をこぼす。




「お前は、確かに強くなった」


 頭に手を置かれ、日向はきょとんと、慶次を見上げた。


「しかし、忘れるな。お前は血を流さず、勝たなくてはならぬ」

 慶次の眼は真剣だった。



「いつか、己の血を恐れることなく背中を任せられる仲間ができると良いな」


 日向は小さくうなずくと、首に巻いている渦巻き模様の布をそっとなでた。





 慶次は、道場にいる三〇〇人に向かって言葉を放った。


「三日前、大阪国は『天下統一』を宣した。そして、それ以来、大阪国の『死獅しし』がこの首都名古屋にまで現れるようになった」




 日向は唾を飲み込んだ。


「仲間を守り、生き残る己になれ!」



「「「はい!」」」


 道場に張り詰めた声が何重にも響いた。






「「「ありがとうございました!」」」


 修行を終え、道場から出ると、門の前に一人の青年が立っていた。




「あ! つかさ!」


 日向は一目散に司と呼んだ青年にかけよる。



 灰色の前髪を前分けにした長身の青年は、神守司かみもりつかさ

 朝日奈道場のとなりにある、朝日奈医院で医学を学んでいる。

 名が同じなのは、日向の師である慶次の妻、蘭が運営しているからだ。


 片手に医学書を抱え、軽く手を上げる司。


「日向、お疲れさま」


 黒髪の多い愛知国には珍しい、灰色の髪に瞳をもつ司は、日向の一つ上の十五歳だ。


 日向が九歳の頃に引っ越してきて、なにかと日向の世話をやく司は、日向と兄弟のように育った幼馴染だ。




「司、珍しいね、道場までくるなんて」


 首をかしげて司を見上げる。


 ニヤリと笑う司は、日向の顔の前に薄緑色の紙をかかげた。




「きてたよ、受験票」


「おおおお! これで愛知国の平和を守る『名隊』に入れる!」




 『名隊』とは、『名古屋直属戦闘部隊』の略称で、中部州の州都、愛知国の中核を守る戦闘部隊だ。


 司のもってきた受験票には日向の名前と一週間後の受験日程が書かれていた。




「まだ入れるって決まったわけじゃないだろ、『名隊』は中部州のほぼ全ての男が受けるんだから。その中で、名隊に入れるの100人だけだし」


「若葉色のかっこいい秋桜の羽織を着るんだー!」


「聞けよ」


「大丈夫! ぼく強いから」




 受験票をもって、ニカッと笑う日向に、小さなため息とともに、


「はいはい」


 といつものように笑う司の眼は、どこか不安げだった。




 司はチラッと日向の首元を見る。


 日向の首には、渦巻文様が均一に並んだ細い布が一巻きしてある。その布は日向の両手首と両足首にもそれぞれついている。


「日向、ちょっと御守り見せて」


「ん? はい」


 あごを上げて、日向は喉元を司にさらす。


 司は少しかがんで、日向の首元の布に触れる。




 本来ならば、喉ぼとけがあるはずの白い首にはなんの凹凸もなく、黒地に赤い渦巻文様が描かれた布が少し汗に濡れている。




「ん、ふふっ くすぐったい」


 触れていた喉が震え、聞こえる声は、聞き心地の良い高い声だ。


 身じろぐ日向にかまわず、布を撫でながら、日向を抱え込むように、背中側で複雑に結んだ結び目を見る。




「前に変えたの半年前だよね。そろそろ御守りの効果が薄まってきたから、変えた方がいい」


「たしかに、最近ちょっと手加減できなくなってたから、助かる」


「防水効果も薄れてるし……効果が薄まる前に教えてくれよ」


 日向の首に巻かれているのは、司の作る御守りだ。機能が働いている時は、汗を吸い込むこともないのだが、いまはただの布のように日向の汗や匂いを吸い取ってしまっている。




「ごめんなさーい」


「反省してないだろ」


「だって、どうせ司が気づいてくれるでしょ?」


 悪びれもなく笑う日向に、司は思いっきりため息をつく。




「これから、もし『名隊』に入ったら、いまみたいに毎日会えるか分からないんだ。おれがすぐに気づけるかわからないんだぞ」


 首元から上へ、日向の頬を伝って、丸い黒い瞳の目尻に手を添える。




「そっか……」


 神妙な顔で眉根を寄せる日向の顔を引っ張る。


「顔の力抜いて」


 日向がふーっと息を吐きながら、ゆっくり目をつぶる。




 なんの警戒もないその姿に、どこか嬉しいような悲しいような気分になりながら、日向の両目尻にある菊模様のあざを見る。




「ちょっと、あざが広がってるね」


 いつもはホクロのような米粒の半分程度の大きさなのに、とつぶやきながら考える司は、日向の目じりにある、小指の爪ほどの大きなあざを親指で撫でる。

本日、何度目か分からないため息をついた。




「最近、血の出る怪我はしてない?」


「うん、大丈夫、それには気をつけてるから」


 パチッと目を開けて答える日向から、急いで顔をはなし、最後に手首の布を確認する。




「明日、新しい御守りもってくるから、くれぐれも勝手に御守りを外したり、血を出したりするなよ」


 念を押す司に、日向はコクコクとうなずく。


 ふーっとため息ともつかない息をはいた司は、道場の横にある大きな木造の家に向かって歩き出した。




「日向が『名隊めいたい』に入るの、不安でしかない」


「失敬な! 今日、朝日奈道場で一番強い男になったんだよ!」


 力こぶをつくる日向の腕には、すらりと綺麗な筋肉がついている。




 大男を吹き飛ばすほどの腕力があるようには見えないその腕に、想像のつかない力があることを司は知っている。




 『名隊』の実力がどれほどかは知らないが、日向なら入ることが可能だと、司は微塵も疑わない。それほどまでに、日向の実力は規格外なのだ。


「女だろ、日向は」


 でも、どれだけ力をもっていても、日向は女なのだ。




「うん、まあね」


 すんなりとうなずく日向は、空を茜色にする夕日を眺めた。


「いいのか? このまま『名隊』に入ったら、もう女性として生きるのは難しいぞ」


 司は、夕日を見つめる横顔を見つめた。




 あどけない中にも、時折り見せる儚げな表情、そう、いまみたいな顔に、心臓が握られるような苦しくなるほどの可憐さをもっている日向。




「いまさらだよ、こんな時代に生まれちゃったんだ、生きるって選択肢があるなら、なににでもすがりつくよ」


 淡々と冷静に話す日向の言葉に、司はうなずく。




「いつ、殺されるかわからないからね、ぼくが生き残るための手段はいくらでもあったほうがいい。女性として医療を学ぶより、男性として武を極めた方が生存率は上がるし、そっちのほうが、ぼくには合ってるんだ。だって――」




 日向は微笑んで司を見た。




「そっちのほうが、最後の最期まであがけるでしょ」




 その笑みは、ゾッとするほど綺麗で、人間の『生』を嫌でも感じさせた。






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