【菊と日向】 ー男装孤児は生きるために飼われるー

てとらきいな

第一章 一新紀元 日向の出会い編

第〇話  虎が雨


  一八九五年 四月。




 月の影すら見えない重たい曇天の夜。


 桜のつぼみを切り落とすかのような鋭い雨が、中部州愛知国に降り注ぐ。




「『死獅しし』だ!」


「あっちだ、捕まえろ!」




 ハァッ ハァッ 


 水たまりを踏みつけて、大きな影から逃れるためにひたすら街中を走る小さな影。


 少年のような出で立ちの濡れた黒い髪。

 その毛先は、紅い血でかたまり、束をつくっている。


 身体中が熱い、痛い、紅い。


 強い雨でも流しきれない紅をまとった少女は体を引きずって、夕刻の暗闇が支配する路地裏に身をひそめ、追跡者たちが離れるのを待った。


「見つけ次第、殺せ!」

「あの悪魔を!」


 遠のく足音に、震える肩を抱きしめて、追跡者と反対側に歩く。

 肩の位置で無造作に切られた髪が、冷たい雨をとめどなく流す。


 身体中が痛い、熱い……。


 数分前のことを思い出す。


 ―― ぼんやりと霧の中にいるような感覚が解け、意識が戻った時、

    目の前は真っ赤な血が雨によって広がっていた。

    自分の右手には真っ赤に染まった刀が握られていた。――



 なんで、なんでわたしが……


 まだ九歳にもならない少女は、その身の丈に合わない刀を左腰に下げている。

 黒い鞘に納まった刀は闇の中でもあでやかな艶を輝かせていた。


 意識が、もうろうとしてくる。

 数刻前のことすら……これ以上、思い出せない。


「あ、あれ?」


 震える足に力が入らなくなってきた。


 なにも、思い出せない。

 意識は遠のき、体を動かすのは、本能だけだった。


「わたしは……だれ?」


 限界だった。


 薄くなる視界の中、何かが見えた。


 人のような、あたたかい光をもつ何か。



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