第13話『本当に面倒くさい人』後編
気まずい雰囲気の中、アデルバートが目を細め、睨むようにキャロルを見つめる。それに対し、キャロルはかろうじて微笑みを保ち続けたが、そろそろ限界が近かった。
ライリーが部屋を出てからどれくらい経っただろうか。実際にはさほど時間は経っていないのだろうけれど、キャロルにとっては一時間くらい経っているかのように感じた。
黙っているのに耐えきれず、とうとうキャロルは口を開いた。
「あの……アデルバート殿下」
「なんだ」
先ほどよりも低い声だった。
明らかに不機嫌な声にキャロルは戸惑う。そこまで彼の機嫌を損ねるようなことをした覚えはない。
「先ほどおっしゃっていた、ジェシカという方は……」
「私の妻だ」
そう言ったあと、アデルバートはニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「姫は我が国のことを学ばなければならないし、王族のしきたりも覚えてもらわなくてはならない。その教師役として王太子妃である私の妻が指導に当たることになった」
「そうでしたか」
まさか王太子妃直々に教えてもらえるとは思わなかった。アデルバートはともかく、彼の妻であるジェシカとはそれなりに上手く付き合う必要がありそうだ。
「あなたには我が愚弟の妃として、しっかりしてもらわなくてはならない。あんなでも、あれはこの国の英雄だ。その妻となるのだから、母国のように誰も彼も優しくしてもらえるとは思わぬことだ。己の不運さを理由に逃げることは許さない」
「それはもちろん、承知しております」
真面目な顔で頷きながら、キャロルの中は不満でいっぱいだった。
キャロルに対する言葉は別にいい。その通りだと思うし、釘を刺されることも想定内だ。
ただひとつ、許せないのは。
「アデルバート殿下」
「なんだ」
「ライリー様は立派な方です」
キッパリと言ったキャロルをアデルバートは怪訝そうに見つめる。
ニコリと微笑みながら、キャロルは臨戦態勢に入った。
キャロルはアルフィほどではないけれど、負けず嫌いなのだ。それに、自分の夫となる人のことをバカにされるのは我慢ならなかった。それが実の兄であるのならなおさらだ。
「先ほどから『愚弟』ですとか、『あれ』ですとかおっしゃっておりますけれど、あなたの弟君には『ライリー』という素敵なお名前があることはご存じですか?」
「……なにが言いたい」
「素敵なお名前があるのですから、きちんと名を呼ぶべきです。それに、ライリー様は普段からとてもお優しく、快活なとても素敵なお方です。『英雄』と民に呼ばれるに相応しい方です。……もっともそれは、兄君であるアデルバート殿下もよくご存じのはずですけれど」
兄のくせにそんなこともご存じではないのかしら? という嫌味を込めて言うと、アデルバートの眉がピクリと動いた。
「それはあなたの主観であり、私の考えとは異なるということだ」
「まあ、そうなのですか? 他国にまで響く数々の武勇伝をお持ちの方ですのに、殿下のお考えは違うのですね」
「……」
アデルバートは眉間の皺をさらに深め、明らかにキャロルをギロリと睨んだ。
その様子に気分が良くなり、キャロルはさらに笑みを深めた。
「殿下はご存じではないようですので、わたしの知るライリー様のお話をさせていただきますね。ライリー様はとてもチェスがお強いです」
「当たり前だろう。私が鍛えてやったのだから」
「それに、愛馬のビリーととても仲良しです」
「あれは私が弟の誕生日に与えた名馬だ。弟に合うような気性の馬を選んだのだから当然だ」
すかさず答えるアデルバートの言葉に、キャロルは内心首を傾げた。
なぜだろうか。言っていることは自身の自慢のようなのに、なぜかマウントを取られている気がする。
「……ライリー様はとても気遣いの上手な方です。わたしの不運さにもきちんと対策を考えてくださいました」
「あれは昔からそういうやつだった。自分のことよりも他人のことを優先する、どうしようもないやつだ」
「……」
フンと鼻で笑うアデルバートに、ますますキャロルは戸惑った。
黙ってしまったキャロルを見て、アデルバートは小バカにしたような顔をする。
「なんだ、もう終わりか? あなたの知る愚弟のことというのは?」
「ラ、ライリー様は……とてもお強い方です」
言葉に詰まってしまったことが悔しい。
それが伝わったらしく、アデルバートはニヤリと笑う。
「そんなもの、我が国の民ならば誰でも知っていることだ。我が弟は誰よりも強い。剣の腕前や力だけではなく、その心も」
そう言ってアデルバートはドヤ顔をしたが、すぐに「しまった」というように顔を顰めた。
その反応でキャロルは確信した。
──この方は、ライリーを嫌ってなどいない。
「アデルバート殿下はそれほどライリー様をご存じですのに、なぜそれを隠すのですか?」
「別に隠してなど……」
「──バートはね、照れ屋さんですのよ」
突然響いた知らない声にキャロルは驚く。
ゆっくりと歩きながらやって来たのは、鮮やかな赤い髪が印象に残る、艶やかな美女だった。
「ジェシー……私は照れてなどいないぞ」
「あら、そうだったかしら?」
うふふ、と妖艶に笑う彼女はキャロルを見ると、にこりと笑う。
その笑った顔になんとなく既視感があった。
「はじめまして、キャロル様。わたくし、ジェシカと申します。以後お見知り置きを」
「はじめまして、ジェシカ様。お会いできてとても嬉しいです」
ジェシカはアデルバートよりも付き合いやすそうだと、キャロルはほっとする。
とはいえ、まだ出会ったばかりだ。裏表があるのも貴族社会ではよくあることである。油断はならない。
「わたくしもキャロル様とお会いできるのを楽しみにしておりましたのよ。なにしろ、あのライリーが選んだお方ですもの。きっと素敵な方なのだろうと思っておりましたけれど……ライリーったら、意外と面食いなのね」
くすくす笑うジェシカにキャロルは戸惑う。
「ライリーはわたくしの従弟になりますの。ほら、瞳の色がそっくりでしょう?」
言われてみれば、確かにジェシカの瞳の色はライリーと同じ榛色だ。
それに、笑ったときの雰囲気もなんとなくライリーに似ていて、既視感を覚える。
アデルバートの隣に座ったジェシカは、ニコニコと笑いながら、気さくに話しかけてくる。
「わたくしが来るまでの間、バートに虐められていませんでしたか?」
「いえ、そのようなことはまったく……」
「ならいいのですけれど。バートはすごい照れ屋さんなうえに口が悪いから、キャロル様を怒らせないかしらと心配でしたの」
「ジェシー……」
アデルバートがジェシカを怖い顔で睨んでも、彼女は相変わらずニコニコしている。心臓の強い方だな、とキャロルは感心した。
「──そうそう。先ほどの話だけれど、バートがライリーに対して厳しいことばかり言うのは、バートなりの愛情表現ですのよ」
「愛情……表現……?」
首を傾げたキャロルにジェシカは頷く。
「バートはライリーが大好きで堪りませんの。でも、その表現の仕方がとても下手で……」
「ジェシー!」
初めてアデルバートが声を荒らげた。
キャロルが目を丸くしている中、ジェシカは「あら、怒らせちゃった」と大して気にしている様子はない。
ゴホンとアデルバートは咳払いをし、真顔でキャロルを見つめたが、その瞳からは先ほどまで感じた冷たさが消えていた。
「……ジェシーの言っていることは話半分と思って聞いてほしい」
「あら、わたくし嘘はついていませんわ」
「ジェシーは黙っていてくれ」
アデルバートは妻に随分振り回されているらしい。
その姿がなんとなく微笑ましく、勝手に親近感を覚えた。
「アデルバート殿下、あなたがどのようなつもりでライリー様に対して接しておられるのかはわたしにはわかりませんけれど、ライリー様はあなたが自分を嫌っていると思っておられることはご存じでしょうか?」
「……」
アデルバートは表情を変えなかった。
つまりわかっていてなお、その態度を貫いているのだ。
「お二人にどのような事情があるのか、わたしには想像することもできません。けれど、尊敬している兄に嫌われていると思い込んでいるライリー様のお気持ちも、少しは考えていただけないでしょうか?」
真剣な顔で言ったキャロルに対し、なぜかアデルバートはぽかんとした顔をした。
「……なんだと?」
低い声で聞き返したアデルバートにキャロルはもう一度、答える。
「ですから、ライリー様のお気持ちを……」
「そこではない。その前に言った言葉だ」
「え? ええっと……『嫌われていると思い込んでいる』?」
「その前だ」
アデルバートはなにが言いたいのだろうか。
キャロルは戸惑いながら、言う。
「……『尊敬している兄』のことでしょうか?」
「そう、それだ。あれが私を尊敬しているだと? そんなことがあるわけがない。幼い頃から散々振り回し、困らせてきた私だぞ? 尊敬されることなどしたことは一度もない。嘘をつくな」
(振り回してきた自覚はおありなのね……)
ギロリと睨むアデルバートに、キャロルの笑みは引きつった。
「嘘などついておりません。ライリー様は昔、お兄様からチェスを教えてもらったのだと懐かしそうにお話してくださいました。お兄様はとてもまっすぐな方だと、そんな兄を尊敬しているのだと笑っておっしゃっておられました」
そう言うと、アデルバートは目を見開き、すっと視線を下げて静かな声で「そうか……」と呟いた。
そんなアデルバートの肩にジェシカがそっと手を置き、「よかったですねぇ」と言うと、アデルバートは俯いて小さく頷いた。
彼が泣いているのではないかとキャロルは内心焦ったけれど、顔をあげたアデルバートは今まで通りだった。
「──私は別にライリーのことを嫌っていない」
「はい」
「そう、あいつに伝えてくれても構わない」
「……」
(これって……ライリーに『嫌っていない』と伝えろと暗におっしゃっているのよね……?)
ここでキャロルはようやく思い出した。
ライリーが兄のことを二度も『面倒くさい人』と評していたことを。
「……ご自分でおっしゃった方が良いのではないでしょうか?」
「私が言うほどのことではないだろう。あなたがあれにそう伝えるも伝えないも好きにすればいい。私はあれがどう思っていようが、どう思われようが別に構わないからな」
なんて素直ではないのだろうか。
そんなことを言いながら、あからさまな『伝えろ』というオーラを出している。
困ってジェシカを見ると、彼女はニコニコしていた。彼女は当てにできそうにない。
キャロルはため息を押し殺した。
「……わかりました。きちんとお伝えいたします」
「私はどちらでも構わないと言っているだろう。まあ……あなたがどうしても伝えたいと言うのなら、止めはしないが」
そう言いながら、アデルバートの機嫌が少し良くなった。
──本当に面倒くさい人。
キャロルは心からそう思い、ライリーが念押しして言った意味を心から理解した。
アデルバートの執務室から部屋に戻り、少ししてライリーがやってきた。
心配そうな顔をするライリーにキャロルはニコリと笑いかける。
「お帰りなさいませ」
「ああ……ただいま。それで……兄上とはどうだった?」
不安そうなライリーにキャロルは笑みを保ったまま、ライリーに言った。
「アデルバート殿下との対面は何事もなく終わりました」
「そうか……それは良かった。一緒にいられてなくてすまなかった」
「いいえ、急用だったのでしょう? お気になさらないで。それに、ジェシカ様ともお会いできて良かったです」
そう言うとライリーはほっとした顔をした。
そんなライリーに、キャロルは面倒くさい義理の兄からの伝言を口にした。
「『私は別に嫌っていない』」
「うん?」
唐突なキャロルの台詞にライリーは不思議そうに首を傾げる。
「アデルバート殿下からの伝言です。別に伝えなくてもいいが、どうしても伝えたいのなら伝えてもいいと言われたので」
「兄上が……」
ライリーは戸惑った顔をしたあと、「兄上らしいな」と呟いてくしゃりと笑った。
本当に嬉しそうだったので、キャロルは心の中で再び、ご自分で伝えれば良かったのに、とアデルバートに対し文句を言った。このライリーの表情を見ないのはもったいないと思う。
「……以前、ライリーはわたしがアデルバート殿下とお会いしたらどう思うか楽しみだ、とおっしゃいましたよね?」
「ああ、言ったな。実際にお会いして、キャロルはどう思った?」
そのライリーの問いに、キャロルは綺麗な笑みを浮かべて言い切った。
「『ものすごく面倒くさい人』」
ライリーはキャロルのその解答に笑い転げたのだった。
✩
後日、ジェシカに「アデルバート様と一緒にいて疲れませんか?」と問いかけたところ、彼女はニコニコとしながら言った。
「あら、そんなことはなくってよ。むしろあの面倒くさいところが、彼のとっても可愛いところですのよ」
その解答に、キャロルは心からジェシカを尊敬し、その器の大きさに感銘を受けたのだった。
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