4章5節 涙のRequiem

 クローゼットとベッド。勉強机に本棚二つ。整理整頓は行き届いていて常に清潔に保たれている。快適な空間だとは思うのだが、一般的な男子高生の部屋とはどうも違うらしい。


 遊びに来るような友だちが、私のような人間には一人しかいないのだけれど。


 はたして万洋まひろは上手くいったのだろうか。この言い方は正しくない。結果がどうなるかは、本人が一番よくわかってるはずだ。言葉を変えよう。


 万洋は大丈夫だろうか。連絡しようかと思ったが、一人で向き合うべきものではないだろうか。タブレットを開いたが、連絡はなにも来ていない。義父さんも今夜は帰ってこないし、風呂にでも入って早く寝よう。


 そう思ったけれど、洗面台の前でシャツのボタンに手をかけた辺りでインターホンが反応した音が聞こえる。配達物にしても遅すぎると思うが、念のためモニターに向かうと画面には顔がぐずぐずになった万洋がいた。


「ひでおおおお。ううううう」


 反応に困る話題を振られることも多かったけれど明け透けに話してくれるし、なんでも聞いてくれる。気軽な話も、真面目な話も、一緒にしあった。


 それでも。かつてここまで。万洋が取り乱したことがあったろうか。


「すぐに向かう。しばらくそこで待っててくれ」


 万洋のような明るさはなくとも。義父さんのような機転と忍耐はなくとも。冷静でいることはできる。いいや、それくらいはできなくては。


 焦らずに家を明るくし、ゆっくりと玄関へ向かう。遅いながらも暖房も付けた。万洋を迎える準備はやれるだけやったろう。


 ドアを開けると万洋がすぐ隣にいる。モニターで見た何倍もしんどそうな表情は目に入れるだけでも辛かった。


「夜遅くだけどありがとう、ひで。ひ。ひでお」


「もちろんだ。とりあえず部屋に行こう。お菓子だって、まだ余ってるぞ」


 部屋に入った万洋はついに床に崩れ落ちてしまった。こういう時はなんて声をかければ良いのだろう。クスリとさせられるような一発芸でもやるべきか。そんなことができるような能は私にはないけれど。


 万洋が一海かずみお姉さんへの思いで涙を流す時。私はいつもかける声がなかった。できることすら浮かばない。


 だが、万洋は一歩踏み出したのだ。そうすることが正しいのかは悲嘆に沈む姿を見ても判断できない。


 私も踏み込む勇気を見せるべきだと感じている。万洋一人に辛い思いをさせはしない。


「その袋の中、どれだけ買ってきたんだ」


「失恋のショック対策。もうやけ食いくらいしか思い浮かばなくて」


 小脇に抱えていた大量の食べ物は私でも一人では食べきれないほどの量だった。自棄になって馬鹿みたいなことをするのなら、今夜は徹夜しようとか言い出すかもしれない。


 案の定、万洋はあっという間に食べられなくなって。苦手な甘いものを食べることになってしまった。口が塞がっているので、万洋の話を聞く流れになるが。


 一海お姉さんの恋人の話になれば、万洋の様子がなかなかに凄まじい。


「なにが義兄さんだよ。あの眞理夫まりおって人。金髪で強そうで、ハーフで。姉さんと同じくらい背が高かったんだから」


「そうだな。凄い人だと思う」


「僕がぜんぜん姉さんの好みじゃなかったってことでしょうが」


 やっと落ち着いてきたと思っていたのだけど。さっきまで鬱々としていた万洋が雄弁に語りだし始めた。


「いっつもいつも。側にいてくれてさ。薄着で髪の毛乾かすのを手伝ってくれたり、お世話されてればおっぱいなんかもガンガン当たるんだよ。ちょっとくらいは。そういう目で見られてるのかなって。希望を抱かないのは自由への冒涜だよ」


 小さい頃から病気がちな万洋は家にいられる時間がとても少なかった。姉らしいことを小さい時にしてやれなかったこと。一海お姉さんは相当に抱え込んでいるようで。万洋だけでなく、弟妹に対しての態度が甘いを通り越している時がある。


 万洋だってそういうことはわかっている。だからこそ。言わねばならないこともあるのだ。


「期待してないからそういうことされるんじゃないのか」


 悲鳴とも奇声とも形容しがたい声がまた部屋に響く。考えていることの方向性は同じだけれど。躁的な状態と抑制的な状態が目まぐるしく移り変わっていて、感情を制御できていない。


 恋の病は草津の湯でも治りはしない。という文句は聞いたことがあるのだけれど。薬の力で感情を平坦にして、苦しみを減らすことはできる。


 私がもしも医者だとしたら万洋を少しでも楽にすることができるのだろうか。いいや、できたとして踏み込んでいいのだろうかと悩んでしまう。


「あの後、朝野先輩とも反省会したけど大丈夫かな。僕がこんななんだし、連絡した方がいいかも」


「もう遅いんだ。明日にした方がいい」


 思春期らしい話はわりと最初のうちに済んでしまって。ゆるゆると反省会のような空気になっていく。


 一海さんに万洋は今日は我が家にいると連絡をして。リモコンを使って少しずつ部屋の照明を落としていく。


 かなり騒いだのだし、そろそろ疲れて眠ってくれないだろうか。万洋の身体に夜更かしは本当に毒なのだから。


 今日は一日外出したのだからさすがに疲れているらしい。居間から持ってきたクッションに身を沈めた万洋はうずくまったまましばらく喋らなくなった。


 ようやく眠る気になったのだろう。部屋を暖かくして、もう少し待ってから毛布でもかけておこう。照明をもう一段階暗くしようとリモコンに手を伸ばしたとき、誰に言うでもない万洋の呟きが聞こえてきた。


「僕は。高校生をやるだけで精一杯だったていうのかよ」


 そんなことはない。そんなことはないんだ万洋。お前はいつも誰よりも。


 溶鉄が刺さったような痛みを訴える喉にせき止められた言葉が。目尻から留まることなく流れ出してくる。


 もうできることは一つしか浮かばない。万洋に涙を見られないよう、部屋の電気を落とすことだけだった。今は、自分の苦しみにだけ向き合っていて欲しいのだから。


 私が万洋の親友いちばんだ。


 正解は思いつかない。悲しみを癒す方法もわからない。そんな私こそできることがある。


 共に悩みぬくことだけはできる。どんな苦しみも悩みも引き受けることはできないけれど。けっして独りにはさせないのだから。

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