3章1節 喜びと悲しみと
「先生。いつ車椅子を使っていいようになりますか」
「こういうことには順番があるんだよ。まだ、どこに問題があるのか。時間をかけてみないとわからないことが多いからね。今はゆっくり、身体を休める時なんだ」
起き上がれる時間が少なくなった。このままだと呼吸器がまた外せなくなるころに戻ってしまう。
立てない。歩けない。起き上がれない。健康な子供を目にしたことは少ないけれど。病棟にいる他の患者を観察すれば自分がとびきり虚弱だということはわかった。
ただの病院ではお前を任せられないと言い聞かされていたが、実験動物みたいな扱いが薄いだけ普通の病院の方が居心地がいい。
「大学病院じゃなくて、ただの病院はここが初めてですけど。どの先生も言うことは同じなんですね」
「桃華さんは同い年くらいの子たちに比べて色んなことを考えているね。立派だな」
「ありがとうございます」
お父さまはいい病院を紹介してもらえたから安心だと言っていた。
転院することで誰が安心できるのか。今の出来事でよくわかったように思う。
もう病気の治療だとか健康な生活だとかは課題になっていない。ただ生き延びさせることだけが、私が病院にいる目的になってしまっていた。
私が生きようとしているのに、数倍も頭がいいだろう人間たちは私が死なないことに満足している。
腸が煮えくりかえるほどの怒りは、今も収まっていない。
「小学校はね。最初の一年はランドセルに黄色い覆いを付けないといけないんだよ」
「最初の一年は何色を選んでも同じだったんですね。ちょっと残念です」
数週間前。最後に車椅子に乗った日に、ロビーでランドセルを渡されてはしゃぐ子供に出会った。その時に私の車椅子を操作していたのが、今話しかけてきている看護師だ。
身体の出来が私より多少マシなだけの子供が学校に行ったところで、大したこともできないに決まっている。
退院して学校へ入学すれば幸せへの切符が手に入ったみたいにはしゃぐ親子の姿は滑稽だろうが。
喧しいので場所を変えてもらおうと顔を上げたときに見た表情は忘れない。
自分の無能さに胸を痛めているのか。私へ勝手に感傷を寄せているのか知らないが、何とも言えない情けない顔で私に視線を向けていた。
「大丈夫。ちゃんと来年にはいけるようになってるからね」
あてずっぽうな応援にも黙って。唇を噛んで耐える。快適な生活に必要なのは同情と親しいと思わせることなのだから。
看護師はプロだけど人間だ。当たり散らしてもいいことはない。
「神田さんと離れちゃうのは寂しいから。もう少しだけいたいです」
嘘だ。
医者も看護師も、私も。円滑な入院生活のために嘘をつきあっている。
「八城桃華だな。保井健一、ここでのお前の主治医だ」
そっけない挨拶を済ませて。私に時折目を向けるけど、カルテを楽しそうに眺めるだけ。
子供向けの舐め腐った表現でも、病気の具合や病院での説明くらいはあった。顔だけ通しておくというのもなくはないが。
これだけ病気のことしか考えてないと見せつけられると気味が悪い。
「あの。私はどうなんでしょうか」
「俺はマトモな医者じゃない。だから患者も普通じゃない。お前は俺が見た中でも上から何番目くらいにくらいに面白いんだよ」
「面白いって。初めてなんですけど」
「マトモな医者なら匙を投げる。ロクな病院も事故や訴訟のリスクを回避して受け入れない。お前こそが、俺が院長をしているこの病院が求める患者像だ」
わけがわからなかった。今同じことを聞けば狂っていると思うだろう。
とはいえこの病院は保井が大口叩くだけのことはあった。立って歩ける程度には身体は動くようになり、症状の進行はとてつもなく緩やかになった。
「あそぼ」
「あそぼうって。おもちゃなんて持ってないけど」
前の病院に比べれば、保井の病院は快適だった。
だいたいの入院者は死ぬなり退院するなりしていて、年中いるのは私くらいだった。この小児病棟にはもう一人長期入院しているのがいる。
万洋とかいう同い年の子供だった。
「おしゃべりしようよ」
「座ってないと、また疲れて運んでもらうようになるけど」
「ありがとう」
よく喋りかけてくるそいつは、看護師に隣まで椅子を運ばせておしゃべりを始めた。
話す気分じゃないと伝えたのだけれど、伝わらなかったらしい。家族がしょっちゅう見舞いにきて、子供扱いされると本当に頭が子供になるのだろうか。
調子に乗ってるとすぐ疲れて、椅子に座るしかなくなるのもわからないらしい。
「けっこう疲れたみたいだね。看護師さん呼んでくるから。じゃあ」
「待って」
「私。あなたと遊んだりおしゃべりするつもりないから」
「一人だと寂しくて。寂しいと怖くて頭がぐるぐるしちゃうからもうちょっといて」
「あっそ」
定期的に看護師やら保井は来るが、退屈な時間の方が遥かに長い。
ほとんど毎日家族の誰かが見舞いに来るくせに、いつも泣いている万洋には苦しい時間なのかもしれない。
弱虫につきあうのも面倒になってきたので、いよいよ離れようとした時。ぼそりと万洋が呟いたのが聞こえた。
「桃華ちゃんはすごいね」
「馬鹿にす」
哀れみでもなければご機嫌取りでもない。まっすぐな眼差し。
自分と同じくらい身体が弱くて。精神はもっと幼い。
私の命を繋ぐのにはなんの役に立たない視線が、とても輝いて見えた。
「名前、教えたつもりないんだけど」
「保井先生に教えてもらったんだ」
「ここの項が抜けてる」
「項ってなんだっけ」
「プラスとかマイナスで区切った数字」
「ありがとう、桃華ちゃん」
最近の万洋は家にいる時間の方が多くなって、病院にいる時間が減ってきた。
診察の帰りに私の病室に遊びにくるのは相変わらずだけれど、勉強を教えてあげる時間の方が多くなっている。
万洋の姉の制服を初めて見たとき。憧れはしたが。万洋がリスクを背負ってまで行くべきところだろうか。
「そんなに学校に行きたいの。勉強なんて私が幾らでもつきあってあげるのに」
一瞬、万洋のペンの動きが止まる。図星を突かれたようだったけれど。
「病気で身体が弱いってだけが。僕の全部にしたくないから」
考えもしなかった。あるいは忘れてしまったことに気づかされて、目に映るものの鮮やかさを知った心地がした。
何度も泣くなと言ったのは私なのに。
もっといてと。また遊んでと縋ってきたのは万洋の方だったのに。
自分がもっとも疎むものに、もっとも縛られていたのだと気づかされた。
闘病や入院は長引くほどに、それ以外への想像力を奪っていく。だから、病気から自由になった後のことを忘れてしまっていた。
自分を見失わなかった万洋の素晴らしさ。当たり前のように彼の夢である高校に通う連中にはわかるはずがない。
万洋のそばにいられるのは、同じ痛みを知っている私だけだ。だから、学校に行こうと決めたのだ。
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