2章6節 暗雲立ち昇って

 照明が明るくて、清潔で、柔らかな色合いのまっすぐな廊下を歩く。

 

 病院の廊下に段差や窪みはない。


 自分で走り出したくせに止まらない馬鹿もいない。


 倒れても機械が危機を察知して人員が早急に飛んでくる。


 無機質で退屈だが、安全な空間が下校してから登校するまでの間の私が過ごす場所だ。


 私の病室は廊下の奥から三番目の個室で、寝起きや食事もそこで済ませている。


 ドアを潜ると、主治医である保井≪やすい≫が入っていた。


 クタクタの白衣に身を包み、どこから持ってきたかわからないパイプ椅子に座っている。


「なんの用事」


 コイツは人を治すしか能のない屑だ。


 人の個人的な空間への配慮など、この男には期待できないのだから。腹を立てても時間の無駄だ。


 話だけ聞いて、さっさと追い出そう。


「治療方針について相談があってな」


「マトモな身体にする目途も立てられない癖に、方針なんてあるのかよ。あったとして、私に相談するのは筋違いだろうが」


 治療費入院費その他諸々。必要な金品は父親が出している。


 私の治療に関して決定権があるのは、あの男だが。自分で決めるはずがない。


 医療に関する知識もなければ学ぶ余裕もない。判断のほぼすべてを保井に丸投げしているのだから。


 技術的な問題なら保井はわざわざここまで来ない。言いたいことはおおよそ予想ができた。


「親父さんからは、お前が決めるようにと言われている」


 自分で決めることのできない意志の薄弱な男。今更、どうとも思わない。


 その点においては。伝えるべきことをきっちり伝える保井の方が、相手をして苛立つことは少なかった。


「続けて」

「来月から今のままの治療方針を継続することができなくなる。可能な限りの延命措置を取るか。緩和ケアに移行するか。どちらがいい」


 なるほど。苦しんで寿命を限界まで延ばすか。諦めて楽に死ぬか。どちらか選べと言うことか。


 本人の生死に関わる問題を、なんの遠慮呵責もなく言ってのける。


 無関心な相手ならまだしも、何年もかけて全神経を注いでいるだろう相手にまでできるとは。さすがの私も感心する。


「人を治すしか能のないのがお前だろう。できることは本当にそれだけのつもり。笑わせるんじゃない」


 苦痛。悪寒。動悸。痙攣。不眠。麻痺。昏睡。病難の経験と記憶は心身に刻み込まれている。


 身体全体を蜘蛛の巣のように這う手術痕。一回頓服を忘れれば即座に見舞われる発作。できることの限られる身体。


 ベッドにチューブで縛りつけられて生かされ続けるという選択肢はいつだって最有力の選択肢だった。


 だからこそ、今にしかできないことを失うのが許せない。


「一秒でも長く私を動かせるようにして。私が万洋と過ごせることを可能にするのも、可能だとしてやろうとするのもお前しかいない」


「身体機能や見た目は限界まで保持してやる。だが、動けるかは別問題だ」


「構わない。症状のことは邪魔だけど、辛いと言った記憶なんてないんだけど。万洋≪まひろ≫と一緒にしないで」


 感覚は常に鋭敏過ぎるか麻痺しているかのどちらかだ。


 目を開くこともできないし、息を吸って吐くのも機械任せ。空気が毒のように身体の内外を苛み続けて、全身が炎症を起こしてもさすることさえできない。


 産まれてから、ここに来るまでずっとそうだった。


 苦痛を味わい続けることを、なぜ万洋が辛いと感じるのかが未だにわからない。


 健康であることなんて、私と同じで知らないだろうに。


「そうか。晩飯はいるか。寄り道でもしてきたんだろう」


「箸だけはつけておくから、持ってこさせて」


 メモに数行書き込んだ保井は、端末を使ってどこかへと連絡を送っている。私の夕食もついでに持ってこさせよう。


「わかった。けっこう美味いだろ、ここの一般食は。言っちゃ悪いが学食なんかと比べ」


「食べやすいってだけ。栄養は取らなきゃいけない」


「俺もここで食おうかな。手術明けで疲労困憊なんだ」


 椅子に座ってくつろいでいるのは別としても。うっすらと髭が伸びているし、目の下の隈が尋常じゃなく大きくて黒くなっている。


 自分の体力では保井はどうやっても追い出せないにしても、せめて。


「臭いから。テーブルからは離れて」


 どれ程の手術だったかは知らないが、保井は温かい食事を噛んで呑み込むことに集中している。


 私と同じ、栄養の補給と身体機能の維持の為に行う食事で。こうして過ごすことは珍しいことでもない。


 食事を共にする相手は、コイツと万洋とその家族の何人かだけだった。


 久留巳≪くるみ≫と放課後に甘ったるいドーナッツを食べたことをはじめとして。誰かと食事をすることが随分と増えたことに気づいた。


 別に誰と食べたって味は同じだけれど。


 味を気にしない保井や。そういう話題をするのは避けたい万洋やその家族。だけじゃない。


 不味いと愚痴ることができる相手を得られたことは、有意義だったのかもしれない。

 

 食事が終わり、食器を持って保井は出ていった。


 シャワーも終えて病衣に着替えた後は自由な時間が残る。


 消灯時間はまだ先だけれど、これからの時間はあっという間に過ぎていってしまうだろう。


 タブレットを起動して、通話アプリを開いた。


 目的を達成するだけならメールでもいいのだけれど。お互い、相手の顔と声には可能な限り触れたかった。


 時間より少し早めに接続して、毎回それで通話が始まるのが嬉しかった。


「もしもし。桃華≪ももか≫ちゃん」


「映ってるよ。万洋」


 お互いにいつどうなるかわからないのだから。


 学校に通うようになってから、朝か夜に簡単な連絡をするようにはなっていた。


 安否確認のようなものだったけれど。朝の忙しさや病院の消灯時間の都合で、夜の短い間に今日は良かったねという話をするようになった。


「呉内が特盛二つも目の前で食べたんだよ。あれは凄かったな」


「それ。味なんてわかってるの」


「僕も思ったんだけど、楽しそうに最後まで食べ切ったんだし。それでいいかなって」


「馬鹿みたい」


 万洋は良かったことを探すのが得意だ。クラスの馬鹿どもの無意味な行いも楽しく見えてしまう幸せな脳みそをしている。


 直接見聞きすれば不愉快になったであろうことも、万洋の口から語られれば楽しい学校生活の一部になった。


 笑って茶化せる、愉快な出来事になるのだ。


「桃華ちゃんは、今日は顔色良かったよね。どうだった」


「どうって」


 そんなものは、万洋と一緒にいられるすべての時が良かったに決まっている。


 痛いだの苦しいだの。腹が立つだの悲しいだの。そんなことを理由に二人で過ごす時間の評価は下がりやはしない。


 そばに過ごせるだけでただ嬉しいのはお互い承知の上だけれど。


 そのまま言うのも能がないと思ったから。


「変わったことならあったかな」


「なになに」


「放課後。久留巳と遊んだ」


「ホントに」


 万洋は心底から驚いているけれど。私が抜け駆けのような形で寄り道をしたから興味深々なのだ。


「じゃあ。明日は寄り道しようよ。私、カラオケとか行ってみたいな」


「ゲームセンターとかも覗いてみようよ」


 約束をするまでもなく、希望を語り合える。


 画面を消せば二度と会えなくなるかもしれない私たちには、考えもつかない幸福だった。

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