ゴミ出し

「春日部……涼太さんですよね」


 私は彼の素性に繋がる名前を明示し、接近を試みた。すると、氷漬けにされたかのような固まり具合で「春日部涼太」は、私の顔を凝視する。


「どうして?」


 その疑問は正しい返しだ。通行人を装った赤の他人が出し抜けに名前を口ずさみ、異性間による性的志向を外れた私の関心は、「春日部涼太」からすると嫌悪に近い感情を覚えても不思議ではない。


「私はこういう者です」


 決まりきった挨拶に名刺を渡す様式美は、不躾な事として咀嚼されて突き返される未来すら想定する。だが、今回はまた違った。名刺を粗野に握り込み、路傍の塵芥を見下ろすかのような蔑視が私を捉え、何も言わずに背中を向けたのだ。


「ちょっ、ちょっと」


 受け取っておきながら、私を黙殺する了見に肝を潰された。親が子どもの身勝手な行動を咎めるようにその背中を追う。


「お話を……」


 その体裁を記者に定めて話を授かろうとするものの、「春日部涼太」は私から遠ざかろうと必死だ。焦燥のこもった松葉杖は蹄を想起する音を鳴らし、どこまでも逃げていく事に執心している。無理にこのまま歩調を合わせると二次的被害のきっかけになりかねない。私は足を止め、乱れた身体の動作を物憂げに眺めながら角を曲がる瞬間まで見送った。


 陥没事故をあらます為の取材が次々と頓挫し、歯抜け状態にあると言っていい。だが、陥没事故を導入とした「蓮井廉」の数奇な人生を記事にまとめるなどすれば、それなりに読み応えのある文章が綴れそうだ。しかしそうなると、一人の人物に焦点をあてた伝記物になってしまう。私が初めに陥没事故へ抱いた好奇心から乖離する事になる。やはりここは、「蓮井廉」が凄惨な死を遂げた原因を追及するのが手堅く、これまで通りの平易で凡百な記事を拵えるしかないのか。


 不規則な生活を送る私にとって、朝の決まった時間にゴミを出す事は半ば不可能に近い。なので、帰路を歩いた足の熱を借りて、ゴミ袋を出すのが常であった。今日は一段と膨らんだゴミ袋を両手に抱えて運ぶ。揺り籠だと形容するには少々揺れは激しく、鼻緒が緩んだのも無理からぬ話であった。だからといって目の前の惨状を、通路を汚すゴミ袋の盛大な嘔吐を簡単に許す事はできない。私は顎を上げて夜気に不満を溶かす。


 私は今一度、自身が払ったツケを見下ろした。昨晩食べたコンビニ弁当の容器や日々の生活で排出されるゴミの数々が大手を広げて通路に横臥する光景へ改めて嘆息しつつ、私はゴミ袋の口を持ってそれらを拾い始める。その過程で、身に覚えのない黒い手袋とジャージが目に入る。コーヒーを浴びたかのような黒々とした汚れが全体に見て取れ、私は首を傾げた。一体いつこれほどの汚れを付着させたのか、記憶は定かではないが、洗濯機もろくに回さない為、致し方なくゴミ袋に突っ込んだはずだ。そんな感覚がある、あるはずだ。

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