板挟み
「大丈夫ですか」
立ち上がって尚、どこか上の空の「春日部涼太」へ反芻を促すように同じ言葉を繰り返し、受け答えに不備がないかの確認作業をする。
「ああ、大丈夫です」
鏡の中の伽藍に近付こうとしているかのような手応えのなさに、想像を絶する事故の余波が「春日部涼太」を蝕んでいる事に気付いた。これでは、事故の背景を聞き出そうとすればするほど、悪化の一途を辿り、歪曲した味付けが施された記憶の吐露に信憑性を著しく欠いた記事になりかねない。
「貴方、誰ですか」
藪から棒に私の身分を問うてくる疑問に対して、どこまで誠実にいるべきか。正味、数秒の間隙が、取り返しのつかない沈黙に感じて、拙速に取り繕う。
「いや、落とし物をしていたようなので、声を掛けさせてもらいました」
私はそう言って、偶さか持ち歩いていたポケットティッシュを「春日部涼太」の目の前に出した。
「それを自分が落としたと?」
「えぇ」
今し方、間に合わせた押せば倒れる書割を虚飾と看破され、腹を割って話すに値しないと、にべもなく排斥されるような事は、全く心配してなかった。それは「春日部涼太」を侮っているというより、精神的に弱っている人間がそこまでの強い意志を誇示するとは思えなかったからである。
「ありがとうございます」
そしてやはり、私のポケットティッシュを受け取った。記者である事をおくびにも出さずに親切心のある通行人を演じた。
「……」
にしても、「春日部涼太」が負った心的外傷後ストレス障害は計り知れない。手の震えによって、ポケットティッシュを何度も受け取り損ねる様子は、他の被害者と比べて見ても、明らかに異質な反応だ。
「本当に大丈夫ですか?」
絆されて老婆心が生まれたとは思わない。陥没事故に見舞われた事をきっかけに孕んだその恐怖の源泉を解き明かしたい一心で、身体の按配を追及した。
「どうしてですか?」
指の間をすり抜ける煙のように話が噛み合わず、嘆息を既の所で噛み砕く。
「その、足とか」
差し出がましいお節介を口にしてしまい、言下に自重するものの、手遅れな自戒を湛える事しか今の私にはできない。
「まあ」
曖昧な物言いに掴みどころはなく、いくら叩けども歪な音を鳴らす鐘のように趣旨を逸脱した返答がくる。これは、身から出た錆びなのか。それとも「春日部涼太」自身の問題なのか。天秤に乗せて確かめたい気分だったが、目に見えぬ不言のやり取り故に、明るみになる事はない。
続けるだけ無駄になるであろう立ち話に傾倒すればするほど、通行人としての立場が危うくなり、警戒されて当然の記者という身分が顔を出す。今は只の通行人を首尾よく演じて終わるのが適当なのかもしれない。だがしかし、「小林一葉」の鋭い視線が差し向けられ、私はこのまま踵を返す訳にはいかなかった。
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