へりくだる

 苦笑混じりに「牧田紀夫」が言ったのは、切迫感から生まれた幻聴を疑っているからだろう。情報を扱う立場にある私にとって、傾げた首の角度で成否を語り、撥ね付けるような態度を取るつもりはない。記者の端くれとして、私は耳を傾ける。


「どんな?」


「甲高い……まるで隙間風のような。あー、ごめんごめん。今のは無かった事に。さすがにこれはないな」


 途中で我に返り、とんぼ返りする薄弱な体験は「牧田紀夫」にとって、対話の押し引きを楽しむにしても頼りないと判断したのだろう。環境音に例えられてしまうと、此方も余分な事象として捉えざるを得ない。


「もう他にはない感じですか?」


「他は、ねぇー……」


 長考の兆しが見え、私はこれ以上の問答に新たな発見はないと悟った。


「ごめん。俺も記憶が曖昧なんだ。あまりに突然の事だったから」


 当然だ。ストレスと紐付けられる脳の構造上、記憶として引き留めておくものは選別され、事故の様子を仔細に保つ謂れはないのだ。


「そうですか」


 名刺という置き土産はもう既に渡した後だ。四方山話に興じて長く居座るのも迷惑だろう。


「何か新しく思い出す事があれば、名刺に書いてある電話番号に一報ください」


 一気呵成に酒を飲み干して、席から立ち上がる。鳥跡を濁さない私の振る舞いは、横槍を入れずに黙する「小林一葉」のお眼鏡にかなう事はないだろう。店から出ると、すかさずこう言った。


「また、ですか」


 姑のような小言を呟かれ、背筋が伸びる。


「薄氷を舐めているようですね」


 まるで事情聴取を受けているようだ。炯々たる視線は、鑑みる相手がいないながらも、私の取材能力を値踏みし、計りの上に乗せているようにも見えた。私はその視線から逃れられるだけの手段を持ち合わせておらず、うだつが上がらない。


「ほとんど実のない会話だっだ。風が起きたなんて、何も価値がない」


 返す言葉も見当たらない。記事作成に於ける状況の説明に使える程度で、読み飛ばしても何ら問題がない一行になるはずだ。貴重な被害者の一人から話を聞いたとは思えない、一文は確かに徒労と言い換えても差し支えがない。


「まぁ、連絡があれば、きっと新しい話が聞けるはずですから」


 記憶の曖昧さを盾にされると、此方も受け身にならざるを得ないのだ。尋問まがいの聴き方をすれば、必ずしっぺ返しに遭うと予見できるからである。しかし、遅々とした歩みを甘んじて受け入れるような器量は、「小林一葉」から感じられない。つまり、多少強引でも話を聞き出すようなやり方が求められる。


「……」


 私は心を入れ替えるつもりで次の被害者に挑むべきだろう。それは、眉間に皺を寄せて厳しい顔付きを伴い被害者と相対するような、脇の甘さとは無縁なジャーナリスト精神に基づく目敏い舌鋒も飛び出すはずだ。

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