第一章 消えた飼い猫

第1話

 水面に夏の陽射しをきらきらと反射させた湖のほとり。

 熱を吸収して鉄板のように熱くなったアスファルトの上を私、緑坂みどりざか実緒みおは歩いていた。道路に吹きつけた爽やかな風で少し高めの位置に結んだポニーテールが揺れる。


 目的地の湖のほとりに建てられた古民家に着くと、迷いなく引き戸を叩いた。

 来客を知らせるインターホンはとうの昔に壊れ、この家に訪れる者はみなこうして戸を叩き、この家の主人に自身の到着を知らせていた。

 しばらく戸の前で家の主人が出てくるのを待っていたが、一向に出てくる気配がないため遠慮なく戸を開け中へ上がり込む。


「中島さーん」


 この家の主人の名を呼ぶが返事はなく家の中も静かだった。玄関で靴を脱ぎ、寝室へと向かう。


「ごほん!」


 寝室の前でわざとらしく咳をしてみるが反応はない。仕方がないのでわざと大きな音が鳴るようにふすまを乱暴に開けて大声を出す。


「中島さん、おはようございまーす! 起きてください!」


 クーラーが効いた畳張りの部屋の真ん中に敷かれた夏用の布団がゴソゴソと動き出した。


「んー。うる、さい……」


 布団の中から途切れ途切れの、男性のうめき声が聞こえてくる。私は問答無用、と布団を引っぺがした。


「う、眩しい」


 布団の中で体を丸くして隠れていた人物が悲鳴を上げる。


「酷いじゃないか、実緒ちゃん」

「起きない人が悪いんですよ。今、何時だと思ってるんですか」

「……二時です。午後の」


 私に掛け布団を取られてやっとのことでノソノソと起き上がり、目の前であぐらをかいて座った人物はこちらから目を逸らしてそう答えた。

 少し長い髪は整えられることなく全体的にぼさっとしていて、見ているこちらが暑苦しく感じる。

 右目に関しては長い前髪が邪魔をして常時その姿を隠していて、隠れていない方の暗い茶色の左目は襖の方を見ている。

 この人は中島なかじま麻白ましろ

 私が大学入学早々に悪霊に憑かれた際に助けてくれた人だ。当時はなにが起きたのかまったくわからず、目の前から急に女性の霊が消えて除霊したと言う中島の言うことも、本当かどうかわからなかった。しかしながらあの日以降あの小道で足音がするという噂は聞いておらず、実際に私もあの日と同じ時間帯に小道を通ったが、どれだけ耳を澄ましても自身の足音以外は全く聞こえてこなかった。


「ところで。なんでみーちゃんがここにいるの?」

「みーちゃんって言うな!」


 キョトンとした顔でこちらを見る中島につっこみを入れる。中島は度々たびたび私をみーちゃんと呼んでくるのだが、正直恥ずかしいのでやめてほしい。


「えー、かわいいのに。猫みたいで」

「だからいやなんですよ」


 中島は悪意があったりからかっているつもりはないのだろうが、あだ名で呼ばれるのに慣れていない私からすると恥ずかしくてたまらない。


「トヨさんに、マシロちゃんを起こしてきてあげてって頼まれたから起こしに来たんです」

「わぁ、相変わらずトヨさんってばお節介焼きなんだから」


 トヨというのは中島の隣の家に住んでいる少し腰の曲がったおばあさんだ。

 昔は駄菓子屋を営んでいて、幼い頃から店の常連だった私はトヨと血縁関係はないものの彼女によく懐いていた。

 トヨは店を閉じた今でも私を本当の孫のようにかわいがってくれていて、自身が栽培している野菜をおすそ分けしてくれる。


 あの日以降出会うことのなかった中島と再会したのもトヨ繋がりだ。

 いつものようにトヨに会いに行くとその日はトヨも忙しかったらしく、隣の家に野菜のお裾分けを持っていくように頼まれて、ずっと無人だと思っていたトヨの隣の家に行くと中から中島が出てきたのだったのだ。

 トヨの家、つまり中島の家は私の実家から徒歩十分圏内で、しかも顔見知りだった私は中島の目覚まし係としてちょうどよかったのだろう。

 中島の昼夜逆転を危惧した面倒見の良いトヨは時折、私に中島を起こすように頼んでくるようになったのだった。


「マシロちゃーん」

「ちょ、ちゃん付けはやめてくださいよ! トヨさんの影響ですか⁉︎」


 玄関の方から中島を呼ぶ女性の声が聞こえた。トヨより高いその声に返事をしながら中島は玄関へと向かった。中島を起こすという仕事を終えた私も中島のあとに続く。


「あら、実緒ちゃんもいたのね」

「こんにちは、高橋さん」


 玄関で待っていたのは高橋という女性だ。還暦とは思えないくらい若々しく、背筋もぴんと張っている。胸の下くらいまで伸びた髪も丁寧に手入れされているのか、艶があり白髪も見当たらない。


 トヨは古希を迎えており、高橋とは十も年齢が離れているが高橋もトヨも畑で野菜を栽培している繋がりで仲良くなったようだ。

 トヨは駄菓子屋をやっていたこともあって顔が広く、老若男女問わずこの近辺に住む人間で彼女を知らない人物はいないだろう。


「えっと、それでご用件はなんでしょう?」


 先程までいた寝室と違い、玄関は太陽に温められている。暑そうな顔をした中島が高橋に尋ねる。さっさと話を済まして早く部屋に戻りたいのだろう。


「ああ、そうだったわ。それがね、中島さんに相談があるのだけど」


 中島の家に来るのは野菜や頂き物のお菓子などの食べ物をお裾分けに来る世話焼きが多いが、たまにこうして相談に乗って欲しいと言って来る人がいる。


「トヨさんに聞いたら中島さんに相談したら良いんじゃないかって言われたから。話を聞いてもらっても良いかしら?」

「まぁ、みなさんには普段食べ物を分けて貰ってますし、別に構いませんが。でもわざわざ僕に相談するってことは……」

「ええ、ちょっとおかしな話なのよね」


 場所を居間に変え、机の上に人数分のお茶を用意する。

 私は帰ろうかと思ったが、どうせ家に帰っても無駄に時間を潰すだけなのは目に見えていたので中島と一緒に話を聞くことにした。

 高橋はお茶を一口飲むと相談内容を明かした。

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