第26話 メリー・メアーと虹の架け橋 4


 詞浪さんを誘ってホテルのプールへ行った。

 センセイは遠慮した。周囲を調べてくるという。〈ホール〉を危険と見て、生徒の安全確保に動いたのかもしれなかった。


 我々は水に浮かんだ。

 例によって色んな物を持ちこんだ。

 それらが夏の光を反射してプールを彩った。

 プール用のカヌーを浮かべて、実は学生時代カヤックで国体まで行ったのです、などといってみたが、詞浪しろうさんは私の拙い動作から即座に嘘だとみやぶってしまった。


「体幹の使い方で分かるんだよね」

 そういって、詞浪さんはぷかぷか浮かんだお菓子の中から、ハリボグミを選んで、口へ運びそうな素振りを見せた。

 が、結局歯をたてただけだった。使用したカロリーの分だけ随時補給するのだという。

 詞浪さんはそぎ落とされた肉体をしている。

 そしてネコ科の猛獣のように、腿だけが逞しかった。

「たいして動いてないから食べる気しないんだ。癖みたいなもの。体軽くしておかないと損した気持ちになる。軽い方が有利だから」

 彼女はそういったが、これではよく分からない。


 分かったのは、センセイが競技用自転車を持ってやって来た時だった。

「裏で見つけた。ホテルの客の持ち物という事なのかな? もちろんその客は実在しないんだろうから、好きにしていいよな。クロモリ製で重いが、ツーリング程度なら問題ないだろう。セッティングも詞浪に合わせておいた。近くに結構いい峠もあるみたいだし、乗ってみたらどうかな? ここが夢の中なら……その、足も平気なんじゃないかと……思ったんだが……」

 手柄を報告する様子だったのが、言葉尻はしぼんでいった。

 詞浪さんの反応は淡泊だった。

「気が向いたら試してみるよ。それよりセンセイも游いだら」

「ああ……そう。いや、游ぐのは止しておくよ……」

 振り返りながら、センセイは引っこんでいった。


 自転車競技を? と私は詞浪さんへ尋ねた。 

 詞浪さんは当たり前のように、こう応えるのだった。

「はい。天才でしたね」

 彼女は話し始めた。

 浮き輪にお尻を突っこんだ姿勢で、傷のある方の足で水をパチャパチャ蹴っている。

「親がチャリンコ好きでさ。で、私は偶然にも才能に満ちあふれてた。だから強者の義務として競技へ行ったわけ。自転車部があるからって、わざわざお堅い学校受験したんだけど――まあ、これですよ」

 彼女は傷跡のある右膝を叩いて見せた。

 レースでの落車と、練習のしすぎが祟ったのだという。

「手術したし日常生活では問題ないよ。たまに傷むだけ」

 復帰は、と訊くと、しないと答えた。

「私が競技をするのは才能への奉仕で、義務だった訳。で、今はもう違う。だから違うことをする」

 では義務を終えて、今はバカンス中というわけですねと私がいうと、彼女は声を上げて笑った。

「バカンスか。そりゃあいいや」

 そういって、色とりどりのハリボグミを水中へばら撒いた。

 なんら湿ったところのない心からの笑い声だった。未練や好き嫌いとは別のところから出た感情のようだった。

 いろんな夢があるものだ。


 センセイは、その自転車部の顧問なのだった。

 詞浪さんのヒザのことで責任を感じているらしい。それであの態度の謎が解けたが、足の事が全てではない気もする。

 センセイはあなたへ特別な感情を抱いているのでは? 私がいうと、詞浪さんはさすがに驚いた様子を見せた。

 浮き輪からずり落ちて、しばらく浮いてこなかった。


 ビート板で浮かべたラジオからは、素敵に甘酸っぱいメロドラマ放送が流れてくる。ちょうど、一年ぶりに再会した婚約者がサメに食べられたところだった。

 そこへ詞浪さんが浮いてきて、ビート板を転覆させた。彼女は説明して、

「あの人のはそういうのじゃないよ。よくわかんないけど」

 という。続けてこう付け加えた。

「――怪我のことだって、いうほど先生は気にしてないと思う。だって実際悪くないし。休めっていわれたのに私が隠れて練習してたのが悪い。でも先生は謝る。多分、謝ったり後悔するのが好きなんだよ。悪い意味でいうんじゃないけど、あの人はそういうのが青春だと思ってるんだ。きっとそれだけだよ。いや、ホントに」


 なかなか辛辣な意見だが、単純に照れ隠しだけの言葉だろうか?

 謎だ。が、それも当然だろう。

 彼女らには彼女らの関係性があって、本人達にだけ分かることが存在する。

 でも関係性とは別に、センセイ個人にはセンセイ個人の欲求リビドーがあって、それは身近な人間にも明かされないものなのだ。

 つまりセンセイが詞浪さんをどう思っているかは、やっぱり謎だ。

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