第12話 メリー・メアーの尾骨 5
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車は、峠道の途中に置きざりにされていた。
ボロボロのタクシーで、塗装はまだらに剥がれ、タイヤもパンクして地面に伏せをしたような格好だった。
走れはしないが、扉を開けて乗りこむだけで現実への〈扉〉として役目を果たすはずだ。
リゾートホテルは背後が海、前方には丘があった。
幾つかの小島が橋でつながって、この地域を形成している。
客人の〈扉〉はその丘の峠道に停まっていた。
居続けることの危険性を説いてなんとか納得してもらったが、仕事用のスーツに着替えた二人の足取りは重かった。
タクシーの前で立ちどまったまま、どちらも手を掛けようとはしなかった。タジマくんのほうは先輩の女性に遠慮している風でもあった。
また来ればいいのですよ。一度訪れた者には〈扉〉は開かれやすくなるようですから、また会えますよ。
私はそういったが返事はなかった。
そのとき何かを聞いた気がした。
濁った猫のような鳴き声で、視線を巡らせたが出所はつかめなかった。周囲にあるのは前後の峠道と林だけだ。
「中に入るだけで帰れるんですかね?」
タジマくんが沈黙を破った。
それと女性が後じさったのはほとんど同時だった。
「猫が呼んでる」と彼女はいった。「帰らない」
彼女は身を堅くして拒絶の姿勢を取った。売られていくのを察した仔牛みたいな格好だった。
「先輩……」
タジマくんの方には、社会人的な自覚が戻っていた。
彼はセンパイをなだめ始めた。
「先輩、そうもいきませんよ、僕だって――」
「戻りたくない、戻りたくない。それに、それに猫を連れ戻さないと」
「しっかりして下さい。猫を捨てたのはもうずっと昔の話でしょう。夢のせいですよ、そんなふうに思うのは」
「嫌だ、嫌」
「でも、先輩、いったん帰らないと」
「帰ったら仕事に行かないといけないんだよ。明日も明後日もあるんだよ。朝から晩まで。家に帰っても連絡が来て呼び出される。それで気がついたら一年が終わってる。来年も再来年もずっとそんななんだよ」
もはや聞く耳を持たない状態になった。
私は外の世界で受けた彼女らの苦しみを見誤っていたのかもしれない。
土壇場での拒絶は思った以上に激しかった。
感情にともなって、彼女の外見が変化しはじめていた。
目が吊り上がっていた。
唇がめくれあがって犬歯がのぞいた。
「私は私の猫を連れ戻したいだけだったのに!」
「気持ちは分かりますけど――痛ッ」
差し伸べた後輩の手に彼女は噛みついた。血があふれ出た。
「先輩……」
女性は動物そっくりの仕草で口の周りの血を舐めとった。異様に長い舌だった。
歯は鋭く変化していて、鼻が尖ってきているように見えた。
口が広がって空気が漏れるのか声まで変わっていた。
「嫌だ、私なんていないのと一緒じゃない。帰ったって、私はどこにもいない、生きてない」
彼女は自分の体を掻き毟って傷つけはじめた。爪もまた鋭い。
皮膚が破れて、裂け目から雑草みたいに獰猛な毛並みがかおを出した。山猫そっくりのまだらな毛並みだった。
悪夢は彼女の内側で育っていたらしい。それがいっきに吹き出した格好だった。
それとも彼女が望んで自身を悪夢に空けわたそうとしているのか。
もう猶予はなかった。
私は力尽くで〈扉〉へ押しこもうとする。
女性はすばやく反応して、私の腕に噛みついた。
肘関節の壊れる音。
リミッターの外れた、素晴らしい顎の力だった。
さらに、押し倒される。
膝の下に組み伏せられる。
「絶対に帰らない。みんなが私の猫を奪おうとする」
そういう女性自身がもはや獣の顔になっていた。
裂けた頬から毛並みが生い茂り、瞳は金色に輝いている。
変容の苦痛か、目からは血の涙が流れていた。
私の上で背を反らせ、引き裂くような遠吠えをあげた。
それは人間性の最後の悲鳴でもあり、また夢の産声でもあった。
ゴツゴツという拳をぶつけ合うような音は、骨格が変わっていく音だ。
服が裂けて、太い尻尾が這い出てきた。
同時にゆばりの音が響いた。
「ほらあ。もう人間じゃない」
獣の顔で、たぶん彼女は笑った。
そうして私に食らいついてきた。
首。顎の下の深いところ。
致命的だと思われる音が奥の方でした。
その状態で女性が頭を振りたくった。
牙がさらに食いこんでいき、首の骨が軋んだ。
噛みついたまま、女性は喉の奥で同じ言葉を繰り返していた。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
わかります。といってやりたかったが私は声が出せない。
「ぎゃう!」
という声は、私でも女性でもない。
タジマくんの声だということは後になって気づいた。
私の体が自由になっていた。
タジマくんが女性を突き飛ばしてくれたらしい。
彼は先輩の体のあちこちへ歯を当て、唸り、威嚇して下がらせた。彼もまた獣の姿になっていた。
「だい、だい……」
変形した顎で、唸り声に近い声を絞り出している。
どうやら私が大丈夫か案じているようだった。
夢の中ですから、と私はかすれ声と動作で伝えた。
自分の体を損なうというのも、悪夢の中ならではの体験である。一種の快楽ですらあると私は思う。
「なんで、嫌だ、なんで嫌だ」
女性は邪魔されたことに激怒している。
同時に帰りたくないと駄々もこねた。その場でぐるぐる回り、爪で地面を掻き毟り、さらに転がり回った。
「なんで? 猫が飼いたかったのに、なんでぇ」
辛うじて絡みついていた衣服が完全に失われていた。
その姿からもう人間性は感じられなかった。
人間大の山猫がそこにいた。
それでも、無理矢理〈扉〉へ押しこめば、現実へま戻せるはずだった。
人間大の怒れる獣相手にその「無理矢理」が可能ならばだが。
それをしようとしたとき、私の横を毛並みの感触がすれ違っていった。
タジマくんだった。
彼は私へ頭を一つ下げると、先輩の方へ近づいていった。
その様子から、私は彼が人間世界を捨てたのだと察した。
男が近づくと、先輩の獣は一度だけ唸って、噛みつこうとした。そこで彼の態度から意図を察してやめた。
もう彼は先輩を留めようとはしていなかった。その反対だった。
二匹の獣は旅立っていった。
新しい体を伸びやかに動かし、毛並みを輝かせ、身を寄せ合うようにして峠の向こうへ走り去った。
あとには、獣臭と、人間世界の名残である衣服の残骸だけが残った。
私も私のバカンスに戻ることにした。
その後ふたりがどうなったのかは不明である。
私は逃げていく獣の絡み合った尻尾を思い出し、きっと「癒やし」はあったのだろうと思うこととする。
〈ホール〉の法則に従えば、あの開放された獣たちは排除されるはずだった。
しかし、どうだろう。ふたりでなら切り抜けられるような気もする。
現実世界の生命たちだって、無から生まれ、滅びの流れに逆らい続けているではないか。
それは現実も〈ホール〉も同じなのだ、きっと。
それから私は〈ホール〉を訪れるたび、夜の丘へ耳を澄ませるようになった。
稀に、その方角から獣の遠吠えを聞くことがあるが、それが私の思う獣なのか、それとも〈ホール〉のみせる幻なのかは判別がつかない。
そんなときは闇へ呼びかけてみる。
あなたの猫はみつかりましたか? そこに羊はいますか?
その時は私に教えて下さい。
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