第八話 宣戦布告
◆
教授との邂逅やら幼馴染とのベランダ飲み会やらを経て、時は十月中旬。若干の肌寒さを感じる秋の曇り空の下、俺は神楽坂邸を訪れていた。
「スゥー……ハァー……」
深呼吸しつつ、インターホンとにらめっこ。何度も入ったはずの一軒家が、今日だけはラストダンジョンのように見える。まあ残念ながら、俺は剣を振るう勇者ではなく、ペンを走らせるだけの教師なわけだが。
今回の目的は、至って単純。教え子とのスレ違いを解消し、受験戦争を再開することだ。ラスボスに囚われた姫を救うことに比べれば、さほど難しくはない。
結果が出ない。ゆえに、今までやってきたことを信じられなくなっている。文字通り、自信を失くしているのが今の神楽坂の状態だ。
だから今日は、共に歩んできた道のりが正しかったと証明する必要がある。これまでの努力に間違いは無かった、と。そして諦めなければ、報われる未来も見えてくる、と。俺は証明しなければならない。
状況分析は済んだ。説得材料として、二日間寝ずに資料を作った。
「だったら、後は覚悟を決めるだけだ」
高まる緊張の中、俺はインターホンに指をかけた。
『……センセー、また来たんだ』
応答あり。第一関門は突破だ。
「ああ、懲りずにまた来たよ。どうだ、中に入れてくれないか?」
『……嫌』
「はは、随分冷たいな」
想定内の反応。問題はここからだ。
「もう、勉強が嫌になっちまったか?」
『いや、別に。勉強は、元からそんなに好きじゃないよ。嫌になったのは……何もできない、アタシ自身』
想像より、返答はしっかりしている。しばらく家を訪ねていなかったのが、功を奏したか。
「はは、何もできないなんてことは無いだろ。俺に女心を教えてくれたじゃないか」
『気休めはやめてよ。センセーだって、本当は恋愛教師なんてバカバカしいって思ってるんでしょ?』
「はは、否定はできないな」
この期に及んで耳障りの良い嘘をついても意味は無い。率直な気持ちを告げる。
『ほら、やっぱり。恋愛教師なんて、意味無いんだよ』
「いや、案外そうでもないぞ? どうやら友人曰く、俺はレディに優しくなったらしくてな。多分、それはお前の『授業』のおかげだ」
確かに、バカバカしいとは思う。だがそれは、決して無意味なんかじゃなかった。
【あのね、女心は数学とは違うの。だから、女の子を褒めるのに確実な最適解なんて無いわけ。そこまで深く考える必要も無いんだよ?】
楓に『ありがとう』を言えたのは。余計なことを考えず、素直な気持ちを伝えられたのは。
きっと、恋愛教師の助言があったおかげなのだから。
「こんな俺でも、お前が居たから少しは変わることができた。無意味に思えたことにも、意味はあったんだよ。お前が教えてくれたことは、今でも俺の中に残っている」
それに気づいたのは。皮肉にも、共に過ごす時間を失ってからだった。
【ざーんねん。優作くんの占い結果は『教え子に弱みを握られて、明日から絶対服従になっちゃう』でした】
最悪な形で出会った。
【アンタに言われなくたって、自分でもわかってるのよ! このままじゃいけないことらい、嫌になるくらい自分でわかってる!!】
本気でぶつかりあった。
【センセーが家庭教師なら、さしずめアタシは恋愛教師ってところだね】
変わったヤツだと思った。
【えへへ。アタシが良いっていうまで、離しちゃダメだよ?】
柄にもなく、その小さな手を握った。
【お願いだから、今日はもう、一人にしてよ……!】
そして、今。俺たちは、もう一度ぶつかりあっている。
そんな、慌ただしい毎日。変わりたくない俺の平穏を乱した、世にも奇妙な教師生活。
忙しない。大変だ。疲れて疲れて仕方が無い。
約半年間。俺はずっとそう思いながら、彼女との非日常を過ごしてきた。
──だが、その日々を無意味だと思ったことは、一度も無かった。
「確かに、お前と過ごす日々は大変だった。俺の平穏な日常は完全に崩れ去ったさ。でも……慣れてみれば、それも悪くなかった」
だから、俺は彼女に告げる。
「刺激的な毎日も楽しい。それを俺に教えてくれたのは、他の誰でもないお前なんだよ。だから……意味が無いなんて、言わないでくれよ。悲しいじゃないか」
きっと、それは無意識に漏れ出た、心からの声だった。
『……』
「……」
インターホンからの反応は無し。突如として、静寂が訪れる。
矢継ぎ早に言葉を紡いだことを、少しだけ後悔した。
「だから……頼む、神楽坂。お前が間違っていなかったことを、全てに意味があったことを、俺に証明させてくれないか。そのために、俺は今日ここまで来たんだ」
直接顔を合わせているわけではない。彼女がカメラ越しで俺を見ている保証も無い。
それでも、せめて言葉だけは届いてくれ、と。半ば祈るように、俺は頭を下げた。
『……て……よ……』
──しかし。
『もうやめてよ! これ以上、アタシに優しくしないでよ……!』
届けた想いのアンサーは、明確な拒絶の意志だった。
『もうイヤなの! 全部イヤなのよ!! ほっといてよ!! センセーからそんなこと言ってもらえる資格なんて……今のアタシに無いんだよ!!』
全てを否定するように、少女は嘆き続ける。
『報われない現実がイヤなの! 才能が無い自分がイヤなの! ちょっとつまづいただけで心が折れちゃう弱い自分がイヤなの! もう一回頑張るのは怖くてイヤなの! センセーの期待に応えられないのがイヤなの!!』
そうして、ひとしきり叫び続けた彼女は。
『イヤ! イヤ! イヤ! もう何もかもが、イヤなのよ……!!』
ゼーゼーと息切れを起こしながら、一貫して己を否定し続けた。
『……ね? センセーも、こんな生徒ウンザリでしょ? アタシってセンセーが思ってるよりずっと陰気で、弱くて、ダメダメなんだよ?』
全てを諦めたように、少女が自嘲する。
『多分、恋愛教師も要らなかったよね。センセーは元々女の子に優しいから、アタシがとやかく言う必要なんて無いし。そもそも、アタシが恋愛を教えるっていうのが、無駄だったのかもね』
すると一瞬。インターホンから音声が途切れ──
「だって、アタシも恋なんてしたことないんだもん」
──玄関の戸が開き、眼前に教え子が現れた。
「ね? だから、全部無駄だったんだよ。生徒としては問題児。恋愛教師のくせに、自分が恋を知らない。ほら、救いようがないでしょ? だから……ね?」
そう言って首を傾げると、
「アタシなんかほっといて、早く帰った方が良いよ?」
どこか懐かしさを感じる冷めた笑みで、俺を見つめていた。
「……そうか、神楽坂。それが、お前の答えか」
「うん。だから、センセーも早く諦めて──」
「だが断る」
「っ!?」
たまらず彼女の言葉を遮る。この櫻田優作が最も好きな事のひとつは、勝手に諦めている教え子に『NO』と断ってやる事だ。
「な、なに言ってんの!? アタシ、もう完全にやる気無くしてんだよ!? 分からないの!?」
「うるせぇな。ンなこと知るか。下手に出てれば、好き放題ペラペラ喋りやがって。こんな高時給のバイト他にねぇんだよ。帰れって言われても帰るわけねーだろバーカ」
「なっ! お、お金目当てなの!?」
「は? 何驚いてんだよ。バイトなんだから当たり前だろ。こちとら生活かかってんだ。誰が何と言おうと、死んでも家庭教師はやめねぇ」
クソ、もう知らん。逆に吹っ切れてきたな。
「いいか? よく聞け? 俺は家庭教師である以前に、一人の貧乏学生なわけ。お前の合格に手を貸すと言ったのは嘘じゃないけど、それも金のためなの。じゃなかったら、誰がお前みたいな問題児のためにここまでするかっつの」
「なっ……!」
「陰気で、弱くて、ダメダメ? ハッ、だから、どうした。そんなの、とっくに知ってんだよ。だから、そんなお前でも一からやり直せるようにと思って、わざわざ資料まで用意してここまで来たんじゃねぇか。給料のためにな」
「そ、そんな給料給料言わなくてもいいじゃん!!」
「大体なぁ。お前、本当に諦めてるなら、なんで今こうして俺と喋ってるんだ? 放っておいてほしいなら、居留守決めて俺を無視すればよかったんじゃないのか?」
「そ、それは……」
「フン、何が無意味だ。何が全部無駄だ。本当は何も諦めてないんじゃねぇのか? 本当は今も、差し伸べられた手を掴みたいんじゃねぇのか?」
「違う! アタシは──」
「違わねぇよ!!」
「……!」
ああ、まったく。ここまで自己否定されると、さすがに腹が立ってくる。
「この世に、無駄なことなんか無いんだよ。苦悩も、葛藤も、絶望も。今お前が感じている、その全てには、きっと意味がある」
生きていれば、無駄に思えることなんて山ほどある。未来なんて保証されてないし、今自分がやっていることに価値があるのか、なんて誰にも分かりやしない。
──でも、だからこそ。
「過去に積み上げたものが無駄になるかどうか、ってのはさ。多分、これからの自分次第で決まるんだよ」
全て無駄だったと切り捨てるには、まだ早い。それを決めるのは、今じゃないんだ。
「そりゃあ、くじけそうになる気持ちも分かる。ずっと頑張るのは苦しいことだ。やめたい。逃げたい。楽になりたい。そう思うのは、決して間違いなんかじゃないさ。でも……今全てを諦めてしまえば、それこそ、お前の努力は全部無駄になっちまうかもしれないんだよ」
そうだ。最初から無駄なことなんて、何もない。
失敗してもいい。立ち止まってもいい。
大事なのは、その後なんだ。
「失敗から何かを学ぶことができれば、それもお前の財産になる。学んだことを活かして成功を収められれば、苦しんだ日々も報われる。だから、失敗したって、何度も立ち上がればいいんだ。泣いても、嘆いても。それでも明日を向いて、最後までやり遂げられれば──お前がやってきたことは、何一つだって無駄になりやしない!!」
望ましくないものを無駄だと切り捨ててしまうのは、簡単だろう。だが俺は、俺の過去を何一つとして無駄だと思っちゃいない。
両親の死も。
ロクデナシな幼馴染との出会いも。
今目の前に居る教え子との日々も。
そして、これまで俺自身がやってきたことも。
その全てが、今の俺を形作っている。
母さんと父さんが居なくなっても、二人の意志は今もなお、俺に受け継がれている。
──二人の死を、ただの悲しい出来事なんかにはしない。
ほら、何も無駄なことなんて無いだろう?
多分、それは俺だけじゃなくて。きっと、誰もが同じで。
人ってのは、そうやって作りあげてきた歴史の系統樹を無駄にしないように、毎日を生きているんだろう。
──だから、そうして俺は。
──そうやって、君は。
「過去を無駄にしないために、未来を夢見て、今を頑張っていこう。立ち上がるのが怖いなら、何度だって俺がその手を取ってやるからさ」
壁にぶつかったり、つまづいたりしながら。それでも、前を向いて生きていくんだ。
「……ねぇ、センセー?」
俯き、表情を隠したまま。少女が俺に呼びかける。
「質問か。いいだろう、なんでも答えてやる」
いつものように、見栄を張って偉ぶった。
「アタシ、ほんとにもう一回頑張れるのかな?」
「心配すんな。意地でも俺が頑張らせてやる」
「受からないかもしれないよ?」
「心配すんな。受かるまで何年でも面倒見てやる」
「期待に応えられないかもしれないよ?」
「心配すんな。ハナから過度な期待はしちゃいない」
「またいっぱい、迷惑かけちゃうかもよ?」
「心配すんな。迷惑かけられるのも仕事のうちだ」
「ほんとに……ほんとに、アタシがやってきたことに意味があったって言える?」
「心配すんな。何回も言ってるだろ? それを証明するために、ここまで来たって」
そして俺は、不安げに問いかけ続ける教え子に指を差し、
「今日は特別授業だ! その不安を全部取っ払うマジックアイテムをお前に見せてやる!!」
好奇心旺盛な彼女を煽るように、『宣戦布告』を決めたのであった。
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