第十話 満点
時間とは大抵、人間の願いとは裏腹に流れていくものである。楽しい時間ほど瞬く間に過ぎ去っていくし、苦痛な時間ほど終わりが見えてこない。
おそらく神はアダムとイブを創る時、体内時計の調整に失敗したのだろう。人間の時間間隔が揃いも揃って狂っているのだ。きっと、そうに違いない。
「はい、センセ。とりあえず全部解き終わったよ」
なので。神楽坂が解答・自己採点を終えるまでの二時間がやけに長く感じたのも、設計ミスをした神のせいだと思うことにした。
「お、解き終わったか。手応えはどうだ?」
神へのいちゃもんは捨て置き、早速教え子に問いかける。
「一応、思ってたより解けた、かな」
セリフに見合わず釈然としない表情で、彼女は答えた。
「解けたって言う割には歯切れが悪いな。もっと喜んでもいいんじゃないか?」
「いや、だってコレ、センセーが作った問題なんでしょ? だったら、解けて当然かなって思って」
「別に、そうでもないと思うけどな」
「いや、そうでもあるよ。だって……アタシが、こんなに解けるわけないんだもん」
またもや自嘲混じりに呟き、彼女が俯く。
「えへへ、ごめんね、センセー。多分、アタシに忖度して簡単な問題を作ってくれたんだよね? アタシが自信を取り戻せるように、解きやすくしてくれたんだよね?」
「いや、それはちが」
「ふふ、誤魔化さなくてもいいよ? アタシ、そういうの分かっちゃうから。口では給料目当てとか言いつつも、本当はアタシのために頑張って問題を作ってくれたんだよね?」
「いや、だから、ちが」
「でも、ゴメンね? それだけでもっかい頑張ろうって思えるほど、アタシ強くないの。そりゃあセンセーの優しさは嬉しいし、頑張んなきゃいけないのは分かってるけど、やっぱりどうしても自信が持てなくて──」
「あー! もう、だから! さっきから違うって言ってんだろ!!」
さすがにこれ以上ネガられるのは限界だった。
「あのなぁ。俺も簡単な問題で自信取り戻させようなんて思ってないっつーの。勝手に決めつけんな。あと人の話を途中で遮るな」
「いや、途中で遮るのは割とお互い様な気が」
「つーわけで、こっからはマジックアイテムの種明かしだ」
「やっぱりお互い様じゃん……」
不満げに、そして不安げに膨れる教え子。
だが、その不満も不安も解消してやれば文句は無いだろう。俺はマジックのネタバラシを強行することにした。
「最初にも言ったが、その問題集は解くだけで自信に満ち溢れる不思議なアイテム。そして、お前が自信を取り戻す条件は、模試レベルの難しい問題を解けるようになること。だったら、話は簡単だろ? お前が解いたのは正真正銘、模試レベルの問題だったってことさ」
「っ!? う、嘘でしょ!? そんな訳ない!!」
「はっはっは。残念、コレが本当の話なんだな。お前が今日解いた問題は全て、模試の過去問から抜粋されたものだ。つまり、お前はレベルの高い問題を『簡単だ』って言えるくらい成長してるってことなんだよ」
「そ、そんなの信じられないよ! だってアタシは何回も模試受けて、全部点数が伸びなかったんだよ!? 急に解けるようになるわけなんて、ありえないよ!」
「はぁ。お前、もう少し自分を信じてもいいんじゃないか? そりゃあ急に解けるようになることなんて無いさ。既にお前は解く力を身に付けていた。だから、解けた。それだけの話だ」
「だったら、どうしてアタシは、模試で失敗を……」
「そりゃあアレだ。お前の運が絶望的に悪かったんだよ」
「え……?」
「お前が十月に受けた三回分の模試を俺なりに分析してみたんだが、三回とも揃いも揃ってお前の苦手分野ばかりが出題されていてな。加えて、得意分野の出題率も総じて低かった。まあ、絶望的に運が悪かったとしか言えないだろう」
ここ最近、俺は特に神楽坂の成績分析に力を入れていた。
というのも、神楽坂の親御さんは非常に律儀であり、契約前に高一から高二までのテスト成績を全てデータとして提出してくれていたのだ。これが非常に大きかった。
俺は過去の成績データから彼女の得意分野と不得意分野を細かく分析。さらに直近の模試の分析も行い、両者を照らし合わせた結果、『十月の模試では目ん玉が飛び出るほどに神楽坂の苦手分野ばかり出題されていた』と判明したわけである。
「お前、平面図形は得意だけど立体図形は苦手だろ? んで、最近の模試で出てたのは全部立体図形。そこに限らず他の科目も、とにかく苦手ばかりが出題されていたんだよ。アレじゃあ点数取れっていっても無理な話だ。正直、同情するよ」
誰だって、弱点ばかりを責められては結果も出ない。『点数が出ない』=『努力不足』というわけでもないのである。
「さっきも言った通り、その問題集は模試の過去問だ。今回は俺が不得意問題が出すぎないように調整してはいるが、難易度自体は変えていない。それを『簡単』って言えたのは、他でもなくお前の努力の賜物なんじゃないか?」
マジックアイテムとは言ったものの、魔法の力があったから解けたというわけではない。少し出題傾向を調整してやれば、神楽坂なら解けると信じていた。
それ相応の努力をしているのは、俺自身が一番知っていたのだから。
「本当は種も仕掛けもないが、あえて言うなら今回のマジックの種は『信頼』だ。俺はお前の努力を信じた。お前は、その信頼に応えて見事に問題集を解いてくれた。それが、今日の結果だ。お前の努力は、何一つとして無駄なんかじゃなかったんだよ」
種明かしを終え、俯く彼女を見つめる。
出来る限り明確な根拠を提示して、『これまでの日々に意味があった』と証明することはできた。あとは神楽坂が俺と共に『これから』を見てくれると信じるしかない。
ささやかに祈りつつ、沈黙。
そして、刹那。永遠のように感じられた静寂は、瞬時に崩れて。
「うっ、ぐすっ……ごめんなさい……! センセーっ、ごめんなさい……!」
張り詰めていた糸がプツンと切れたかのように、少女は泣きじゃくっていた。
「はは、なんでお前が謝るんだよ」
「だって、だって! センセーはこんなにアタシのために頑張ってくれたのに、そんなセンセーを、アタシはさっきまで信じられなくて! だから、だから……!」
「なんだ。そんなの当たり前じゃねぇか。点数が出なかったら、家庭教師は信用を失くす。当然の話だろ? お前が謝ることじゃないさ」
「でもっ! でも、アタシがもっと早く素直になってれば……!」
「でももへちまもないっての。お前が問題児なのは元々知ってんだよ。それを分かった上で、こっちは神楽坂繭の家庭教師やってんだ。お前、俺が最初に何て言ったか覚えてるか?」
「え……?」
両目いっぱいに涙を溜めて、教え子が首を傾げる。
失礼なことに、どうやらコイツは最初の約束を覚えていないようだ。あの時はそれなりの覚悟で宣言したつもりだっただけに、さすがの俺も少しヘコむ。
だが、覚えていないのなら仕方ない。忘れたものを教えなおすのもまた、教師の務め。もう一度宣言するまでである。
「お前の全部を受け止める。最初に、そう言ったはずだろ?」
お前が忘れるというのなら、何回だって声に出してやる。
「お前がお前を信じられないなら。代わりに俺が信じよう。
お前が自分を責めるなら。俺がお前を守ってやろう。
お前が涙を止められないのなら。その涙が枯れるまで、お前の傍に居てやろう」
そんなの明らかに家庭教師の領分を越えている? 結構。元より、俺と彼女は普通じゃない。出会いも、過ごしてきた日々も普通じゃない。普通じゃない俺たちに、常識は通用しないのだ。
この娘を独りにしない。出会った時に、そう誓った。
俺はその信念に基づいて、最後まで仕事を全うするだけだ。
「もうっ! センセーったら、ホントにバカなんだから……!」
涙でぐしょぐしょの顔のまま、ポカポカと俺の胸を叩く教え子。
「ハッ、お前にだけは言われたくないな?」
「う、うるさい! とにかくセンセーはバカなの! ぐすっ……こんなアタシを最後まで信じるなんて……うっ……センセーは大バカヤローだよ……!」
「はは、こりゃまた随分な言われようだな」
「ぐすっ……えへへ、だってアタシ、問題児なんだもん! 性格も悪いし、口も悪いからしょうがないんだもんっ」
顔は涙でビショ濡れで。けれど、表情は晴れやかで。泣いてるのか、笑ってるのか。それすらもよく分からない彼女は、やはり問題児なんだろう。
そう。どこにでも居る、普通の
普通だから、努力は報われるとは限らない。
普通だから、頑張ってもどうにもならないことはある。
そして。普通だから、ままならない現実が嫌になって、力不足な自分を責めてしまった。
だが、案ずることはない。きっと彼女は、これから強くなっていくことだろう。
運が悪い。間が悪い。
そういう、自分の力の及ばない要因で起こる失敗を『しょうがない』と受け入れて、自らの憤りを涙に変えることが出来たのだから。
再び立ち上がった彼女の歩幅は、きっと以前より、ずっと大きくなるに違いない。
「さて、神楽坂。泣き止んだところで質問なんだが、明日からはいつも通りってことでいいか? 模試の反省から、より重点的に苦手分野を強化していきたいんだが」
休ませたいのは山々だが、早速授業の予定を告げる。本番は今回のように『運が悪かった』では済まされない。どんな問題が出ても対応できるように、また明日から始めていく必要がある。
「うん、大丈夫! 頑張れるよ! 苦手さえ潰せばいけるような気がしてきたし! あとは……目標も、見つかったけん」
「目標?」
「あー、いや、なんもなか! なんもなか!」
唐突な長崎弁ラッシュと共に、ブンブンと腕を左右させる神楽坂。
目標とやらは気になるが……まあ、詮索するのも無粋というものだろう。聞かなかったことにしよう。
「じゃあ日も落ちたし、そろそろ俺は帰るぞ。明日からは、またいつも通りってことで。そんじゃ、これからもよろしく」
軽く挨拶を告げ、足取りも軽やかに踵を返す。仲違いを解消したこともあってか、身も心も随分と楽になったようだ。
「あ、センセー、ちょっと待って!」
が、そうは問屋が卸さなかった。瞬時に背後から呼び止めを喰らう。
「はぁ。まだ何かあるのか?」
振り向きざまに、彼女に問いかける。
──すると、瞬間。
「明日から元通りじゃなくて、今から元通りってことにしよっ?」
「っ!?」
小さく、柔らかく。そして、何より暖かい感触が、突如として俺の胸元を支配していた。
「……おい。お前、なに急に人の胸に飛び込んでんだ」
「あれ? 思いっきり抱き着いてるのに、全然慌ててないね?」
なぜか俺の背中に腕を回し、上目遣いでこちらを見つめる大問題児。
「は、はは。知ってるか? 人間ってのは、本当に驚いた時は無になるんだ」
「あ、ホントだ。心臓の音すごい。えへへ、表情に出てないだけで、ドキドキはしてるんだね?」
「勝手に人の脈拍測んな。今すぐ早急に迅速に速やかに俺から離れろ」
意味が分からない。柔らかい。意味が分からない。理性総動員。意味が分からない。Why JK 抱き着くオレ?
「んふふ。やーだ、離れなぁーい」
「……はっ! ま、まさかお前! また変な写真撮って俺の弱み握るつもりじゃないだろうな!?」
「いやいや、今更そんなことするわけないじゃん。ほら、言ったでしょ? 『明日じゃなくて今から元通りにしよう』って。そういうことだよ。ふーっ」
「言ってる意味が分からん。あと、くすぐったいから息吹きかけるな」
つーか、親御さん帰ってきたらマジで色々終わる。ほんとやめてほしい。
「えー? アタシたちのいつも通りって言ったら、ひとつしかなくない?」
「……まさか、恋愛教師復活とか言わないよな?」
「うふふ、だいせいかーい」
あはは、うれしくなーい。
「つーか。恋愛教師と、この抱き合ってる状況に一体なんの関係があるんだよ。関係ないだろ。離れろ今すぐハリーアップ」
「もうっ! せっかく現役JKの柔肌と密着できてるんだから、もう少し喜んでもいいんじゃないの?」
「残念ながら俺には法に触れるスリルを喜ぶ趣味は無い」
「ちぇっ、つまんないのぉ」
唇を尖らせ、不満げに呟く彼女。見慣れた表情ではあるが、距離が距離だけに一挙手一投足がやけに気になる。
「はい、というわけでセンセーに問題です」
それはあまりに唐突であった。
「問題。ある女の子は最近、とっても不安な日々を過ごしていました。ちょっとしたことでスレ違って。けれど一度拒絶してしまった手前、ある男の子となかなか元通りになれなかったのです。『どうしよう、嫌われるかもしれない』『でも、どうすれば仲直りできるのか分からない』『本当は、大好きなのに』──女の子はずっとそんなことばかり考えて、悶々と日々を過ごしていました」
「……それで?」
「そこで、問題です。もし、毎日が寂しくてたまらなかった女の子が、再会した男の子に思わず抱き着いてしまったとしたら、男の子はどんな言葉をかけてあげるべきでしょうか? できるだけ特別な感じが出ると、好ましいです」
「はは、そりゃまた難問だな」
「ふふふ、百点の答えくれないと、離れてあげないからね?」
「やれやれ、困った。満点を取らないと帰れないじゃないか」
まったく。本当に、とんでもない難問を出してくれたものだ。大体、今まで俺は一度だって恋愛教師から満点を貰ったことが無いんだぞ? いきなり満点を取れなんて、無茶ぶりも良いところだ。
だが、不思議なこともあるらしい。
俺はこの問題が出た瞬間、出すべき回答が脳裏に浮かんでいたのである。
──理詰めの言葉ではなく、心からの声を。
──不器用でも構わない。等身大の想いを。
全て、夏のキャンパスで彼女から学んだことだ。
加えて、『特別感』という問題のヒント。
「ほらほら、早くしてよぉ」
「急かすな。今答えてやるから」
これらを考慮すれば、俺が今掛けるべき言葉は、きっと。
「──よく頑張ったな、繭」
これくらい、単純で良い。
◆
〈指導報告書⑦〉講師名:櫻田優作
・しばし報告を放棄していたことを深く謝罪する。つーか、マジですいませんでした。
・教え子を誇りに思う。月並みではあるが、今はその一言に尽きる。
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