第八話 最低

「訂正しろ」


 その言葉だけは、黙って受け入れるわけにはいかない。


「……え? な、なんなのいきなり。訂正? ワケわかんないんだけど?」


 黙りこくっていた俺が反論してくるとは思わなかったのだろう。余裕たっぷりだった彼女の態度が一変し、焦りを孕んだ表情へと変わった。


「俺を悪く言うのは構わない。ナンバーワンってのがハッタリだと思ってくれてもいい。でも……最後のだけは訂正してくれないか」


 確かに、俺はナンバーワンなんて言葉に見合うような実力は無いのかもしれない。勉学の指導を専門職とする講師たちには、自分の力が及ばないことも認めよう。


 ──でもな。


「俺が今まで受け持った生徒は、努力して、悩んで、苦しんで。みんな必死になって合格を掴み取ったんだ」


 俺と生徒たちが歩んだ軌跡を侮辱するような発言だけは、どうしても看過できない。


「優秀だから合格したわけじゃない。がんばったから合格できたんだ」


 ──あの子達が苦悩した日々を否定するような発言だけは、何があっても許すわけにはいかないんだよ。


「は? な、なによ。急に熱くなっちゃって。せ、先生ったら、そんな生意気な態度とってもいいのかなー? アタシの機嫌を損ねたら写真バラまいちゃうかも──」

「──やってみろよ」


 気づけば、俺は自分を抑えることを辞めていた。


「え? い、今、なんて?」

「だから。やれるもんならやってみろっつったんだよ」

「……は!? ア、アンタ何言ってんの!? 正気!?」


 冷淡な声色を急変させ、驚きを露わにする神楽坂。


「ハッ! 正気さ! 正気だとも。少なくとも受験生で、なおかつ親御さんの金で家庭教師まで雇ってもらいながら、一切勉強をやろうともしない君よりはな?」

「なっ……!!」

「ほら、どうした? やってみろよ。俺に変態教師のレッテルを貼って、社会的に殺してみろよ──まあ、何の罪もない俺の人生を潰す度胸があるなら、の話だけどな」

「そ、それは……!」


 ああ、最低だ。ぐうの音も出ないくらいに、最低最悪だ。


 気分は最低。そして俺自身も、きっと最低野郎。か弱い女子高生相手に本気で熱くなるなんて、最低野郎以外の何物でもないだろう。


「まあ? そりゃあ写真をバラまくなんて大それたこと、できるわけないよな?」


 けれど、飛び出す言葉は止まらなくて。


「この一ヶ月で一度も授業をこなせなかった君が、そんなことできるわけがないんだよ。自分が受験生だという現実、そして勉強をしなければならないという現状から目を背けているようでは、指先ひとつで他人の人生を壊すなんて大それたこと、できるはずがない。良心を完全に捨てきるってのは、案外勇気が必要なことだからな」


 言わない方が良いと理解していても、溢れ出す本心はとめどなくて。


「まだ君は子供だし反抗するな、とまでは言わないさ。俺に不満があるならぶつけてもらって構わないし、一つの意見として耳を傾ける。でも、君のその反抗は、その怠慢は、『逃げ』でしかない。ずっとそうやっていても何も変わらないんだよ。月日が嘲笑うかのように過ぎていくだけだ」


 唖然として言葉を失っている女の子に向けて。高尚な人間でもないくせに、俺は偉そうな講釈を垂れていて。


「人生ってのは、どんな風に生きていても必ず努力が必要になってくるものなんだよ。いつまでも現実から逃げることはできない。現状から目を背けても……結局それは、努力のタイミングを先延ばしにするだけだ」


 そうして、説教とも呼べない主義主張を繰り返しているうちに。


 俺はまた一つ、最低な事実を思い出し始めるのだ。


「家庭教師ができるのは、あくまでサポートだけだ。生徒に手を差し伸べることはできるが、その手をつかんでもらえないのなら仕方がない。とりあえず今日のところは帰らせてもらうよ。もう俺と会うのが嫌だったら塾に連絡するといい。多分別の先生が来ると思うから。それじゃ」


 なんて、自己満足に別れを告げて、足早に部屋を立ち去った直後。


 俺はようやく、喉元まで出かかっていた『最低』を思い出した。


「はぁ……そういやガキの頃は、頭ごなしに説教する教師が嫌いだったんだっけ?」


 ──俺が幼少期に忌み嫌っていた『大人』は、まさに今の自分のような人間だったのだ。

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