第七話 意地 

 ──今がずっと続くわけではない。


 ──問題は時間が解決してくれる。


 我が隣人の暴食女による、ありがたいアドバイスである。文字通り時の流れに身を任せ、あるがままに過ごしていれば万事解決で万々歳、というのがヤツの考えらしい。


「ねぇー、早く宿題やってよぉー」

「う、うっす……」


 ──無論。世の中、そう上手く事が運ぶはずなど無かった。


「次、化学の問題集ね。その後は物理もよろ~」

「……」


 相変わらず物の少ない、神楽坂家の一室。机上で山積みになっていく問題集を目にした俺は、ただただ絶句するしかなかった。


 家庭教師契約が始まってから、今日で丸一ヶ月。楓の言う『時間が解決』なんて奇跡は一向に起きる気配はなく、俺はただひたすらに生徒の宿題を消化する日々を過ごしていた。


 家庭教師なんてのは、名ばかり。これでは完全に神楽坂の犬である。


「ふんふふ~ん♪」


 目線を机上から少しずらして、ベッドの上を確認。ヘッドホンを耳に当てて優雅にリズムを刻むJKをチラリと見やる。今更ではあるが、やはり授業を受けようという意思は欠片も感じられない。というか、そもそも俺の存在すら眼中にないように思える。


「はぁ、やっぱこのままじゃダメだよな……」


 現状を打破する妙案など無い。しかし今のままでは間違いなく、この娘が受験に失敗するというのは、間違いないなわけで。


「ごめん神楽坂さん、ちょっといい?」


 具体的な策は浮かばずとも。俺が家庭『教師』をやるためには、対話という選択肢を取るしかなかった。


「ん? 今なんか言ったぁ?」


 ヘッドホンを外し、不意を突かれたようにこちらを見つめる問題児。


 まさか俺が曲を邪魔してまで声を掛けるとは思っていなかったのだろう。この二週間で俺も随分とナめられたものだ。


「えっと、なんというか、俺的にはそろそろ授業やってもいいんじゃないかな、と思うんだげど……どうかな?」


 弱みを握られたり生意気な態度を取られたりと、かなり私怨は蓄積しているが、ここはグッと抑えておく。いきなり怒鳴ったりしようものなら、写真をバラまかれかねないからな。俺は一時の感情に流されて自分の首を絞めるような阿保ではない。


「え、急に何言ってんの? じゅぎょー? なんで?」

「いや、一応俺って家庭教師だし、神楽坂さんの受験にも協力したいからさ。俺にできることならなんでもやるし、アドバイスも結構できると思うんだよ。だから、少しだけでも授業を──」


 と、へりくだってみたものの。


「はぁ……アタシ、そういうの求めてないんだけどなぁ」


 こちらの懇願など一切通じることはなく、俺の言葉を最後まで聞こうとする意志さえもなく。大きな溜息を吐き出すと、彼女は髪先を手でクルクルと弄り始めていた。


「最初にも言ったよね? アタシ、授業受ける気とか一切無いんだって。今回は大目に見てあげるけど、次同じこと言ったら写真バラまいちゃうかもよ? 先生、自分の立場おわかり?」

「……」


 込み上げる苛立ちを抑えるように、拳を握りしめる。


 ここで声を荒げたところで、何も解決はしない。


「あっれぇ? あれれぇ? ちょっとなによ、その顔ぉ。もしかしてイラついちゃってる? ふふ、悔しい? もしかして悔しいの?」

「……」


 落ち着け。落ち着け、櫻田優作。こんなガキはマトモに相手にするだけ無駄なんだ。


「ほらほら、なんとか言ったらどうなのぉ?」


 落ち着け。


「ねぇねぇ、ナンバーワンの塾講師なんでしょぉ?」


 耐えろ。


「ふふ、まあナンバーワンって言っても所詮大学生だし、大したことなさそうだけどぉ」


 堪えろ。


「どーせアレでしょ? 大学生のバイトなんだしぃ?」


 ここは我慢──


「テキトーにやってるだけなんでしょ?」

「……」


 いや、待て。


「元々優秀だった生徒にちょこーっと勉強教えて合格させただけなんでしょー?」


 ──それは、違う。

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