第一章 雨降って地、アスファルト

第一話 家庭教師

 西九州大学の門を叩いて以来、実に三度目の春。年度が変わったところで大して様変わりもしなかった初日の授業を終えた俺は、うざったいほどに満開な桜に囲まれた校門をくぐりつつ、独り、帰路に就いていた。


 初めてこの桜を見た時は、それはもう期待やら希望やらを胸に抱いたものである。しかし三度目の春ともなると、寂しいほどに何も感じないのは、一体なぜだろうか。気づけば、キャンパス内に一歩踏み出すだけで興奮を覚えていた『あの頃』のフレッシュさは消え去り、俺の中にはキャンパスから出ることに喜びを感じるという、ありきたりな解放欲求だけが残っていた。

 

 朝っぱらから、授業に次ぐ授業。入学前に思い描いていたアオハルな日々は、おそらく成層圏の彼方へ飛んでいってしまったのだろう。きっと俺の春は、青色ではなく灰色だ。


 だが、しかし。俺とて自由時間を持て余す大学生の端くれではある。何も、眩しすぎる並木道を歩きながらペシミスティックになっているだけではない。貴重な自由時間を有意義に費やす手段の一つや二つくらい、俺だって持っているのさ。


 例えば──キャンパスを出て、西に直進すること約五分。長崎駅にピタリと並ぶように立っている小ビル内のエレベーターに乗って三階のオフィスを訪れれば、俺の学生生活の支えとなってくれる人達が出迎えてくれる。


「お疲れ様です。櫻田先生」

「こんにちは! 優作先生!」


 少々古びた扉を開けた先にあるのは、教室を併設しているという点を除けば、際立った特色のない、ごく一般的な事務室。俺のことを苗字付きで『先生』と呼んだスーツ姿の彼らは仕事仲間であり、俺のことをファーストネームで『先生』と呼ぶ少年少女は教え子、つまりは俺の生徒である。なぜ特筆すべき資格を持たない俺が『先生』などという、恐れ多い敬称で呼ばれているのかといえば、それは俺がここ──個別指導塾『Let‘s』──の講師だからである。


 つまり、俺は自由に使える時間のほとんどを塾でのバイトに費やしているというわけだ。


 同僚講師には「お疲れ様です」、生徒諸君には「こんにちは」と、それぞれ笑顔で返答しつつ更衣室へと向かう。教室内ではスーツ着用が義務付けられているため、私服から着替える必要があるのだ。


 以上を済ませれば、後は生徒の元へ向かうだけ……というのが、まあ普段のバイトの流れなのだが。


「あ、そういえば俺が担当してた生徒って皆卒業したんだったな……」


 今日に限っては、いつも通りとはいかなかった。


 いかん。年度が変わったことを完全に失念していた。そういえば去年受け持っていた子達は皆受験生だったな。まだ塾長から新しい担当生徒が決まったという連絡も来てなかったし、今日は普通に休みだった。


 仕方ない。今日のところは帰るとしよう。バイトは好きだが、仕事も無いのに残っていたら普通に邪魔だ。


 なんてことを考えつつ、愚かにもスーツに着替えてしまった俺は、再度着替えて帰宅するべく更衣室へとUターンを決めようとしたのだが……


「お、櫻田先生じゃないですか。いやー、ちょうど良いタイミングで会えました。今、ちょっとお時間よろしいですか?」


 ヒゲオヤジ、もとい塾長から呼び止められ、俺の歩みは一時停止することとなった。


「あ、今なら全然大丈夫ですよ。何か俺に話でも?」。

「ええ、まあ。立ち話するのもなんですし、詳しい話は面談室でするとしましょうか。少し長話になるかもしれないので」

「長話、ですか。わかりました。今日は特に予定も無いんで大丈夫です」

「お、それはよかった。じゃ、早速行くとしますか」


 そして俺は、長話というワードに若干の引っかかりを覚えながらも、塾長と連れ立って面談室へと向かった。



 面談室に到着。互いに机を挟んで着席し、俺たちは間髪入れずに話を始めることとなった。


「よし。じゃ、早速本題に入りましょう」


 非常にどうでもいいが、この塾長は「じゃ」が口癖である。生徒達からは陰で『ヒゲジャスティス』と呼ばれているらしい。なかなかクールなあだ名である。


「えーっと、話っていうのは新しい担当生徒のことですかね?」

「うーん、そうですね。半分当たりで、半分ハズレ、といったところですか」


 なんだ。随分歯切れが悪いな。


「塾長? その残り半分ってのは、一体なんなんです?」

「うーん、まあなんというか、ですね。今年櫻田先生に担当してもらう生徒は、ウチとしても異例中の異例の契約になっていまして。その辺の説明をする必要があるんですよ」


 異例中の異例。はて、お偉いさんのお子様とでも契約を結んだのだろうか。


「で、その異例っていうのは具体的にはどういうことで?」

「えー、その、単刀直入に言うとですね?」


 単刀直入に言うと?


「櫻田先生に六月頭から約半年の間」


 俺が六月から半年間?


「──女子高生の家庭教師をしてもらうことになったんですよ」

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