第二章 残酷祭
第24話 蝉の抜け殻
慶長六年五月下旬――
梅雨時でありながら、夜空に雲の陰は見えない。
おⅡは白い寝間着を羽織り、濡れ縁に腰を下ろした後、ぼんやりと赤い満月を眺めていた。
あれから二年が過ぎた。
二年で庭が畑に変わった。
武士の妾と割り切れば、決して悪い暮らしではない。
この屋敷は、藁葺き屋根の民家を改修したものだ。建物は頑丈な造りで、敷地面積もそれなり。塀に囲まれた庭も広く、桃や柿の木が立ち並ぶ。馬に乗って訪れる武太夫の為に、納屋を改修して
塀の向こう側から、小川のせせらぎが聞こえてくる。
おⅡの後ろには、龍虎が描かれた衝立。その奥の寝所には、刀掛けに掛けられた大小。寝所の隅には、書物が山積していた。
これらは全て武太夫の趣味だ。数々の合戦で武功を立て、立身出世を遂げた武者は、こういう暮らしに憧れる。
見え麗しい妾を余所で囲い、高価な武具を買い漁る。貧しい頃に買い損ねた
一代で名を成した者は、前述の傾向に陥りやすいが、その中でも武太夫は、特に酔狂というか、豪放な気質の持ち主だった。
東三河の地侍の三男坊から、徳川家の嫡子――
三河武士には珍しい中二病だ。
武太夫は
悪い男ではないのだろう。
然し武太夫を紹介されて、その夜に純潔を捧げた後、生理的嫌悪感が限界を超え、土間で嘔吐した。
それも月日が経つと、価値観が変わった。
心が凍りついた。
有り体に言えば――
慣れた。
思考を捨て去り、四十絡みの男に身体を開く。
それだけの人生。
それ以外に未来はない。
人喰いの妖怪が外界で暮らせるだけでも幸運だ。大抵の場合、蛇孕村を飛び出した使徒は、凄惨な末路を辿る。
世間から鬼や魔物と恐れられ、武芸者に討伐されるか、見世物小屋に売り飛ばされる。
然し武太夫は、おⅡの為に
彼は江戸奉行と
今の暮らしがいつまで続くか、おⅡは見当もつかない。
何十年も過ぎて、容姿が衰えれば捨てられるだろう。武太夫の子を身籠もれば、
将来の事は、誰にも分からない。
ただ生きていく為に、これからも武太夫に抱かれ続ける。
生きていく為に――
不意に夜風が吹き抜け、細い身体を震わせた。
おⅡが寝所に戻ろうとした刹那、
「久しいな」
低い女の声が響き、驚いて振り返る。
「符条様……ッ!?」
おⅡは瞠目した。
彼女の視線の先で、獺が畑を横切る。
「二年ぶりか。息災なようで何よりだ」
「符条様のお陰です。御礼の申しようもございませぬ」
「礼は無用。偶然、知り合いに変わり者がいただけだ」
「左様でございますか」
おⅡは冷たい口調で返した。
それでも朧は頓着せず、濡れ縁に近づく。
「白湯を用意致します」
「獺に湯を勧められてもな……」
「鯉も蟹も切らしておりますゆえ」
「気を遣わなくていい。それよりお前に話がある」
「……」
おⅡは諦観を沈黙に変えた。
聞く前から分かる。
途轍もなく悪い話だ。
「今更、私に如何なる御用で?」
挑発的な物言いだが、声音は暗く沈んでいた。この一言だけでも、深い絶望が垣間見える。然し獺は気にした様子もなく、冷静に話を進める。
「単刀直入に言う。奏が危うい」
「――ッ!?」
おⅡは絶句した。
暗く沈んだ瞳に、困惑と焦燥の色が浮かぶ。
「二ヶ月前、おゆらが本家の女中頭に選ばれた。今の薙原家に、おゆらを止められる者はいない。それなりに対抗できそうな者もいたが……二年前の謀叛でマリアの恐ろしさを思い知らされたからな。正面から反抗する気力もあるまい」
「符条様は……?」
「おゆらに嵌められて、蛇孕村から追放された。元々先代当主の補佐をしていたからな。いつまでも中立ではいられないさ。実際、この二年間で状況は激変した」
獺の低い声が緊迫感を増していく。
「現在の薙原家は、マリアを現人神の如く崇拝する狂信者ばかりだ。加えておゆらは、予言に伝わる魔女の如き振る舞い。奏の精神を操り、玩具の如く弄ぶ。それで人が産まれるなら救いもあるが……
「……私に薙原家と戦う力などありませぬ」
「今のお前では難しい。然し私の妖術を使えば、お前の潜在能力を限界まで引き出す事ができる」
「……」
「勿論、お前も知る通り、大きな危険が伴う。お前の精神が
「……」
二年ぶりに幼馴染みの名を聞いて、おⅡは唇を噛み締めた。
「強制はしない。これは酷く分の悪い賭けだ。それでも命懸けの博打を打つか、今の暮らしを続けるか……残念ながら、時間が残されていない。次に来た時までに、答えを出しておいてくれ」
「符条様……暫しお待ちを」
消え入りそうな声で、獺を引き止めた。
衝立の脇を通り、床の間の刀掛けを見下ろす。
小刀を手に取り、刀身を鞘から引き抜いた。
金重は
勿論、切れ味も抜群であろう。
刀は武士の魂という。
武門に生まれた者は、刀に武具以上の価値を見出す。武太夫も同様だ。
おⅡは冷静に刀身を見つめる。
本当に――悪い男ではないのだ。
おⅡは鞘を捨てると、熟睡する武太夫の傍に立つ。
暫時、呑気な寝顔を眺めた後、肥えた腹の上に乗る。
鼾を掻いて武太夫の喉元に、小刀の刃を押し当てた。
左手で峯を押さえ、渾身の力を込めて引く。
「――ンががががア……がふッ!?」
醜い呻き声を上げて、武太夫の喉元が瞼を開いた。
鮮血が飛び散り、武太夫の喉元が赤く染まる。
おⅡに一太刀で首を刎ねるほどの技倆はない。
さらに刀身を戻して引く。さながら
「がはあ!! がががが……」
何が起きているのか、武太夫にも理解できていない。
ばたばたと手足を動かすが、何の意味もなかった。
美濃国住金重が、気道を斬り裂いて頸骨に当たる。
がりがりと骨を削る音が響き――
おⅡは、青白い顔で息を吐いた。
左手で乱れた髪を掴み、獺の待つ濡れ縁に戻った。
月明かりに照らされた顔は、返り血で濡れていた。白い寝間着が赤く染まり、先程とは別人のようである。
「これを……」
おⅡは武太夫の首級を掲げた。
徳川中納言秀忠の旗本――六百石取りの首である。
「
獺は鷹揚に宣告した。
慶長六年五月下旬……西暦一六〇一年六月下旬
傾城屋……娼館
吝い……ケチ
一尺一寸……約33㎝
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