What a ordinary day

日暮ひねもす

What a ordinary day

 長らく恋をしていた女に失恋したので、今日の食卓にはシャンパンとケーキと花束が並んだ。

 「おまかせで」とぶっきらぼうに告げて包んでもらった花束にはアネモネがささっていて、あの店主、気でも利かせてくれたのかと苦笑した。別にそんなことはないのだろうけど。

 荷物の入った紙袋を置き、花を飾る。簡素な一人暮らしの部屋にアネモネの花。さびしくなくっていいんじゃないだろうか。ただ水を換えるのは少し面倒だ。私の代わりに換えてくれる人はいないわけだし。昔育てていたカーネーションは枯らしてしまったので、自分が植物の面倒を見られるほど殊勝な人間でないことは自覚している。それが鉢植えであろうと、花瓶であろうと。

 箱を開けて大好きなラズベリータルトを取り出す。うっかりホールで買ってしまったのだった。ナイフで切り分けてデザート皿に並べると、ずいぶんと使われていなかったそれらはなんだか上品に見えた。

 ふと、気がつく。シャンパンのコルク栓を開ける道具がこの家にあっただろうか。わからない。ここに住んで幾年、その前の記憶がすっかり遠いもののようで、引っ越しの時にどうしたかなんて、尚更思い出せないのだった。頑張れば手で開けられるか……なんて私らしい結論に至る前に、引き出しの奥から栓抜きが現れた。よかった、ここまできたら徹底していたかったから。

「乾杯」

 乾杯。おめでとう、私。夕飯は外で食べてきたし、本当はお腹なんてすいていないんだけどな。さく、とタルトが軽い音を立てる。ラズベリーの酸味もタルトの甘味も、じんじんと染みるくらいに幸福感を伝えてくれる。ここ十年で一番美味しいと思った食べ物はこのラズベリータルトの他にない。どんなに思い入れのある食事よりも、一人で食べるラズベリータルトの方が美味しい。お腹が空いているから美味しいとか、人と食べたから美味しいとか、そんな「甘え」を遥かに凌駕するのだ。条件がないと美味しさがわからないものより、一人で食べても変わらず美味しいものが一番に決まっている。

 私はこの八年、そういう条件付きの美味しさに溺れてきた。あの人と食べる料理は美味しかったし、あまり好きではないビールだって飲めた。

 とぽとぽと注がれたシャンパンの底にあの日の思慕が揺れた。

 あの人は、私に「そのままでいいよ」と言った。気持ちは返せないけれど、あなたの好きなようにして。そのまま、私のことを好きでいていいよ。私は腹を立てて、それなら一生あんたを好いてやると、心の中で叫んだ。多分あの人はそんな顔に気がついていた。そういう笑い方をしていた。

 私は、若かった。世界がどれだけ変わろうと自分の心は変わらないものだと信じきっていた。自分の燃えるような恋心の不変を、あの人の前に示してやりたかった。

 好きになったのは八年前。想いを告げたのは七年前。あの人が結婚したのは五年前で、その時だって新郎新婦が永遠を誓うように、彼女への永遠を誓ったつもりだった。彼女は、欠かさず私に会っていた。産休で職場に来なくなってからも、彼女の方から連絡をくれて、近況を聞きたがった。母親になるというのに、出会った頃と全く変わらない目つきをして、「で?」「あなたに、変化はあった?」と聞くのだ。

 彼女の子どもに初めて会ったのは一年前。見せてもらっていた写真よりも随分大きくなっていたので驚いた。私は子どもが得意ではないけれど、なんだか魂が抜かれたように彼女の娘を眺めていた。あと十年もしたら彼女に似て来るだろうと思わせる顔だちだった。彼女の結婚相手に挨拶をすると、穏やかに笑った。笑い方が彼女に少し似ていて、ああ、そうなのかと妙に納得したものだった。

 私は彼に負けたわけではないので、一片の嫉妬心も生まれなかった。彼女を幸せにできる確信はあったし、そもそも私と出会う前から彼らは知り合いなのだ。当時から交際をしていたわけではなかったが、彼がいようが、いまいが、私は彼女に恋をしていたし、叶わなかっただろう。

 半年前に会った時、来年から職場に戻ると告げられた。嬉しかったが、同時に一体どれだけの時が過ぎたのだろうとぼんやり考えた。私は彼女の机の配置をもう覚えていなかった。

 三ヶ月前、再び会った時、いつもの店の料理の味が変わっていたので、私はがっかりした。ここの店のグラタンが私は好きだったのだ。そのことを彼女に伝えたが、「変わったのね」とひそやかに笑うばかりで、大して気にしていないようだった。彼女と別れた帰り道、窓の外で走り去る街並みを眺めながら、あれ、と思った。あれ、何か違う。街並みはこんな姿だっただろうか。家までの道のりはこんなにも、日常と地続きだっただろうか。古いトタン屋根の家を見ながら、私は泣きそうになった。ああいう屋根が私の実家にもあったのだ。こんな時に、そんなことを思い出すなんて。

 そして、今日。彼女のコートの袖に綻びを見つけてしまった時、私は寂しい確信を得た。


 失恋には、花束と、シャンパンと、ラズベリータルトを手にするくらいの余裕がなければいけない。

 店を後にして、私はその足でシャンパンの瓶を買い、ホールのラズベリータルトを買い、アネモネの花束を買った。

 私は家に瓶の酒を置かないタイプだし、花は枯らしてからあまり買っていなかったが、どちらも好きだった。十年ほど前には友人を家にあげてケーキを食べたこともあった気がするのだが、最近はめっきり家に人を呼ばなくなってしまった。部屋の静寂は妙に重くて、今までどうやってこの静けさを耐えてきたのかわからなくなり、音楽をかけた。

 失恋の最大の虚しさとは、恋愛によって底上げされた世界の恩恵を受けられなくなることだ。好きではない食べ物も美味しく感じて、朝起きる辛さが軽減されて、外に出ることが億劫でなくなる。そういった、無根拠な恋の副産物が得られなくなったとき、手元に残るのは簡素な日常だった。もう私の心を救ってくれるのは、いつまでも美味しいラズベリータルトくらいしかないのだと気がついてしまう瞬間、自分の底が抜けて、寂しさという風が一気に吹き込んでくるのだった。

 恋愛の終末期には、自分が愛しているのが相手自身か副産物の恩恵かの区別がつかなくなってくる。これが契約を結んだ共同生活ならば、その副産物だけを愛していたって問題ないだろうし、それはある種の普遍的な夫婦生活だとも聞いたことがある。

 でも私の愛は一方的なもので、それが廃れようと誰も引き留めてはくれないし、好きな相手にすら関係のない話なのだ。彼女の好きにしていいよ、はどうだっていいという意味だ。私は好意によってあの人を揺らがせることすらできなかった。凪いだ水面に石を投げ入れたつもりだったのに、私の感情は大海に砂つぶを混ぜたようなものだった。

 愛されなかった時よりも、自分がもう恋をしていない、と気がついた瞬間、漠然とした喪失感に襲われた。いつまでも続くと思っていた人生の指針は、いつの間にか溶け消えていて、それでも私は歩けていた。

 全ては過去へと流れていく。あの日の恋心も、手に届かないほど遠くへ消えてしまった。全てを捧げてもいいと思えた相手がいなくても、自分は生きていけるのだという薄情さを認めるのに、ずいぶん時間がかかってしまった。恋がなくとも人は生きていける。恋をしたあなたとではなくても、日常は続いていく。この人しかいないのだという幻想は、奇しくも彼女と過ごした日常によって上書きされていった。

 

 今日も、彼女はいつものように、八年前と何も変わらない目つきで私に尋ねた。

「どう? あなたに、変化はあった?」

 初めて、私は「あった」と答えた。

「そう」

 彼女はそれだけ言って、何も聞いてこなかった。

 グラタンはやはり昔ほど美味しくはなくて、酒を飲む気にもならなかった。この八年間、ついぞ尋ねなかった言葉を彼女にかける。

「あなたには、変化はありましたか」

「どうだろう」

 彼女は少し黙ったあと、私の目を見た。

「今、あったかな」

 私は苦笑した。よくもまあつまらない意地を張ってきたものだと思った。

「そういえば、来月誕生日でしょう。当日には会えないから、これ」

「はあ、ありがとうございます」

 軽い紙袋を渡され、予想だにしなかったので素っ頓狂な声を上げて受け取った。そういえば十日後が誕生日だったのだが、すっかり忘れていた。おそらく無難な消耗品の類が入っているだろうそれは、私の心に大きな波を立てるでもなく、静かに手の中におさまった。

 別れ際、二度と会わないわけではないのに、「じゃあまた」ではなく「さようなら」という言葉が口をついて出た。さようなら。もう続いてゆかない何かよ。


 カラン、と皿に置いたフォークが音を立てた。一切れ分のラズベリーケーキを食べ切って、明日からの生活を想う。とりあえずこのケーキがなくなるまでは、進まないことを許されるだろうか。八年も立ち止まったままだったので、歩き出すのが難しいのだ。ふわふわと宙に浮くことのない日常。現実的な目標だけで、その日常を立ち行かせるのは、少し疲れる。シャンパンやケーキや花束があって、ちょうどいいくらいだ。

 ただ続いていく生活を直視するのは久しぶりだった。あの人に会うまで、ずっとそうやって生きてきたはずなのに。誰かに振り回されることのない、人生の操縦権が戻ってきたような気がした。ああ、おかえり。やっと帰ってきたんだね。なんて平凡で、愛おしい日常だろうか。

 シャンパンを飲み干し、透明になったグラスの奥に、受け取った紙袋が映り込んだ。中を開けると、軽い小箱の他にカードが入っていることに気がつく。

 小さなメッセージカードには、彼女の手書きで「おめでとう。素敵な一日にして」と書かれていた。十日後の誕生日も待たずに、私は少し涙ぐんで笑った。

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